しあわせの方程式 | ナノ

 花火と君


 からんころん。駅の雑踏の中でも、和の音が鳴り響く。
 からんころん。私が歩くたびに響く、その音。
 その何処かくすぐったい感じに、私は無意識の内に笑った。
 硝子に映る自分の姿は、いつもとは違う。何処か涼やかな浴衣姿に、髪を結い上げた状態。桜色の生地に、桜の柄。決して大人っぽい柄とは言えないけれど、私が人目惚れした浴衣だ。
 着ている服が特別なだけで、こんなにも楽しい気分になるなんて知らなかった。

「あ、空!」
 駅の端の方に私を待つ空の姿を見つけ、私の気分は一気に上がる。
 何ヶ月も前から約束していた花火大会。誰よりも空に見てほしくて頑張ったのだから、当然と言えば当然だ。
「ね、ね、どう? 可愛いでしょー?」
 冗談交じりでそんな言葉が出てくるほど、私は浮かれている。花火大会と浴衣の力はすごい。
 空は、私の声に嬉しそうに顔を上げて――でも声を上げることもなく、呆けたようにその動きを止めた。
「空?」
 そんないつもとは違う反応に、何か変なところでもあるのか、不安になる。
 私としては慣れていないながらも上手く着付けたつもりだし、髪だって纏まっている筈だ。
 一般的に可愛いとは言わなくとも、普段よりは可愛い筈なんだけど。
 不安げに空を見上げると、空ははっと我に返る。
「綺麗だよ、唯。うん、可愛いって言うか綺麗……」
 言葉にならないといった感じに言われ、今度は私が思わず固まってしまう。
 確かに聞いたのは自分だけれど。浮かれてはいたけれど。そう、言われたら言われたで恥ずかしくなる。
「う、あ、あ!」
 今日くらいはもう少し大人っぽい反応を返したかったのに。
 結局、いつも通り、真っ赤になって顔を背けてしまうことしか出来なかった。





 花火を打ち上げるのは、海や川の近くなど広い場所。そういった場所というのは、大体が駅からは随分と離れていたりするわけで。
 ある程度は覚悟していたものの、かなりの距離を歩くことを余儀なくされた。
 空の速度が速いわけではないし、おそらく普段ならば大丈夫なのだろうけど、履き慣れない下駄ではやはり歩きにくくて。
(まずい。靴擦れ)
 鼻緒と皮膚とが擦れて、いつの間にか足の指が痛くなっていた。
 歩くたびにその傷口がさらに擦れて、傷が大きくなっていく。
(うう、痛い。ちょっと泣きそう)
 普通の肌にならまだしも、擦れて皮が剥けた部分が擦れるのは、予想以上に痛い。
 ――でも、痛いけど、笑う。
 空に気付かれたくないから。空が綺麗だと言ってくれたから。
 特別な日。だから、我慢できる。

「唯……足、どうしたの!?」
 しかし、少なからず歩き方が変になってしまうため、隠し切れる筈もなくて。
 空の訝しげな視線が、確信に変わる。
「え、いや、なんでもな」
 誤魔化すように微笑んでも、空は誤魔化されてはくれなくて。私の気持ちとは裏腹に、確認される。
「靴擦れ、いつから?」
「んと、ちょっと前、かな」
 隠すのは無理だと悟り、観念して白状した。
 ちょっと前じゃないけど。かなり前だけど。
 それでも、笑って誤魔化そうとすると、その視線は鋭くなった。
 いつもは何処か子供っぽい声が、今はとても怖い。怒っているんだと、全身で告げる。
「薬局、行こう」
「え! 大丈夫だって!」
「ダメ」
 慌てる私に、空は少しの迷いもなく断言する。
 普段は私優先なのに、珍しく有無言わせず、私の手を引いて歩き始めた。

