ハング・ファイア


 最近よく、霧野先輩と目が合う。
別にそれは俺が先輩を見つめているわけでもなく、ましてやその逆というのもありえない話だ。
それに原因はわかっている。どう考えても目の前でコイツ――松風天馬だろう。
その天馬くんとは言えば、珍しく、本当に珍しく浮かない顔で卵焼きを一切れ口の中に放り込んでいた。
いつもならにこにこ笑顔を振りまいて、よく喋る。もう何度口の中に物を入れて喋るなと注意したことか。

 朝は居たって普通だった。いつも通り元気にボールを追いかけて、これから授業もあるし、放課後にだって部活はあるっていうのに、へとへとになるまでグラウンドを走り回っていた。
授業中だって眠たそうに目をこすって、その後案の定机に突っ伏して寝ちゃったところを先生に注意されている
ことだって日常茶飯事。朝からの天馬くんの行動を一つずつ思い出しながら――あれ、なんで俺、こんなにくっきりはっきり、天馬くんの一挙一動を覚えてるんだ?


「ねえ天馬、どうかしたの?」
「えっ、どうかした…って、俺が?」
「うん。さっきからずっとボーッとしてたよ」

 信助くんの言葉にはっと我に帰った。まさに俺が聞きたいと思っていたことだったので、心の中でひっそりと「ナイスだ信助くん」と声援を送っておいた。同じことを考えていたのか、空野さんもうんうん、と頷く。
いい援護射撃だ。便乗して問いかける。「また筋肉つかないーって悩んでたりするワケ?」多少のからかいを混ぜれば、天馬くんは慌てて腹を腕で抱えるようにして隠す。よっぽど以前くすぐられたのが効いたみたいだ。

 ふとあの時の霧野先輩の言葉を思い出す。色気が無ければなんとか、って言っていた。
冗談半分にしたって、面白いものじゃない。そういえばあの日から、先輩と目が合う回数が増えてきている。
目が合う。もしくは視界のどこかに、あの目立つ桃色がある。
準備運動やパス練習で、誰かに「一緒にやろう」って天馬くんの声がした時は、いつも。
天馬くんの声は大きい。それにまだ変声期が来てないから女子みたいに高くてよく通る。
びっくりするくらいに、すうっと耳へ飛び込んでくるんだ。だから思わず声のする方に目が行ってしまう。振り向いてしまう。聞こえない時には、耳を澄ませて声を探してしまう。

そしてそのたびに、霧野先輩と目が合う。

――ああなんだ、そういうことか。

ぐるぐる回っていた思考が、ストンと一つの場所に落ちる感覚。
ごう、と冷たい秋風が教室を吹き抜ける。その音を聞きながら、目を閉じた。


「別にたいしたことじゃなくってさ」

 心地よい声に耳を傾ける。

「ただちょっと、怖くて」


 目を開けて天馬くんを見る。空に灰色の絵の具を一滴混ぜたような色をした瞳が、かすかに揺れていた。
風に栗色の癖っ毛が羽ばたくみたいに靡く。これをいつも目が追っていた。でも、それは俺だけじゃなかった。


「……何が?」


 同じものを追いかけて、焦がれて、求めているのなら、嫌というほど目が合うというのも理解できる。
理解してしまえばもう遅い。居心地が悪くてむずがゆくて、けれど決して不快ではないそれ。


「『ハートを射止める』っていう、言葉が」

 え、という声が重なった。俺と信助くんと空野さんの三人ぶんだ。
首をかしげた俺たちの中で、真っ先に「なるほどね」と言ったのは空野さんだ。
俺と信助くんは顔を見合わせる。「ねえ狩屋、今のわかった?」いや、わからねーよ。「…だよね」


「さっきクラスの女の子たちが話してたこと、聞こえちゃったのよね、天馬?」
「…う、うん」

 説明を求める俺たちの視線がわかったのか、「雑誌の特集であったの」とこっちに向けて空野さんが続けた。

「彼のハートを射止めちゃえ!ってやつ。でも、どうしてそれが怖いって思ったの?」
「だってさ、「いとめる」って矢が刺さっちゃうんだよね。それってすごく怖いよ!」

両手をぎゅっと握りこぶしにして力説する天馬くんに、今度は信助くんが「そっかぁ!」と声を上げた。

「天馬の化身って「ペガサス」だからじゃない?」
「あ…! そうかも! 信助冴えてる!」

 もしそうだったら、翼をもつ化身を出せる奴はみんなそれが怖いってことになるんじゃねーの。
と思いはしたものの、言葉には出さずにおいた。一理あるかもしれないからだ。
 俺だってそんなにたくさんの化身を見たことはない、だけど化身と化身使いにはどこか共通点のようなものがあると、そう感じる時がある。
魔神ペガサスの、目を惹き付けられるあの翼。見るものを圧倒させる、夕日より激しく燃える朱色。魂を奥底から揺さぶってくる雄たけび。逃げ出したくなるくらいに真っ直ぐで、嫌になるほど暑苦しいのに、目が逸らせなくなる。


「大丈夫よ天馬。実際に矢が飛んでくるわけじゃないんだから」
「そ、そうだよね!」
「いやー、それはどうかな」
「えっ」

 天馬くんの晴れた表情が、途端に曇った。

「世の中には手段を選ばない奴が居るかもしれないぜ?」

 怯えと不安が滲んだ瞳が俺を見た。
そうだよ、もっと見ろよ、俺を。

「まあ、もし俺がその時近くに居たら、射止められようが撃ち落とされようが、ハンターズネットで受け止めてやってもいいけど」
「それホント!?」
「うわっ」

 ずいと顔を至近距離まで近づけられて、心臓が跳ねた。こんな風に相手側から近寄られるのには慣れていない。
握られた手からは天馬くんの高い体温が伝わってくる。あっという間にその熱が頬を赤くさせてきて、まずい。
離れなきゃまずい。なのに、離れて欲しくないなんて思っている。さっきもそうだ。らしくないことを言ってしまった。
受け止めるとかそんなのは言うつもりじゃなかったのに、ただ誰かに天馬くんが射止められるとか冗談じゃないって思った。そうしたら勝手に言葉が零れて、それで今こんな状況に陥っている。
 自分の気持ちに気づいてしまえば案外厄介なもので、どこかで鳴る警鐘を、うるさい心臓の音がかき消してしまう。
今、天馬くんの手を引っ張って抱きしめればどんな反応をするだろうか。見てみたい、という思いを脳が命令として受け付けそうになった時、教室内にチャイムが鳴り響いた。がやがやとクラスメイトたちの話す声や、がたがた机や椅子を元の位置に戻す音に、なんとかその衝動を撥ね退けることに成功した。

「あ、次って確か移動教室よね。急がなきゃ!」
「わっほんとだ! 天馬も狩屋も早く準備準備!」

 空になった弁当箱を片付けながら、いかにさっきの状況が危ういものだったか思い知る。
信助くんや空野さんどころかクラスメイトだったたくさんいるこの教室でそんな事をすれば明日から何を言われることやら。
危機感を覚えつつ、まだ少しに残っていたコーヒー牛乳を飲み干した。
今日のコーヒー牛乳は、いつも買っているものと違ったせいか、ひどく甘ったるい。
空の紙パックを握りつぶして、ゴミ箱に放った。ナイスシュート。





「なあ剣城、パス練しよう!」

 天馬くんの声はよく通る。けれどそれが良い事だとは限らない。そう、今この瞬間みたいに。
元気よく、満面の笑顔で駆け寄る様はまるで子犬みたいだ。剣城くんもまんざらじゃないらしく、ぶっきらぼうではあるけれど短く返事を返していた。
以前更衣室であった出来事がふと脳裏をかすめた。面白くない、の一言がまたぽろりと零れそうになったから、俺は口元を引き締め、これ以上のあの二人を意識しないように視線をずらす。

ばちり。霧野先輩と目が合う。もうそろそろ通算何回目か数えるのも面倒くさいくらいだった。
いつもならすぐに目を逸らすけれど、今回は違った。何か好奇心のようなものが芽生え、いっそ不自然に思えるほどの軽やかさで走り寄った。

「まーた、天馬くん見てるんですか」
「……それはお前もだろ、狩屋?」
「そりゃあ、そうですけど」
「まあ、俺も神童に言われるまで気づかなかったさ。意識しないうちに目が追ってるんだよ、アイツのプレイを」

 それは俺も同じだった。こんなところで意見が合うなんて。
無意識のうちなら、きっともっと、ずっと、天馬くんのことを見ているんだろう。
胸の奥がちりちりと焦げるような不快感に眉根が寄った。

「そういう顔をするなよ、俺だって今のお前とだいたい同じ気持ちなんだからな」

 つい、と霧野先輩の目線が俺を越して、天馬くんの方に向いた。まぶしいものを見る眼差しで。

「お前とよく目が合うようになってわかったさ。あいつを見ているのは俺だけじゃない。それが嫌だって、ことが」

 突然、軽く蹴り出された。ボールを受け止めれば、挑戦的な微笑みが俺をとらえた。

「言っておくが、譲る気はないぞ?」
「自覚させるようなこと言っておいて、そりゃ無いんじゃないですか、センパイ?」
「けん制の意味も込めたつもりだったよ。無自覚って案外怖いんだ」
「はん、そいつはどー…もっ!」

 強くボールを蹴る。真っ直ぐな軌道で飛んでいったそれは簡単に先輩の足元におさまった。
不思議と気持ちは晴れ晴れとしていた。けれど、そのせいで胸の奥で燃え立つ心を余計に自覚してしまった。

 まったく、こんなのガラじゃないのに。



撃ち抜くためには遅すぎる
(あなたの呼吸しか奪えずに)


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