旗を滑り落ちる雫


冷たい雨が、灰色に曇った暗い空から降り注ぐ。
ゆるやかだった勢いは次第に激しくなり、ロイドへ容赦なく打ち付けてくる。

雨は体温を奪い、鳥の囀りや木々のざわめく音すらかきけす雨音は心細さを強め、知らない景色は不安を煽った。
涙が滲みそうになったのを、唇をかみ締めることで耐えた。

泣いちゃ、駄目だ。
頭のてっぺんからつま先までずぶぬれになりながら、光を遮る雲を睨みつけるように見上げる。



――喧嘩を、した。
喧嘩といっても、いつもと変わらない、ささいなことだった。
けれど今日はたまたま、悪い偶然が重なってしまった。



いつもなら、ロイドは外に飛び出すようなことはしない。
それにもし飛び出したとしても、すぐに兄に見つけ出されてしまう。
けれど今日はたまたま、兄を振り切った勢いで外まで出てきてしまった。
そして無我夢中で走ったために、すっかり道を見失うこととなった。
偶然にも雨が降っていて視界が悪く、
そういった悪い偶然が重なった結果――ロイドは今、迷子になっているのである。


ごし、と袖で目元をぬぐったが、袖も濡れているため意味は無かった。
前髪が張り付いて鬱陶しかったから拭っただけだ、と誰にするわけでもなく言い訳を頭の中でロイドは述べる。

ゆっくりと、落ち着いて辺りを見回してみる。
いくらがむしゃらに走ってきたとはいえ、そう遠くまでは来ていないはずだ。
そうはいっても、少し道と外れた場所に出てしまったようで、いつ魔獣が襲ってくるともわからない状況に置かれている。
その事実が、じわりと恐怖を生み出した。
自覚とは恐ろしいもので、途端にそれは体中を支配する。わかってしまえば、あっという間だ。


「…っ帰らなくちゃ」

どちらに行けばいいのかなんて分からなかった。
けれども、帰りたい、帰らなくてはという気持ちが、ロイドの歩みを進ませる。

ぼんやりと、雨の幕の向こうに導力灯の光が見えた。
街道沿いに出てこれたのかもしれない、ほっと息を吐く。

帰って、謝ろう。ごめんって言わなくちゃ。
決意を固め、進みだそうとした、その時だった。

雨音以外の何かが、ロイドの耳へと届く。
荒い息遣い。人間にはない、低いうなり声。

慌てて辺りを見回す。ばしゃりと足元で水が跳ねた。
それに呼応するように、ロイドの周りでもばしゃばしゃと水を蹴る音がして、徐々に音は大きく、近くなっていく。


寒さか恐怖か、膝が震える。
逃げなければいけないとわかっているのに、凍ってしまったように足は動いてくれなかった。



「――ロイドっ!!」


鋭く名前を呼ばれて、さっきの硬直が嘘のように解けていく。
がしりと力強く腕を捕まれて、引っ張られた。

「こっちだ、急げ!」

ロイドの名を呼ぶその声は、ロイドの手を引いて走るその背中は、
間違いなく、兄の――ガイのものだった。

傘もささずに、びしょぬれになって、二人して雨の下を走る。
さっきの叫び声から、一言も喋らない兄に微かな不安を覚えても、息をきらせながら走っていては、その疑問を口にすることすらできないでいた。


やがて、背後に迫る魔獣たちの気配も失せて、町の明かりのすぐそばへ来た所で、突然兄が止まった。
ロイドに向き直って、じっと、静かな表情で見下ろしてくる。

「…ロイド」

いつもよりずっと低くて、怒っているような、どこか泣き出しそうな声で、呟くような声で、ぽつりと名を呼ばれた。
すっと兄が動く。
怒られる、と思って思わず身を固くしたが、縮こまった体をそのまま抱き込まれて、驚いた。

「あに、き?」
「…お前まで、」

お前まで、失ったら。
ロイドの声にかぶさるように、小さく落とされた声があまりにも、弱々しくて、少し戸惑って、それでも痛いほどその気持ちはわかった。
幼い頃に両親を失って、辛かったはずなのに、しっかりとロイドの手を引き、導いてくれていた兄が。
もし居なくなってしまったら、なんてことを考えるのは、恐ろしかった。
それは兄も同じには違いないと、抱きしめてくる腕も震えていることでそう思う。

そっとその背に手を回す。
ここに居るのを確かめるように強く抱きしめられている今、謝罪の言葉を言うのは、何かを否定することになりそうで、できなかった。

二人の上へと降り注ぐ雨が、遮られた。
大きな傘が差し出されたためだ。

そっと顔を兄の胸元から離して、新たな人影を見やる。

「…セシル姉」

名前を呼ばれて、ふわりと彼女は微笑む。
肩に掛けているバッグからタオルを2枚取り出して、抱きしめあったままの二人へふわりとそれぞれの肩へそれを掛けた。

「帰りましょう、ガイさん、ロイド――風邪をひいてしまうわ」


ああ、と力なく兄は微笑む。
体を離して、片手でロイドの背を押しながら、帰路へとついた。



ざあ、と雨とはまた違う水音が、風呂場に響く。
このままだと風邪をひくということで、ロイドは兄と一緒に入ることになった、のだが――

兄はほとんど喋らない。
ロイドを前に座らせて、髪を好き勝手に洗われている。

「ロイド、泡流すから目ぇしばらくつぶってろ」
「ん、」

頭のてっぺんから暖かいシャワーが降り注ぐ。
冷えた体にはぬくもりが染み入ってくる。

もういいぞ、と言われてゆっくり目蓋を上げる。
すると自分よりも少しばかり体温の低い手が首筋に押し当てられて、びくりとしてしまった。

「あ、兄貴?」
「大丈夫、だな。」
「え…」
「ちゃんと、暖かくて安心したんだよ。…心臓が止まるかと思ったぞ…」

いつもの声色に、少しだけ情けない響きが混じって、それにひどく安堵した。

「だったらそんな縁起の悪いこと、言うなよな」

もたれるようにして体を預ける。そして兄を見上げた。
どうしたんだと優しく見返してきた。


「…その、さ」


今なら言えると、ロイドは言うべき言葉を静かに、けれどシャワーの音に負けないくらいの大きさではっきりと、声に出した。





浮かべ、散る飛沫よ
(鈍色の輝きで)


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