いぬ(姫千) | ナノ

テーブルの上のケータイが音を立てる。液晶画面に表示された名前に片眉を上げた。

「谷村?」

連絡先を交換したのは秋だったか。同時に登録した花澤や夏目からは時々くだらないメールや電話が来るけれど、谷村から連絡が来たことは一度も無い。はてと首を傾げる間も、ケータイはもどかしげに鳴り続けて電話を取るよう催促する。とりあえずと通話ボタンを押した。

『……』

ザーザーと雨の音が聞こえる。そういえば外は雨だった。雨脚は強く、時折雷が鳴る。まだ午後も早い時間だというのに外は暗く寒く、それで姫川は休日なのをいいことに一日引きこもっていたところだった。

「谷村?」

雨の音ばかりが届くケータイに訝しげに問いかける。
もしやいたずらか?そういうタイプには見えなかったが。

「おい、谷村?」
『――せんぱい』
「――どうした」

自然と声が低くなる。
電話の向こう、雨音と一緒に聞こえてきた声は、息切れしながら弱々しく姫川を呼んだ。

『たすけて…っ』

ブツッ ツーツーツー…

「……」

繋がりを断たれたケータイを思わず呆然と眺める。展開が突然すぎだ。いたずらか、もう一度考えた。けれどそんなことをするようなタイプとは思えない。何よりいたずらにしては声が切迫していた。もう聞こえないはずの雨音が耳に張り付いているようだ。

画面の暗くなったケータイを閉じる。一拍置いて、もう一度開いた。慣れた手つきで番号を呼び出し通話ボタンを押す。コールの間にテーブルの上に置いておいた財布と鍵を掴み、通話が繋がると同時に玄関の扉を外から閉めた。

**

雨は一段と激しくなっていた。冬とはいえまだまだ明るいはずの時間帯なのに空は黒く重く、降り注ぐ雨は冷たくて凍える。車に乗っていてさえ吐き出す息は白く、姫川は舌打ちしながら暖房を強に変えた。
車のスピーカーからはタクシーのように何人もの声が入れ替わり立ち代り情報を吐き出していく。何の精査もされないままに与えられる膨大な情報をその場で取捨選択しながら、車は人っ子一人居ない道を走った。

途中、邦枝に連絡を取るべきかと考えたが、すぐに打ち消す。連絡をつけてよいなら、そもそも谷村が自分でそうしたはずだ。邦枝でなくても大森や花澤がいる。それなのにわざわざ関係の薄い姫川に連絡を取ってきたということは、少なくとも烈怒帝瑠の人間には知られてはいけないことだからだろう。

ではそれは何か。そんなの俺が知るか!

(なんなんだくそっ)

苛立ちのままにハンドルを切る。車に乗った時から、そもそも電話を受けた時から、姫川はずっと言いようの無い苛立ちを腹に抱えていた。人は動かすものだが、人に動かされるのは言語道断だ。姫川は自室のソファの上で要求が叶えられるのを待てば良くて、
けして自ら車を運転したり人を探したりするものではない。
なのに今、白い息を吐いて、凍えるような雨の中、ぶしつけな電話をかけてきた相手を自ら探していることが姫川には信じられなかった。
調子が狂う。探しものが見つからないことが、苛立ちに拍車をかけていた。
その間もスピーカーからはひっきりなしに情報が流れる。

『14時30分頃。○○駅付近』
『14時50分頃。○○通り』
『15時20分頃。△△通りへ目撃情報有り』

一番新しい情報に照準をあわせてハンドルを切る。報告された通りから更に一本奥の道に入って、ようやく姫川は探しものを発見した。
道の先に、傘も差さずにしゃがみこんだ後姿。
わずかな距離を置いて車を止め、ドアを開けると途端に雨が車内に入り込む。姫川は濡れるのも構わず外に出た。

「谷村っ!!」

激しい雨に流されながらも声は届いたようで、谷村の頭がふと持ち上がり駆け寄った姫川を見上げる。顔色は悪いが目にはきちんと光があって、姫川はひとまず安堵した。
それからようやく、否が応にも目に付いて仕方が無いものに視線を向けた。
谷村が抱える――というよりしがみ付いている、灰色の巨大な毛玉。

「――谷村、なんだそれは」
「…犬…」
「なんで」
「…車に、引かれて…」

怪我してる。

そこまで聞いて、姫川は深く深く息を吐いた。




***




動物病院の救急外来の担当医師は目を丸くして患者を招きいれた。
受付の女性が開けたドアの向こうから、全身ずぶ濡れの男が大型犬を抱えて入ってくる。
文字通り流れる銀髪と整った顔立ちとその長身に院内が色めきたったが、不機嫌全開の表情と雰囲気と、何より足から血を流してぐったりとした大型犬にすぐに本分を思い出したらしく、慌しく診察が始まった。

