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無感情の無くしたもの


一泊を決めた古めかしい宿屋のフロントは飛び交う会話で騒がしい。
四方板張りの壁にカウンターと各個室へ向かう階段以外障害物のない空間では、何人かの人間がそれぞれ駄弁っていた。

まず自分のツレである橙の髪を持つ明るい少女、琥珀。その隣で控えめに佇む若草色の髪の彗は、細身の少年だ。
二人とのツレたちと話し込むのは大柄でやたら筋肉の盛り上がった体の男と、そんな男と真逆にほっそりとして手足の長い優男。
四人は店の入り口から向かって右の区画に置かれた丸テーブルを囲んでいる。

反対の区画では同じように置かれた丸テーブルで話す派手な女と化粧をした男。つい先ほどまであそこには人だかりができていた。かなり個性的な人間ばかりであったのと、それぞれ小道具を抱えていたことから、多分彼らは大道芸集団かなにかだろう。


俺は右区画中央に置かれたソファーから彼らを見ている。笑ったり、顔を歪めたり、驚いたりとそれぞれが表情をコロコロ変えて忙しない様子を、ソファーの背もたれに寄りかかって観察していた。
今フロントにいる俺を除いた六人の中で特に感情の起伏が激しいのは琥珀だ。
大声で笑ったかと思えば、不機嫌そうに睨みを利かせる。怒ったかと思えば誇らしげに目を輝かせもして、じっとすることをしない。
そんな風に表情を変える琥珀を彗はひやひやしながら見ている。正面の男たちが機嫌を悪くしないか気が気でないんだろう。

もう何十分も観察を続けているが、特に珍しいものは見ることはなかった。
徐々に観察するのも面倒になってくる。
背もたれに沿うように体をズルズルとソファーに沈ませた。じっと見続けた人々の動きがなぜか不自然なものに思えてくるような錯覚を覚える。
今この目に写り込んでいる何もかもが俺とは遠すぎる。

感情に溢れたこの場で、俺だけが一人だった。




おそらく、俺は人間らしさというものを失くしてしまった時点で不完全な存在になったのだろう。
誰かの言う、美しいものから美しさを感じない。誰かの持つ、大切であるべきものを大切だと思わない。

笑う人々の中で、俺だけ笑うことはない。

悲しむ民衆の中で、俺だけ泣くことはない。

苦しむ群衆の中で、俺だけ苦痛を感じない。

動かすことを忘れた筋肉は自らの意思で動かせない。
動かない。

無しか映らない目に囲まれた日々で、俺がなくした人を人たらしめるもの。取り返せるものなのだろうか。
思い出せるものなのだろうか。
もしも、取り戻す事の可能なものだとしたら、どうすればいいのだろう。
失くしたそれを、惜しげもなく溢れさせているお前をずっと見ていれば、思い出すことが出来るだろうか。無くした感情をもう一度得ることが出来るだろうか。



「ふぎゃああぁぁぁぁっ!!!」

突然響き渡った叫び声に、俺は微睡みかけていた意識を引き戻された。
木で組まれた天井をぼんやりと眺める。そのまま再びうつらうつらと瞳を閉じ、

「だだだだ、駄目ですよ琥珀さん!あわわ…翡翠さん!翡翠さん助けてくださいぃ!」

…ようとして閉じるのを邪魔された。
二度も睡眠妨害に合わなければならないほどの緊急事態かと思いながら、寝転がっていたソファーから背を離す。
どこかぼんやりしたままの頭を動かして、声のした方を見る。

宿屋内の広い一角で橙の髪の小柄な少女が(一方的に)自分の倍以上はあるだろう大柄な男とプロレスに興じていた。琥珀だ。
助けてと叫んだ彗はその傍らで、若草色の髪を振り乱し挙動不審に陥っている。
大柄な男のツレであろう優男も現場から数歩離れたところで顔を引きつらせている。
フロントの空気が先程とは異なった喧噪に包まれている。暫く違和感漂うプロレス現場と、あわてふためく小柄な少年を交互に眺めた。
そこでバチッと彗の目が俺の視線とあう。彼の唇が動いた。


『止めてください』


怠い体をのろのろとソファーから起こして、思い身体を引きずるようにしながらプロレス場に歩み寄る。
琥珀は丸太ほどある男の両腕を器用にまとめあげ、そのまま相手の背中を踏みつけ腕を力一杯引いていた。
男の姿はまさに海老反り状態。見ている角度の関係で男の表情は見えないが、脂汗が滝のように溢れていることからかなり苦しんでいる様子だ。

なんて異様な風景だろう。
まさかこのような事態になるとは、この場にいた誰も予想していなかっただろう。
もちろん俺自身も琥珀がおかしな方向に暴走するとは思いもしなかった。
けれど別段驚く事でもないので、対処を急ごうとも思わない。むしろ対処などしたくない。
面倒なことこの上ないが、彗に助けを請われた手前仕方ない。

まず男を痛めつけている琥珀の後ろに回り込む。
男の身体を跨がないようにしながら、俺は男の腕をまとめあげている琥珀の両手を彼女の背中から包み込むように掴んだ。瞬間不機嫌さを増した琥珀の雰囲気は一切無視する。
掴んだ手にグッと力を込めた。そこで琥珀の手から僅かに力が抜けると、俺は右の足を後ろに振り上げる。

そして、そのまま思い切り男の体を蹴り飛ばした。

だるま落としの要領で琥珀だけストンとその場に降りる。
飛ばした大柄な男はまるでボールのように転がり、ものすごい勢いで壁に衝突した。響いた轟音に、優男が慌てて大柄な男に駆け寄るのが視界の隅に入った。

