夏の終わり。
カリカリとペンが紙の上を滑る音だけが聞こえる室内はとても息苦しい。ふと、最後の空欄へ答えを書き込んでいた指を止めて横を向けば、窓ガラスには自分の姿が映っていた。

ああ、これを俺は知っている。
この光景を、俺は覚えている。

まだ日の落ちる時間帯ではないというのに、濃紺で塗り潰された空はもうすぐ雨が降ることを予期しているようだった。あの時も…今となっては随分昔のことになるのだろうが、明るい教室内から暗くなった外を眺めていたっけ。
彼女と一緒に。

止めていた手を動かして空欄を埋めれば、試験が終わるまではまだ時間があった。ペンを机に放り出すと、俺は六年前のことを思い出していた。



「……受験、嫌だなぁ」

ぽつり、それは隣の席に座っている彼女が溢したものだと気付くのに数秒を要した。それくらい小さな呟きだったのだ。六年前といえば俺たちは小学六年生で、まだ隣同士の席がくっついている時。三年前や今ならまだしも、この時の俺は受験というものがどれだけ大変かよく分からず、気の利いた答えが返せなかった。

「私立の白鳥沢、だっけ」
「そー…って聞こえてた?」

やだ恥ずかしいー、と苦笑する彼女は今日日珍しくないだろうが、俺たちの小学校内では比較的珍しい、中学受験をするグループの一人だった。それも中高一貫校では県内一と言っても過言ではない学校を受けるらしいと騒がれている。同級生たちからの彼女の評価は納得できるけどやっぱり意外だ、とのこと。賢いことには賢かった、しかし彼女という人間は突如として呆れるほど子供じみた行動をとる。そんな見掛けに反して頭が良いのだから皆がそう感じてしまうのも無理はない。だからこそそんな彼女が勉強関係のことで悩むなんてやっぱり意外で、これは受験ノイローゼってやつなのか、などと一人考えてしまった。

「大丈夫だって、賢いんだし」
「…スガも賢いよね」
「へ?いや、俺は別に、」
「白鳥沢だって余裕で受かりそうなのになぁー」
「さすがに無理だから!まず受験自体したくない!」
「ふはっ、そこからか」

口許を手で覆うと彼女は俺に背を向けた。小刻みに震える肩越しに見えるのは鏡のようになった窓ガラス、そこには俺たちの姿がはっきりと映し出されている。まるで教室ではない、濃紺の世界に放り出された錯覚を起こした。

「…私、公立にいきたいかも」

その言葉は、冗談なのか本心から言っているのか判別がつかなかった。

「…なんで?」

彼女はこの問いに答えることはなく、ただ、ガラスを通して曖昧な笑みを俺に向けた。


話は飛んで、それから一年後。
やっぱり彼女はほとんどの同級生が進学する公立中学にいくことはなく、予てより目指していた私立白鳥沢学園に入学した。どこにいてもパッと目立つ制服はとても眩しく、何だか遠くへ行ってしまった気分になる。中学から始めたバレーに夢中になるのを感じつつも、胸の奥にしこりが残っている気がした。

「……え、スガ?どうしたの?」

やっぱりその日も同じような曇りの日で。
彼女は自分の家前で佇んでいる俺の姿にくるりと目を丸くした。生温い風が短くなった彼女の髪を僅かに揺らす。

「ちょっと…一年前のこと、思い出してさ。結局あれは何だったのかなーって」

もう時効だ、そう思い込んでいたのは俺の自分勝手な考えだ。もやもや、もやもや。雲の晴れない空を眺める度、窓ガラスに映る自分一人の姿が目に入る度、あの日を思い出すことが不思議だった。
隣に彼女はいないのに。

「なんで…公立にいきたいって、思ったの?」

辿り着いた答えはこれだった。
あのとき彼女が呟いた言葉、それこそが俺の心に引っ掛かるものだと。もしかしたら何の考えなしに紡がれた言葉だったのかもしれない、けれど今でも頭に浮かぶあの曖昧な笑みは、違うと俺に訴えかけているようだったから。

俺の質問に対して戸惑ったような眼を、彼女は一瞬だけ宙に泳がせた。唇が動く。


「……スガが公立にいくって聞いたから、だよ」

そう早口で言い残すと彼女は家のなかに入っていく。でも俺はまだ、質問に対する答えの意味を呑み込めていなかった。
「なんで、」掠れた声で、もう何度目か分からないほどの問いかけを口にする。しかしそれは誰にも届くことはない。

その日からずっと、彼女とは話していない。




「…そこまで」

はっと我に返る。どうやら昔のことを思い出しているうちに時間が過ぎ去ってしまったようだ。スガ、と前に座っている大地が心配そうな顔で呼び掛けてくる。それに軽く笑みを返せば、後ろから回ってきた答案用紙の束を差し出した。模試のことなど、もう頭から吹き飛んでいた。

「どうしたんだ、さっき」
「いやー…ちょっとぼんやりしてた」
「おいおい」

呆れた表情を浮かべる大地はそれ以上問い詰めてこない。不思議に思って顔をあげると、階段を降りながら物珍しそうに他校の制服を着た人たちを眺めていた。模試といっても今回は公開模試だったので、烏野高校の進学コースだけではなく、たくさんの高校の生徒たちがここに集まっている。色んな制服姿が入り雑じっている様子は何だか少し可笑しかった。

そして一階に降り立った俺たちの耳に轟音が突き抜ける。

「………うっそ、」

口を大きく開けた間抜けな表情の俺たちを、予報外れの大雨は嘲笑うように降っていた。こういう場合のために折り畳み傘は普段から鞄に入れておくに限る…けれどそれは部活用のエナメルバッグに入れてあるので手元にはない。誰だ今日は抜けるような晴天です、とか言ってた天気予報士。
まぁにわか雨だろうし、すぐに止むだろう。隣にいる大地も同じように考えているのか、無理に動こうとはしないで、ぼんやりと入口に留まっている生徒たちを見ていた。雨は勢いを弱めることなく降り続いている。

「あ、白鳥沢」
「っ!?」

大地にとっては何気ない呟きだったろう、しかし俺は大袈裟に肩を跳ねらせた。白鳥沢学園、彼女が通っている学校だ。今後こそ怪訝そうに此方を見てくる大地の視線が痛い。嫌な予感は的中して、懐かしい彼女の声がどんどん近付いてくる。大地が俺の名前を呼んでいるのに気付いたけど、小さく首を振るだけで返事はしない。声には出さずに黙って、と合図をした。

「うわっ、雨降ってる」
「折り畳みある?」
「ない。けど、そのうち止むんかもよ?」
「んー…最後の試験の途中から降ってからなぁ」
「え、知ってたの」
「窓際だったからさ」

聞こえてくる会話から、彼女も俺と同じように昔のことを思い出したのかな、とか考えたり。

「よし、走ろう」
「この豪雨の中を!?」
「だってー早く帰りたいじゃーん」
「そうだけど…ま、そっか」
「ふはっ、なんか超青春っぽい」

気の抜ける、間延びした声。
ちょっとしたことでも全て楽しもうとする姿勢は相変わらずだ、とか考えたり。

「……なぁ、スガ。本当にどうしたんだよ…」
「黙ってて大地…お願いだから」

相手に自分の存在を気取られたくないとか、それなのに俺に気付かないかな、とか正反対のことを考えたりして。自分が一体何をしたいのか理解できなくてもどかしい。
外へ飛び出そうとする彼女の後ろ姿を目で追いかければ、ガラス越しに目があった。まるであの日の続きのように。


「ばいばい、スガ」


「…えっ、スガっ!?」

全ての時間が止まったような感覚のあと、俺は大地からの制止の声を無視して雨の中に飛び込んだ。ばしゃり、足の下で大きな水溜まりが音をたてる。数メートル走らないうちに服はびっしょりと濡れて身体に張り付いていた。視界の邪魔になる髪を振り払う。

「   」

あともう少し、という所で俺は彼女の名前を呼び、腕を掴んで抱き締めた。後ろから…おそらく追いかけてきた大地の足音が聞こえる。前方では驚いた表情の彼女の友人がこちらを凝視していた。二人には申し訳ないけど、少し時間を貰いたい。先程からじっとしている彼女の肩に手を置くと、恐る恐る、そんな感じで顔を上げた。

「…スガ?」
「俺、も」
「えーっと…」

「俺も!高校から白鳥沢にいきたいって思ってた!」
「っ」

「お前と同じ高校に、白鳥沢に、いきたいと思った!お前が、いるから!」

もしあの時、彼女が公立にいきたいと言った理由が俺と同じだったならば。俺と同じ気持ちを胸にしていたならば。
俺がお前を好きならば。
今までのもやもやした気持ちも、何もかも理由がつくんだよ。

「…私も、さ」
「スガが烏野高校にいくって聞いて」
「結構本気で、白鳥沢の高等部進まないで、烏野にいこうかなって思った」

「スガがいるから」


ふっと、自分の表情が緩むのを感じた。彼女もふはっと小さく声をあげて笑みを浮かべる。ガラス越しではない笑顔は、雨が降っているなかでも輝いて見えた。

「すれ違うとこだったんだ」
「まぁ実際にはすれ違っても、同じとこにもいないけどね」
「でも、それで今日があるならいいよ」
「確かに」
「でしょー」

止んではいないけれど、いつの間にか雨の勢いは少し弱まっていた。それがまるで自分たちの心のようだ、なんて絶対に言わない。

「…同じ大学、いこうか」
「…偶然、私も今言おうとしたとこ」

六年前も三年前も叶わなかったけど、今度こそ君と一緒のところに。



この夏が終わる前に
(大事な約束をしよう)


企画サイト
『僕の知らない世界で』様に提出

受験嫌ですたまらんです一緒の大学目指す菅原さんください
あと!ハイキューアニメ化おめでとうございますうわあああああ!嬉しいです!
増えろハイキューファン、増えろ菅原スラスタ、そして誰か私と語ってくださいまし。そのためにも無事に受験終わらせてきますね。



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