果たして、医師はカルテを書きながらアッサリと笑った。

「骨折だね。血は出てるけど、そこまでひどくないよ。でも衰弱して肺炎起こしかけてる。倒れてたんだって?良く連れてきてくれたね」

受付が渡してくれたタオルで顔を拭きながら医師のねぎらいを受け流す。死んだりしないか。確認すると医師は笑って首を振った。

「今日は入院だけど、数日もすれば回復すると思うよ」

それが分かれば良い。呼んでおいた姫川の家の人間に後を任せて、姫川は病院を出た。駐車場まで親切な受付の女性が傘を差してくれたが、疲れていて相手をするのも面倒だった。ドアを開けると獣臭さが鼻につき、顔をしかめる。さっき来た人間と車を交換すればよかったと思ったが、今更戻って鍵を受け取るのも面倒でそのまま乗り込む。助手席に荷物を乗せ、一応は女性に頭を下げて車をスタートさせた。
途中で獣臭さが我慢できずに窓を開けたが、あれほど強まっていた雨脚は弱まり、走る車の中にまでは進入してこない。変わりに冷気が吹き付けて、姫川の頭を冷えさせた。

何をしているのかと思った。
ずぶ濡れになって、ポリシーのリーゼントも崩れて、あんな毛玉を抱えて病院に運んで、気に入りの車も犬の毛と泥と獣臭さでボロボロだ。
大きな貸しだこれは。冷えた頭で考える。借りっぱなしもごめんだが貸しっぱなしはもっとごめんだ。有り得ない。
何かしらの落とし前をつけてもらわなければならない。前を見据えた視線はひどく冷めていた。

そうこうするうちに見慣れた建物が目に入り、やがて車はそのままマンションの地下駐車場にすべり込む。荷物を持って車から下り、エントランスホールでふと姫川は足を止めた。マンションの鍵は谷村に渡していたから入れない。仕方なく玄関インターフォンで伝えておいた部屋番号を呼び出すと、わずかな間で部屋と繋がる音がした。

『…はい…』
「谷村、俺だ。開けろ」

なんだか激しい違和感を覚えながら、ドアが開くのを待つ。少し操作に戸惑ったらしい間を置いて、姫川の前に立ちふさがるドアが音も無く開いた。
開いたドアをくぐろうとした姫川の耳に、谷村の声が届く。

『おかえりなさい』

「―――…」

ドアを抜けたところで思わず振り向く。当然そこには誰も居ない。インターフォンは既に沈黙して、姫川の目の前でガラスのドアがゆっくりと閉まった。




******



エントランス、エレベーター、内廊下と、パンくずのように雨水をまきながら姫川は最上階の居室を目指した。廊下の窓の外には夜景が広がる。昼夜の境目もあいまいなままに世間は夜を迎えていた。
玄関横のインターホンを押す。ここに越してきてから、否その前から、こうして自宅のインターホンを押したことがあっただろうか。姫川は落ち着かない自分をごまかすようにサングラスの位置を直した。なんだか自分の家ではないような気がした。

扉が開き、ひょこと谷村が顔を出す。顔色は悪くない。言われたとおりシャワーを浴びたようで、姫川の代えの部屋着を見につけていた。袖と裾が捲くられた子どものような格好で姫川を見上げた谷村が、ほんのわずかほっとしたように表情を緩める。

「おかえりなさい」
「――おお」

なんと応えてよいものか分からず、そんなそっけない受け答えだけで中に入る。差し出されたタオルを受け取る手がわずかに震えていて小さく舌打ちした。思ったより体が冷えている。

何よりもまず風呂場で体を温めて、それから姫川はリビングのソファに谷村を座らせた。足を組み片腕を背もたれの外に出したお世辞にも行儀がいいとは言えない座り方で自分もソファに沈み込み、サングラス越しに真っ直ぐ後輩を見る。
ソファの上で小さくなった谷村は、それでもその視線を真っ直ぐに受けた。黒い大きな目がそらされないことにわずかばかりの好印象。姫川はほんのわずか目を細めた。

「単なる骨折だと」

主語が無くても何のことだか分かる。谷村がほうっと息をついた。固い表情がわずかばかり緩み、それから深々と頭を下げられた。ありがとうございます。明朗とした声はどこか明るい。心底安堵している様子だ。
姫川は表情を変えず、淡々と報告を続けた。とりあえず様子見で数日入院だ。詳しいことは家の人間に任せた。
最後に、「で?」と態度悪く首を傾げて見せると、谷村がきょとんと瞬いた。

「報酬は何だ?」

ほうしゅう。谷村の口が言い慣れない単語を復唱する。報酬?