 周囲は、河岸の方へ向かう人の群れ。もう河岸には、人が集まり始めている。
 しかし、私達は、その流れに逆らって、駅へと向かって歩いた。





 私を引く手は、強く握り締められて痛みを感じるほどだった。
 それでも、それに反して、その歩みはゆっくりとしたもので。
 結構な距離を歩いたにも関わらず、思いの外に痛みが悪化しなかったのは、空が私に合わせてくれていたからだろう。
「ここで待ってて」
 空は、駅近くの適当な場所に私を座らせると、足早に走って行った。
 私がそれ以上は歩けないことが分かっていたから、一人で薬局へ行くつもりなのだろう。
 もうこの時間になれば、花火目的の人間は駅周辺には少なかった。ただの帰宅者ばかりだ。
 花火とは関係がないような駅前の喧騒が、耳に木霊する。
 ビルの合間を通って吹き抜けるような夜の風が、悲しかった。
 本当ならば、こんな場所にいる筈ではなかったのに。本当ならば、今頃は川岸で屋台の食べ物片手に花火を見ていた筈だ。
 遠くで鳴り響く花火の音が、一層私を惨めな想いにさせた。
(空、早く帰って来ないかな)
 怒っている空も怖いけど、一人でいるのはもっと心細かった。
 ただ、私は空のいない一人の時間を、堪えるように瞳を固く閉じた。


 ほどなくして、空は戻って来た。
 予想以上に早かったのは、空が走ってきたからだろう。
 その揺れるレジ袋の中には、バンソコだけでなく消毒液も入っていた。
「消毒するよ?」
 そこまでしなくても大丈夫だと思うのだけど、空は、私に有無言わせずに浴衣の裾を捲った。
 下駄を脱がせる手は優しいけど、その僅かな刺激すらも痛くて、私は唇を噛み締める。
「痛っ!」
 消毒液をかけられて、それが染みる感覚に、思わず声を上げてしまう。
 それに、やはりというか、空の視線が一層きつくなる。
「何処が大丈夫なの?」
「ごめん。だって」
 言われて当然の言葉に、私は口ごもり、視線をさ迷わせる。
 そりゃ、大丈夫か大丈夫じゃないか聞かれたら、勿論大丈夫じゃない。痛くて痛くて、仕方がなかった。
 でも、それを言ったら花火が見られなくなる。そう分かっていたから、意地でも言う訳にはいかなかった。
 だって、幾度となく話題にするほど二人で楽しみにしていたのだ。見られないなんて事態にする訳にはいかなかった。
 ――結局、言わなくても、同じ結果になっているんだけど。
(浴衣なんか、着て来るんじゃなかった)
 心底、そう思う。次は着て来るものかと私は心に誓う。
 私が浴衣を着てこなければ、今頃は当初の予定通り花火を見れていた筈だ。

「ごめん、怒ってるよね。花火……」
 駅前から河川までは、かなりの距離がある。今からでは、どうやっても間に合わない。
 あんなにも楽しみにしていた花火は、私の靴擦れの所為で諦めるしかない。
 あまりに申し訳なさ過ぎた。
「怒ってるよ、馬鹿。でも、花火じゃなくて、唯がちゃんと言わなかったことをね」
 しかし、項垂れる私に、空は何を言っているんだと眉を歪めた。
 その言葉に顔を上げると、真剣な表情の空と視線が合う。
「花火なんかより、唯の方が大事だよ」
 歪めた眉は、怒りではなく苦痛によるものだった。
 空の方が私よりもずっと痛そうな顔で、私を心配そうに見つめていた。
「ごめん、俺も悪いよね。着て来てって言ったのに、気付かなくて」
 つり上がっていた眉が、情けなくへにゃりと歪む。
 その申し訳なさそうな声に、私は一生懸命に首を振った。
 言わなきゃ分かる筈がない。私だって、隠していたのだから。空が謝ることはないのだ。

「じゃあ、仲直り、しよっか」
 頭を撫でられて、二人で顔を合わせて、笑い合う。
「うん」
「で、ここから花火、見よう」
「え?」
 その微笑みにきょとんと瞳を丸くすれば、空は私の後ろの方を指差す。
 その方向を見ると、
「わぁ!」
 そこには、夜空に浮かぶ、大輪の花。
 地上から空へ向かって昇っては、大きな花を咲かせ、散っていく光の花達。
 その空を彩る花々に、思わずため息が漏れてしまう。
 全てが全て見えるわけではないけど、建物の間からは確かに見えた。街のネオンなんかには負けないくらいに激しい光だった。
 周囲では、私達と同じように夜空を見上げる人達がちらほらいた。

「綺麗だね」
「うん!」
 私達は、手を繋いで、夜の空を見上げた。
 街のネオンも、雑踏も気にならなかった。
 花火と空だけが、今の私の全て。





END

2011.9.29


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