「何すんだよ」

ドスのきいた声が耳を震わせる。
視線を戻せば、ちょうど琥珀が俺の方へ振り返るところだった。
僅かな身長差でこちらを見上げる瞳は、太陽が輝く淡い空色に煌めいている。
その見慣れた色を見つめ返しながら俺は思ったことを呟いた。

「寝かせろ」
「はあ?勝手に寝てろ。このドアホ」

掴んだままだった手のひらが振り払われ、琥珀の体がさっさと離れていく。
中途半端なところで静止したせいで不完全燃焼だったのだろう。残った不満の分だけ腕をぶんぶん振り回している。
その挙動一つひとつに捻り上げられた男が震えているのに奴はきっと気づいていない。
役目を終えた俺は欠伸を噛み殺してソファーに戻ることにした。
その途中で再び彗と目が合った。今度は顔面蒼白にして震えている。

見たことのない表情だ。

じっと暫く観察して、どうやら驚きのあまり固まっていることが分かった。
そんな単純なことなのに、いくつも表情があるところがややこしい。
彗から興味がなくなって、ソファーにもう一度寝転がった。
欠伸をひとつかいて、今度こそ寝つくために意識を手放していく。
だがしかし、ドスッという衝撃に俺の眠りは再三邪魔された。
鈍い痛みの広がる腹部に重みを感じながらゆっくり目を開けると、先程とは違う感情を映した空色が見えた。

「翡翠。ヒマだ」
「……」
「バーカ。お前じゃねぇよ。俺がヒマなんだ」

拗ねたように唇を尖らせる琥珀。
俺の腹の上に馬乗りになっている姿は女だというのに本当に節操がない。

「失礼だぞこの野郎」
「…お、」
「残念だったな。生憎そんなもの捨ててきたよバーカ」

俺は何も言っていないが、琥珀からすると俺の目は口ほどにものを言うらしい。
目を合わせていれば、俺の考えていることがお見通しだとかなんとか。
端からすれば琥珀が一方的に話しているだけだが、そんな琥珀の理解しがたい勘のおかげで一応意志疎通はできている。
それに俺は元々喋るのはかったるい性質なので楽ができるのはいい。こういうところで琥珀と一緒にいるのはかなり楽だ。

目を合わせたまま腹に乗った琥珀を落とすよう体を捩る。
しかしそれで落ちるわけがなく、逆に太ももで腰をホールドされた。邪魔だ。
喋らなくていいのは楽だが、絡まれた時の琥珀は大分鬱陶しい。
しかも、こいつの場合考えは突発的で、解決の条件もやたら主観的で面倒くさい。しかも今の俺はかなり眠い。付き合いたくない。

「ヒマだって言ってるだろ」
「知るか…どけ」
「やだね」
「…一人遊びに興じてろ」

眠気からくる気だるさに相手をする気も起きない。もうこのまま眠ってしまうか。
合わせていた瞳を閉じて遮断する。
するとなぜか少しだけ拘束が弱くなる。
なぜ力が弱くなったのかはわからないが、どうせならこの隙に落とすか。
そう考えてうっすらと目を開く。



揺れた空色を目にした瞬間、俺は飛び上がるようにして琥珀の顔を間近から覗き込んだ。


ヒュッと息を呑んだ琥珀が目を見開く。
違う。そんな驚きはいらない。
俺が見たいのはそんなものじゃない。
ほどよく日焼けた肌にうっすらと朱がさした頬。
半開きになった淡い赤に色づいた唇に小振りの鼻。
そして、透けた空色の奥に見開かれた琥珀を映し込んだ瞳を、探る。

「翡翠…?」

普段より弱々しい声が自分を呼んだ。
いつもと違う琥珀。
いつもと違う姿を見せる色の奥の奥まで潜り込む。
だが、それはもう影も残さず消え失せていた。
それを悟った瞬間、スッと興味が冷めていくのが分かる。
目を閉じて、ソファーに倒れ込んだ。
遠くの方で琥珀の声が聞こえるが、眠ることに意識を傾けた俺には意味のある言葉として捉えることができなかった。
静かに全ての感覚が遠ざかっていく。




無しか映らない目が俺を囲む。
無しか映らない目に俺の姿が見える。
無に染まってしまった俺が無感動なままその目を見つめ返す。

感情とはなんだっただろう。

ただ遠くなっていた、俺にもあったはずのそれが分からない。
思い出せない。

取り返したいが、その方法が分からなかった。

あいつに会うまでは。


琥珀は孤独だった。
俺に近い存在でありながら対極であるようにかけ離れた少女。
有り余るほどの激情を隠さない性格。
それでいて、一番肝心なものだけは絶対に見せることはない。
喜びも、怒りも、驚きも、焦りも、楽しみも、困りも、苦しみも、切なさも、呆れも、恥じらいも、強がりも、期待も見てきた。
でもまだ足りない。全てを見ていない。

なあ、早くお前のそれを俺に見せてくれよ。
まだ一度も表に出てこないその感情をさらけ出してくれよ。


お前の見せない、たった一粒の悲しみを見ることができたその日に。

きっと俺は、俺が無くしたものを取り戻すことが出来る気がするから。


++++++
授業課題に書いたものです。
指定が「一人称」ということで淡々と書けるかなぁと思って翡翠くん。
本編っぽいものを意識してます。結構書きやすかったです。

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