凍える水面の向こう側
「ねえ、」
冷えた空気。
肌にぴりぴりと感じるほどの殺気。
この状況に似つかわしくない、甘えたような声。
「兄さん――」
誰の声か、などという疑問は不要だった。
そんな風にラグナを呼ぶのはただ一人しか居ない。
「…ジン!」
剣の柄を握る。
凍りついていく空気の中をかいくぐり、殺気のもとへと駆ける。
力任せに振り下ろした剣は、甲高い音を立てて止められる。
月明かりに照らされた白い刃が、ラグナの持つ剣の下から顔を覗かせる。
アークエネミー・ユキアネサ。
美しいその刀身は、夜の闇の中でも凶暴にぎらついて見えた。
「てめぇ…何しに来やがった」
「あはは、そんなに怖い顔しないでよ、兄さん」
ぐ、と剣が押し返される。
凄まじい冷気がラグナの周囲を覆った。
弾かれるように後ろへ飛ぶ。
氷で形成された刃が追うようにして迫ってくるのを、剣でなぎ払った。
「僕はさ、だた兄さんに聞きたいことがあっただけだよ」
砕けて散る氷の破片の向こうで、ジンは薄ら笑いを浮かべた表情のままだ。
聞きたいことがあるのはこちらの方だ。
攻撃の姿勢を見せないジンは、そんなラグナの気持ちなど知らず、語ることはやめない。
「そう…兄さん、兄さんはどうして――」
ふと、物憂げな表情がジンの顔に浮かぶ。
いつもの狂気じみた表情は消えうせていた。
だからこそ、ラグナもジンの問いかけを無視して切りかかるようなことはしなかった。
「どうして、そんなに服を着ているんだい?」
「――っ馬鹿かテメェは!」
着てなきゃただの不審者だろうが! という思いと共に、いまだ脳裏をちらつくジンの先ほどの表情をふりはらい切りかかった。
酷いなぁ兄さんは、なんて言うジンは心外だと言わんばかりの表情だ。
「だってさぁ、酷いと思わない?」
押し合う刃。
やや感情にまかせて打ち込んだのは失敗だと悟った時は既に遅く、セラミックの刃がユキアネサと触れている部分から急速に凍っていく。
剣を伝って手へ、腕へ。
氷に覆われたそこは自由が利かず、いつの間にか凍っていた地面に足元をとられ、最後の一押しにとジンがラグナの剣を強く押し返した。
地面に背中から叩きつけられ、腕を縫いとめるように氷が覆っていく。
くそっと小さく悪態をつく。魔導書の力で振り払う間もなく、腰のあたりへジンが馬乗りになってきた。
「くそっ、どきやがれ…このっ…!」
「ほら、こうやってこんなに距離が近くったって、僕達の肌が触れあうことなんてできない」
もがこうと叫ぼうと、意に介したふうもなく、ジンは言葉を続ける。
「ねえ、ほら…兄さんの体温、感じれないよ」
「ふざけたこと、言ってんじゃ、っぐぁ!」
肩口のあたりへ、ユキアネサの刃先が軽く埋められる。
ぐっと押し込められて沈む冷たい刃が、焼けるような痛みを引き起こす。
ラグナの苦痛の声を聞いてか、ジンが喜悦の表情を浮かべる。
はぁ、と嬉しそうな吐息が零すと、勢い良く刀を引き抜く。
ユキアネサを地面へ突き立てると、空いた両手をラグナの体へと這わせ始める。
首筋を辿り、左手は、胸の――心臓の上で止まった。
「こんなにも近いのにさ、鼓動くらいしか分からない……あはっ、兄さんすごいどくどくいってる…まさか、怖いの?」
「そんな訳…っ」
あるか、と続けようとした言葉は、ジンの唇のむこうへ飲み込まれる。
突然の状況に理解が追いつかず、されるがままになっていたラグナは、ぬるりと舌が入り込んできてはっとした。
「…っ! はははっ、兄さんってば…そういう所、相変わらずなんだから」
「はっ…っ、噛み千切った、つもりなんだがな…」
辛うじてできた反撃は、その舌に噛み付くことだけだった。
けれどそれが、逆にジンの何かに火をつけてしまったらしい。
ジンが突き立ててあったユキアネサの柄に手を伸ばす。
風を切る音、そして冷気と鋭い痛み。
胸のあたりへ、横向きに傷が走る。
浅く肌のあたりまで刃は届いたらしい。
心臓の真上へ置かれていた手が、するりとその傷の上を舐めるようになぞった。
手袋の、やや硬い感触がぴり、と痛みを増幅させる。
「ああ、ごめんね兄さん。こんなもの、外した方が良かったね」
指先が赤く染まった手袋をするりと抜き取って投げ捨てる。
片手にはまだ、ユキアネサは握られたままだ。
今度はあらわになった手で、指で、傷に触れてくる。
「兄さん、兄さん…にいさん」
「っ…く、やめ…ろ…!」
破けた服の隙間から、直に手が肌の上を滑る。
傷口から流れる血でぬるりとした手の感触が気持ち悪くてたまらない。
「…ぁあ…、すごく、ぬるぬるしてるね…これが、兄さんが生きてるってことだよね。クク、嬉しいなぁ」
嬉しそうに弾む声音は、あまりにもこの状況には似つかわしくない。
「だってさぁ…また兄さんを――『殺せる』んだから」
本当に嬉しくてたまらないのだと笑うジン。
「もっと、もっと、楽しもうよ……ねぇ、兄さん」
凍える空気。
痛いほどに伝わってくる歓喜。
この状況に似つかわしくない、甘えたような声。
ユキアネサの刃が、月光の下で煌いた。
ハグだとかキスだとか体温だとか
(どうでもよくないけどとりあえずその前に邪魔)
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