わだつみの貴公子1
暗い闇がどこまでも広がる。
冷たい床、虚無な空間――ただそこに、少年は立っていた。
色彩のないモノクロの部屋。
少年のその手には、鋭利な刃を持った短剣が握られていた。
光を宿さぬ朦朧とした瞳で自らの右手に視線を向ける。
その瞬間、モノクロの世界に鮮血の赤だけが浮かび上がりべっとりとした血の感触が少年の意識を現実に引き戻した。
『――‥お見事ですな‥‥様。流石、幼い頃より英才教育を受けてこられただけのことはある』
少年の背後から感情のない冷徹な壮年の男の声が聞こえた。
「………」
『ふふふ、試験は合格です。これからは貴方が……すべてを闇に還す裏の世界の王となる。我々を統率できる器量の持ち主かどうか、ジックリと見極めさせていただきますぞ――“陛下”』
男の不気味な冷笑が耳にこだまする。
少年は笑いながら去っていく男を振り返らぬまま、ただそこに立っていた。
血の海となった石造りの灰色の床に、まるで真っ赤な絨毯を敷き詰めたかのようにモノクロの冷たい空間が同色に染まる。
床に転がるのは、先程まで自らの実の“父親”と呼ぶべき存在(モノ)であった。
『……闇の帳(とばり)を下ろす 暗黒竜……我、誓約の名の元に、汝が漆黒の翼……』
少年は闇の呪文詠唱文をぽつりぽつりと口にし始めた。
何も映さぬ虚無の瞳――ただ、与えられたことを実行する感情の無い機械人形のように、あいた片腕をもたげて手前にかざした。
『……屠(ほふ)るは、紅(あか)き原罪の楔……』
瞳を閉じて先程の詠唱呪文の続きを小さく口にすると、それが最後の合図となって白と黒が織り交ぜられた灰色の空間の中で、それは淡いオレンジ色の光を放ち少年の体を包み込んだ。
空間ごと抱き込むようにゆるりと両腕を広げ開かれたその手の平から、紅蓮の炎が沸き上がる。
『……響く咆哮は地獄の業火となりて、焼き払え、‥――弔いの焔(ファネラル・グリーヴ)』
魔法を発動するための最後の言葉を唱え少年はゆっくりと瞳を開いた。
目の前で燃え上がる炎を見つめて、ただそこに立ち尽くしていた。
先程まで人間(ヒト)であったであろう黒い物体が灰と化していく過程を見守り、消え去る様を見届けてから少年は踵を返して歩きだした。
よもやそこには何も存在しなかったかのように、再び色彩のない虚無な空間が広がる。
少年は、暗く冷たい廊下を歩きながら未だ手にしていた短剣を鞘に納めると、血で汚れた手を布で拭き取った。
表情も無く、冷めた眼差しを湛えたままこの先にある鉄の扉を目指しただ進んでいく。
それが当然のことで。
試験を終え、合格した後に闇の世界の玉座へとその身を沈める――
それは“闇王(アザゼル)”の家名を受け継ぐための儀式であった。
風が一瞬だけ凪いだ。
ザアッと、耳につくノイズのように。
廊下をひゅるんと吹き抜けた冷たい風が少年の長い髪を梳いて精気のない青白い頬をかすめた。
冷気を帯びたようにひんやりとしたその風は、ちくりちくりと露出した肌には何故かとても痛く――
ふいに、
つぅっと自らの頬を流れた生暖かい感触に少年ははっとする。
ぱたりと、モノクロの床に何かが滴り落ちていった。
「……これは、何だ……?」
つい出た小さなかすれた声に一番驚いたのは、外ならぬ少年自身であった。
その瞬間に、ぐらりと空間が揺らぐ。
殺戮、死、鮮血――すべては赤黒い闇の世界。
殺すも殺されるも、物心ついた頃から少年にとってはそれが当たり前の世界であった。
すべてはモノクロの、色彩のない虚無な世界。
暗く冷たい何もない空間と、機械人形のように与えられた依頼(しごと)をただこなす。
人間(ひと)としての感情が欠落した存在。
少年は、止めていた足を引きずるようにまた歩き始めた。
紫暗色の瞳から流れるものが涙と知らず、それを拭うこともせずに――いや、ただ拭う術を知らないだけなのかも知れない。
決められたレールの上を歩いて行くようにただその先にある扉を目指した。
灰色だった世界に色彩が戻った瞬間、そこから少しずつ少年の精神が壊れ始めていく。
それが、すべての始まり。
闇に響く鎮魂歌(レクイエム)を歌い続ける王家の現当主――。
そこに生まれた少年の疑問には、誰ひとりとして答える者はいなかった。