月の雫 | ナノ

暗殺者の影1



『――ここは、どこ? わたしは……どうして此処にいるの?』


深い闇の中、か細く消え入りそうな声で少女は呟いた。
長いやわらかそうなライトブラウンの髪を揺らし、深い青色の大きな瞳で周りを警戒しては時折聞こえてくる何かの鳴き声にびくびくと怯えながら彼女は歩いていた。

どんよりとした空気と肌が凍てつくような寒さの中で、自らの両肩を抱き眼前に広がる暗い闇の奥を見据える。



「……寒いですわ……。わたし、どうしてこんな所に迷い込んだのかしら?」

少女は今度ははっきりと聞き取れる声でそう呟くと、また再びそっと気配を殺すように息をひそめて歩き始めた。





『――ククッ。何か可愛いらしいのが迷い込んできたぞ……。人間の女だ。まだガキだなぁ』

『けど、美味そうな魔力を持ってる……見ろよ。服装からして、どこぞの高貴な姫君か?』

夜風にさらされた木々がざわりと音を立てる中に混ざって、かすかに何かが互いに会話するような声があった。
その姿を視界に捕らえる事は出来なかったが、ぞくりと背筋を走った悪寒に少女は足を止め
何故か脇に聳える大木の上へと視線を移していた。



「……誰か、いるんですの?」

おそるおそる絞り出した声で少女は闇に向かって声をかける。
爆発しそうなほどに激しくなる動悸を抑えながら震える体をどうにか落ち着かせようと、彼女はありったけの強気な態度をとってみせた。




「……ほぅ? 我等の気配を感じ取るとは。この女、ただの姫君じゃなさそうだな……」

くすくすと愉しそうな笑い声を乗せて闇の中の何かは言った。
それは今度は少女の耳にもはっきりと聞き取れるほどのもので……次の瞬間、それは少女の前に姿を現した。


浅黒い褐色の肌、風に揺れるその短い髪は夜の闇に溶け込むような漆黒であり、鋭く光る瞳の色は血のような赤であった。
そして何よりも驚いたのは、褐色の背中にはためかせた、黒い大きな羽――


「魔族?」

ふいに少女の口からそんな言葉がもれた。

「……ここは、魔族の森……?」

つい出た自らの言葉に、彼女は驚愕してその場に縮こまった。自分が今、何処に迷い込んでしまっているのかを理解し、そして、自分がどれだけ絶体絶命のピンチな状況に陥っているのかと言う事を悟ったのだ。






しばしの沈黙が少女と魔族の青年の間に流れていた。緊迫した空気が、重く肩にのしかかってくる。少女は震える体を無理矢理抑え込んで、それでも相手に隙を与えまいと必死に眼前に立つ魔族の青年の赤い瞳を睨み上げていた。


「ククッ、震えてるぜお姫様? そんな潤目で睨まれてもなぁ……子ウサギが虎に怯えてるようにしか見えねぇよ」

腰に携えていた細身の剣を抜き放ちながら、魔族の青年はジリジリと少女に詰め寄って行く。




「……っ、やくの……とに……れ、こ……に…願、う……」


後退りをし、ふるふると首を振りながら目尻に溜め込んだ大粒の涙を拭う余裕すらなく、ただ、記憶の片隅に残る言葉の羅列を手繰り寄せて、ほぼ言葉にすらなっていないカタコトの詠唱呪文を少女は必死に唱えていた。


「さぁ、お姫様。その溢れ出すアンタの魔力、頂こうか――」

ギラリと魔族の青年が翳した剣が怪しく光った。



「……ぃやっ……たす……て……っ、お兄様ぁっ!!!」






ガキィッィンッ





「…っ…!?」



恐怖のあまり、泣き叫びながらその場にヘタリこんでうずくまってしまった少女の耳に、金属が激しくぶつかり合う音が届いた。
見上げると、そこには闇夜にもはっきりと視認出来る深い紅蓮のマントを翻し、黒に近いダークグレーの長い髪を後ろで一つに束ねた歳の頃は二十代半ばほどの長身の青年が立っていた。


それは、刹那の出来事。


魔族の青年によって少女に振り下ろされた剣は、この時、颯爽と現れた紅蓮のマントの男の大剣により弾かれ、すでに遠く地面にサックリと突き刺さっていたのであった。



「……くっ!」

魔族の青年は、痺れる腕を抑えて自分と少女の間に立つ長身の男の顔を睨み上げた。



「……まだ、やるか?」

男が静かに問うた。

冷たく見据える殺気を帯びた男の紫暗の瞳に戦慄を覚えた魔族の青年は、

「チッ!」

そう短く舌打ちをして、遠くに弾き飛ばされた愛剣を引き抜き、森の奥の暗闇へと消えて行った。








「――…怪我はないようだな。しかし、何故シャーロムの姫君がこのような場所にいる?」

大剣を鞘に戻しながら振り返り様に男は少女に尋ねた。

「……貴方は…――」

「私の名など、知る必要はない。城まで送ってやろう。立てるか?」

そう言って男はそっと腕を差し出した。しかし男が少女の手を取ろうとする前に緊張の糸がプツリと切れてしまったのか、彼女はそのままふらりと地面に横たわった。



深い深い闇の中へと、少女の意識は沈んで行った――



prev [1/10] next
top mark

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -