生贄イワンくんの話

(イワンくんとパオリンが兄妹で、イワンくんが妹守るために生贄になる話)
 


山の麓にある小さな村がイワンの生まれ育った地である。貧しい村でありながら自給自足で余った農作物や山で採れたものを街に売りに行き皆が生活していた。
イワンの両親は小さい頃他界しており、妹のパオリンの二人で裕福ではないが幸せに過ごしていた。

村に異変が起きたのはその年の春だった。雪解けの季節が来ても雪は溶けることなく、木々は芽吹くこともなく、動物達も姿を消した。山と村は冬のまま時が止まったようだった。

間もなくして村は飢饉に襲われた。まず老人達が次々に命を落とした。この時イワンとパオリンを親代わりに育ててくれた村長も病気にかかり亡くなってしまう。老人の次は子供だった。小さな赤ん坊から小学生へと寒さと飢えは襲いかかった。ドミノを倒すように村人は倒れていき、それはまだ14才のパオリンにも同じだった。

食べ盛り、育ち盛りのパオリンも栄養失調でベッドにいることが多くなる。あんなに活発だった妹が痩せ細っていくのを見てイワンは泣いた。自分の命を奪っても構わないから妹だけは助けてほしい。何度も何度も神様に祈った。
その祈りもむなしくパオリンは日に日に弱っていった。

両親が死んだ時イワンは早く大人になることを望んだ。村長の助けはあったが頼りきるわけにもいかず、学校を辞めて働くものの稼ぎは微々たるものでその日食べるものやっとな日々が続いた。
18歳になった時やっと周りの大人から一人前と認められ、パオリンを学校に通わせる事が出来るまでになったのに、大人になっても自分の無力さは変わらず歯痒さにイワンは神を恨んだ。

ゆえに村長から呼び出され話された内容はある意味とてもタイムリーな話だった。

「…山神様へですか?」

イワンの住む村は大きな山の麓にあり、必然的に信仰対象はその大きな山である。そもそも自然豊かな山のおかげで村人達は暮らしていけたのだ。薬草が欲しければ、甘い果実が欲しければ、動物の肉や毛皮が欲しければ山に行く。そうすれば手に入れる事が出来たのだ。
まだ飢饉が始まったばかりの頃、老人達は口々に言っていた。「山神様がお怒りだ」「山神様の罰なんだ」と怯えていた。老人達が居なくなってからそういうことを言う人間はいなくなったのだが、最近になってまたそんな声が聞こえるようになった。その時は鼻で笑い相手にしなかった大人達がそうでなければ納得出来ない、とでも言うように喚きだしたのだ。
あまりに理不尽な事が我が身に降りかかると人は神のせいにする。これはイワンも身に染みて実感していることだった。
両親が死んだ時と、パオリンが倒れた今がまさにそうだ。

新しい村長はイワンとあまり面識がない男なので、村長の家へ話があると言われた時は何のことかと思った。自分の家より幾分か大きな空間で幾分か丈夫そうな椅子に座る。村長のよそよそしい仕草に両親が死んだ時、遺産目的で近付いて来た親戚を思い出し無意識のうちに冷たい態度になってしまっていた。

「みんなで、山神様の怒りを鎮めようと話し合ったんだ」

みんな、とは誰のことだ。イワンも一応去年から一人の大人として仕事もこなし税も納めていたのに。告げられるのはどうやらみんなで話して決めたことらしい。わざわざ呼び出されるということは自分もしくはパオリンが関係していることなんだろう、嫌な予感にますます目付きが悪くなる。

「前村長の持っていた本に、この飢饉と同じような事が100年前にもあったと書いてあった」

村長は気まずさにさっきからお茶を何度も飲んでいる。お茶と言っても木の根っこを干して作ったので決して美味しいとは言えないものだが、余程言いにくいことらしい。
実はイワンはその話を前村長から聞いていた。貧しく学校に通えなかったイワンにとって前村長の書斎は唯一勉強できる空間だった。仕事がない日などにパオリンと一緒に遊びに行っていたがある。そして、ある日昔話として語られたのだ。聞いた時、まだ幼かったパオリンがそんな事で解決するのか?と前村長に何度も聞いて困らせていた。イワンは昔話だから対して気にも止めなかったが、今ならパオリンの気持ちが解る。

「新月の夜、山の滝は神の元へと繋がる」
「な…っイワン知っていたのか」
「あんな昔話信じてるんですか?」

100年前の話はこうだ。何日も太陽が雲に隠れ、雪は溶けることなく芽吹いた樹木を腐らせ村に飢饉が襲った。困り果てた村人達は一人の若い村人を生け贄として山神様に捧げた。すると一月もしないうちに村は太陽を取り戻し無事に飢饉を脱した。
イワンが前村長から聞いたのはこんな話だった。

「もう…村のみんなが山神様の祟りだと信じてしまってるんだ…」

村長はくしゃりと自分の黒い髪を掴み嘆いた。やはり苦労が多いのか、まだ若いだろうに白髪が少し混じっている。イワンはここでようやく差し出されたお茶を口にした。やはり、美味しいものではない。

「みんなが僕を生け贄にしろと?」

イワンの言葉は二人しかいない空間に響く。言いにくいことを先に言われ村長は返す言葉が見つからないようだ。

「頼む…村を救ってくれ…」
「昔話に村が救われると?第一どうして僕なんです」
「生贄は金の髪をしていることが条件なんだ」

なるほど、イワンは北風でカタカタなるガラス窓に映った自分の姿を見た。この村で金髪は珍しい。特にイワンは村でただ一人のプラチナブロンドの持ち主だった。だがそれだけで自分というのは腑に落ちない。

「村長の娘さんも金髪じゃないですか」
「…っ」

ひどいことを言った自覚はあった。ただこれは事実だ。村長の娘は美しい金髪を持っている。それなのに、何故自分なのかイワンはわかっていた。

「僕に生け贄になって欲しいのは金髪だからだけじゃないですよね。僕には親もいなくて都合がいいからですよね?」
「イワン…、わかってくれ…」

イワンは村長を睨んだ。

「…僕はこの村の為には死なない」
「イワン…!」
「でも、この村と心中する気もない」

あれほど祈っていたじゃないか姿をみたことものない神とやらに。何度も何度も。

「僕はパオリンの為に死ぬ」

自分の命を奪っても構わないから妹だけは助けてほしい。

これはチャンスだ。そうに違いない。

「パオリンに食べ物と薬をあげて下さい」
「…勿論だ」
「学校にも通わせて下さい」
「…約束しよう。我が娘同様に、育てるよ」

村長の目はイワンと同じように決意を示した目だった。この男も若い時に最愛の人を亡くして娘と二人で暮らしていると聞いた。愛しいものを失った時の気持ちも守りたい気持ちも知っているはずだ。
先ほどは村長としての言葉だったのか、今は大切な人を持つ男の表情をしていた。

「すまない…、私は娘も村も守りたいんだ」
「いいですよ…。僕はパオリンが守れればそれで」

イワンはそういうと村長の家を後にした。不思議と安堵した気持ちだった。


儀式は早急に行いたいということで、次の新月に行うことになった。それまでイワンはつきっきりでパオリンの看病をした。医者が緊急用に蓄えていた点滴を打つと容態はみるみるうちに回復し、顔色も良くなった。食べ物も配給とは別に貰い、それを全てパオリンに与えた。

「イワン食べないの?」
「うん、病院来る前に先に食べちゃったんだ。パオリン全部食べて良いよ」
「うん…」

静かにパンを食べるパオリンの頭をゆっくりと撫でる。金の髪は僅かにイワンよりも濃い。もし、自分とパオリンの髪の色が逆だったら生け贄にはパオリンが選ばれたのだろうか?ふとそんな事を考えた。
それはあり得ない事だ、パオリンが選ばれてもイワンは代わりをかって出るだけだった。

「あー、早く家に帰りたいよ」
「ふふ、パオリンそればっかり。まだ、ちゃんと歩けないんだから。リハビリ頑張らないとね」
「そうだけど…。早く家に帰りたいよ…」

普段は強気なパオリンも病が続きずいぶん弱気になっているようだ。頭をそっと撫でイワンはしゃがみ、ベッドで上体を起こしているパオリンを覗き込んだ。
新月は明日に迫っている。

「パオリン、大事な話があるんだけど」
「なに?」
「僕ね、村を出ようと思ってるんだ」
「え…っ」

パオリンが握っていたパンが布団にバウンドし、床に転がる。それに目をやることなくパオリンはイワンを見た。

「え?何…何で?」
「村長さんがね、新しい仕事を紹介してくれたんだ」
「なんの仕事なの…」
「街をさらに越えたところの炭鉱の仕事だよ。ここからだと遠いから向こうに下宿することになるから、こっちにはもう戻れない」

この数日で考えた嘘を、パオリンに悟られないように告げる。

「パオリンの面倒は村長さんがみてくれるよ。学校にも今まで通り通えるし、村長の娘さんと仲良かったよね?これからは村長さんの家で…」
「いやだ!ボクも一緒に行く!」

パオリンは大声を上げてイワンの腕を掴んだ。その両目には涙が溢れている。

「駄目だよ。出発は明日だから」
「嘘…いやだ…いやだよ!なんでっ」

頭を振るパオリンをイワンは抱き締めた。やはり体はまだ細く元にもどったとは言えない。
こんなに小さい妹を置いていくなんて、自分はなんて酷い兄だろう。守ってくれていた両親が死に、そして今度は兄が。この小さな少女がその悲しみに耐えきれるだろうか。
だからイワンは嘘を吐いた。そのばしのぎかも知れないが、パオリンが村人達に恨むことがないように。健やかに暮らせるように。

「イワン…ボクのこと、きらいになっちゃったの…」
「何言ってるのパオリン…。僕達はたった二人の家族だよ?パオリンの幸せと健康が一番に決まってるじゃん」
「じゃあ、なんで置いていくの…?」

イワンだってパオリンの傍でパオリンを見守りたい。でも、それはもう叶わないのだ。

「ごめんね…」

愛しい愛しい妹、傍に居たいのにもう叶わないなんて。
パオリンはイワンが山神の生け贄となったことを知る時が来るのだろうか。村人を恨むだろうか、何も知らずにいた自分を責めるだろうか。イワンはどちらでもないことを祈った。イワンはパオリンを救えて、それで十分だったのだから。
イワンは涙で濡れたパオリンの頬を拭いもう一度強く抱き締めた。



いよいよ新月の夜が来た。新月と言っても連日空には分厚い雲が覆っているためいつもと変わらない。イワンは村長と数人の村人達と準備に取り掛かった。
昨日からイワンは重湯しか口にしていない、しかし飢饉が襲った今空腹は常に共にあるもので苦では無かった。物々しい雰囲気の中で冷たい水で体を清め、絹で出来た白い衣服に身を包む。

「イワン準備は出来たか」

イワンは小さく頷いた。日が暮れてからは口を聞いてはいけないためだ。イワンは神の貢物でありもう人ではない、それを思い知らされた気がした。ゆっくりと目隠しを付けられ、輿に乗ったイワンとそれを担ぐ村人達は儀式を行う滝へと向かった。

輿に揺られ、後ろ手に両手首を拘束している装飾品が揺れに合わせてシャンシャンと音を立てる。イワンは目を閉じ、もしこのまま村に飢饉が襲い続けたらどうなるのだろうと考えていた。
村長はパオリンの事を約束してくれたが、それどころではなくなるだろう。もしも村が滅んだら、そんな事すら考えてしまう。

イワン自身はこんな事で解決するとは決して思っていない。そんな信仰心もない人間が生贄になって、神様が本当に居たとしたら怒るのではないか。もし、居たらの話だが。でも、村長も新月の滝が神の国に繋がるなんて思っていないはずだ。
そんなことを考えていたら輿が止まった。滝の音が直ぐ側で聞こえる。

滝は山の奥にある、冷たい風が木々がこれから行われる儀式に共鳴するかのようにざわめいている。ガタンと輿が地面へと降ろされる感覚がしてしばらく、村人がイワンの腕を握って立たせた。村人の導きのままゆっくりと立ち上がり、探り探り輿から降りる。

両脇を村人に支えられながらゆっくりゆっくりと前へ進む、滝から吹き上げる風と水の匂いを感じた。もう滝はすぐそこなのだろうか、大量の水が流れているのが足元から振動として伝わってくる。いよいよ自分はこの滝壺へと落とされるのか。

「膝をつくんだ」

両脇から抑えこまれ、地面に膝立ちになる。滝の轟音で直ぐそばにいる村人の声すら聞きづらい。イワンは焦った、膝頭は地面についていないのだ。このまま上体を倒せば滝壺へ、神の国へ真っ逆さまだ。思わず、肩を後ろに引いて唾を飲む。
両脇の支えから開放され、後ろでは村長が何かを読み上げている。イワンは儀式がどのように行われるか詳細を知らない。いつこの滝壺へ落ちるのか、緊張のため息が上がる。
その時口元に何か近づけられた。アルコールに似た匂いに思わず顔をしかめる。口に当てられた傾けられれば飲めということだろう。イワンは薄く口を開き器に入っている液体を受け入れる。酒のようなツンと喉に刺さるような味がした。

もしかして、これは毒なのだろうか。だとしたら有難かった。溺れて死ぬのは苦しいはずだ。だったらいっそ苦しまずに死にたい。飲み下した液体が毒だとしても苦しまずに死ねるとは限らないが。

しばらくすると村長の読み上げが終わったようだった。ああ、やはり自分は意識があるまま溺れて死ぬのかとイワンはごくりと喉を鳴らす。心拍数はどんどん加速し、いつこの身が突き落とされるのか気が狂いそうになり唇を噛み締めた。水の流れる音と、風の音、そして自分の心拍音。どれがどの音かわからない。ただ目隠しされ、研ぎ澄まされた聴覚がその音たちに溺れて行く気がした。意識が遠くなる。

イワンの体はそのまま前に倒れ、滝壺へと飲まれるように落ちていった。