「こんだけやったんだ。ただ働きはねぇだろな」
「ただ働き…」

ぱちぱちと瞬いて、口に手を当てて谷村の動きが静止する。
足を組みなおし、顔を反対に傾けて姫川はその様子を伺った。

「姫川先輩は」
「あ?」
「姫川先輩は、何がほしいですか?」
「……」

思わず口を閉ざした。


言われてみれば何も思い浮かばない。
文字通り金を受け取るのが一番シンプルだが、それはなんだか違うような気がした。
物を貰うのも違う。体…は要求したら殺される。誰にって本人とか邦枝とか烈怒帝瑠とか。
ざっと考えて、ふと姫川は原点に還った。

「――何でオレに連絡した?」

最初に感じた疑問だった。犬を拾った程度のことなら、烈怒帝瑠の誰かでも良かったはずだ。
ぱちぱちと瞬く谷村から視線をそらす。腹の辺りが重い。聞いておきながら、分かりきっていると自分の中の自分が答える。
姫川の一声で動く金と人。それ以外に求めるものなんて、あるはずがない。


姫川が女に呼び出されるのは、そんなに珍しいことではない。
ただ、悲しいかな大抵の場合は、姫川の金だったりコネだったり体だったり見てくれだったりが目的で、それを分かっている姫川もその女の体だったり見てくれだったりを求めることで応じていた。

取引。ケースバイケース。慣れていることのはずだった。むしろ女とはそういうものだとすら思っていた。

それでも。

谷村は、違うと。

(思いたかったのか俺は?)


「――何で…」

声に、視線を戻す。

「でしょう…?」
「……は?」

谷村の視線が落ちる。表情からは分かりやすく困惑した様子が見て取れた。

「わかんない、です」
「…」
「ただ、…夢中で――犬が、轢かれて、誰か、って思ったら、姫川先輩の顔が、」

浮かんで。

ぽつりぽつりと、思い出しながら紡がれる言葉。戸惑いながらもその声音は、そこに嘘が無いことを姫川に伝える。

(――…それは、)

それは単に、犬を助けたい一身で、無意識に相手を選別しただけだろう。
姫川はそう判断した。
犬を助けられる財力と行動力を併せ持つ人間として、それだけの行動を示してきた姫川が緊急の時に浮かんだのだろう。

姫川はそう、判断した。
それなのに。

「〜〜〜〜ッ」

頬に朱が走るのがわかって慌てて顔を伏せた。長い銀髪が顔を隠して落ちる。不思議そうな視線を感じるが顔を上げられない。
ちょっと待て。なんだこれ。

「姫川先輩?」
「なんでもねーよ」

なんでもない。単に思っただけだ。

嬉しい、とか。

(いやいやちょっと待て俺…!)

小学生か。なんだそれは。
そしてなんでその程度のことでこんなに動揺しなければならない。

平静さを装いつつ、サングラスの位置を直しながら顔を上げ、改めて谷村を見た。
不思議そうな顔でかすかに首を傾げて、姫川の部屋着の袖を二重三重に巻いて身につけ、ちょこんと行儀良く座って、ただ姫川の次の言葉を待つ。

谷村の小動物のような様子を改めて見て取り、姫川は息をついた。
仕様も無い動揺があっさりとどこかへ行く。胸のうちに、何か小さく暖かいものが落ちた気がした。
いい意味で気が抜けて、姫川はククと喉の奥で笑った。ますます不思議そうに目を瞬かせた谷村に、口端を引き上げる。

「次はねーぞ」
「姫川先輩?」

「ただ働きしてやるよ」




******




昨日の雨はどこへやら、真っ青に広がる空には雲一つなく、空気は冷たいものの日差しは暖かい。

「姫川先輩」

屋上へ続く階段にかけた足がふと止まる。
後ろからパタパタと追いかけてきた軽い足音に振り返れば、谷村がほっとしたように息をついた。

「あの、これ」

姫川の下にたどり着くとすぐに持っていた紙袋を差し出してくる。姫川は手を出さず、谷村を見た。

「何、これ」
「昨日の…」

お礼です。

「……」

小さな両手に収まる小さな紙袋をまじまじと見つめる。店のロゴも何もないシンプルな白い紙袋。上から見下ろすので、中に透明のフィルムで包まれた何かがあることもわかる。
動かない姫川に業を煮やしたのか、谷村は姫川の一つ下の段まで駆け上ってきてもう一度その紙袋を差し出してくる。

つい、というより、思わず。
手に取ってしまった。

谷村が何を確認しているのか一つ頷いて、一段下がる。そして頭を下げた。

「ありがとうございました」

つむじが見える。両手を前でそろえて、丁寧に頭を下げた谷村は、姫川が何を言う間もなくくるりと背を向けて階段を駆け下りていった。
角を曲がり廊下を歩いていく足音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなってから、姫川は改めて残りの段を上り屋上へと出た。

「さみぃな」

ほんの僅か、柔らかな声だった。


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途中で止まってた話を。彼らに動物を拾わせるのがブームだったのかもしれない。
2018.2.21



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