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「結婚を申し込まれたぁ!?」
突拍子もない姉の発言に、新八はまず声を荒げてから、はっと弟の存在を思い出した。ぎぎぎぎ、と鈍い動きで首を回す先では、湯飲みを傾げる理汪が静かに目を伏せている。
これは、大丈夫か?大丈夫なのか?静なる怒りがとかそういう静けさではないのだろうか。結構なシスコンが入った弟であるから、どこの馬の骨とも分からぬ男からの求婚なんて心中穏やかではないのでは。
しかし湯飲みの中を見つめる理汪が今何かしらの反応を示す様子がないことを察して、新八はひとまず、視線と意識を笑顔の姉へと向けなおした。
「ま、マジでございますか姉上」
「マジですよ。店のお客さんに昨日突然ね」
「……で、なんて?」
「もちろん丁重に断りしたけど。びっくりしたわ。あんまりしつこいから鼻にストレートキメて逃げてきたの」
「そ……そーですか。どんな人だったか僕も見てみたかっ……」
物好きなのか災難なのか自業自得なのか、実の姉に求婚したと言う男に向けるべき感情がその瞬間はハッキリしなかった。しかしごくごく軽い、純粋な興味で呟いた一言が視界の端で叶った直後、新八は名も知らぬ男に同情の類は一切必要ないことを理解した。
「お妙さああああん!結婚してくれェエエ!」
御近所迷惑甚だしい求婚をしてきたのは、電柱にへばりついた男であった。新八は呆然とする。家まで来るとは思っていなかったのだろうお妙もまた、電柱の男を見上げて呆然としている。湯飲みから視線を上げた理汪も電柱の男をじっと見上げており、男の愛の演説はお妙が灰皿を投擲するまで大音量で響いていた。
灰皿が男の顔面に見事にヒットしてようやく、鈍い落下音の後に静寂が帰ってくる。新八は自分の頬がひくりと引きつるのを感じた。しつこい、とはたった今お妙から聞いてはいたが、まさか自宅までやってくるほどの、いわゆるストーカーという種類の人間だとは思いもしなかったのだ。
あまりのショックに人影の無くなった電柱を見上げ続けるしかなかった新八だが、ふいにその隣を横切る気配を感じて我に返る。はっとして振り返ると、湯飲みをテーブルに置いて立ち上がった理汪がお妙に歩み寄るところであった。
「姉さん、あの人を殴ったの?手は大丈夫だった?怪我してない?」
「ありがとう理汪ちゃん。この通り全く問題ないわ」
「ならいいけど……素手で殴ると怪我するかもしれないよ。気をつけてね」
「ええ、そうね。今度から手近な鈍器を利用するようにするわ」
いや、それはよくない。よくないです姉上。
新八は素なのか意図的なのかよくわからないズレ方をした姉弟の会話に心の内で突っ込みつつ、新八が抱いたような常識的思考を一切口にしない弟にも末恐ろしさを感じるほかない。この弟はまさか、遠まわしに鈍器による撲殺を推奨しているのだろうか。犯罪はいけない。さすがに姉弟を刑務所に見送りたくはない。
……お互いのためにも、あのストーカーの方をどうにかしなければ。
そんな使命感を胸に抱いて、数日後、新八は姉を伴って職場の上司に相談をもちかけることとなる。
思えば、後のとある大事件の発端は、理汪とストーカー野郎が目を合わせてしまったこの瞬間にあったのかもしれない。





「援交ォ?あそこまで熱烈なストーカーをしときながらそれはねえだろ」
新八が万事屋で働きはじめて何ヶ月が経った頃だったか。仕事の関係で顔見知りとなってしまった真選組からの厄介な相談事は、朗らかな気候の下にもち込まれた。
「それはもちろん、まさかと思いますよ。俺だって信じちゃいないです。だからこそ局長の嫌疑を晴らしてほしいわけで……」
「てめーでやれよ」
「身内目だと公平な判断ができないんですよ!アレはいったいどっちなんだ!」
「アレってお前……もう調査してんじゃねーか」
「しましたよ!毎週水曜に同じ少年と一緒にお昼食べに通ってましたけど何かァ!?」
「てめーが既に疑ってんじゃねーか!何が嫌疑を晴らすだ!局長さーん!?おたくの部下が内心で真っ黒認定なさってますけどォ!?」
最低だ。ストーカーに加えて援交。ロリコンもプラスかと思えば一歩外れてショタコンと来た。
新八は心底からの嫌悪を込めて依頼者である山崎を見下ろした。既にあのゴリラの被害者である姉に加え、これでは弟まで射程範囲に入りかねない。理汪とは絶対に会わせられないなと改めて心で決意しつつ、一応は接客の体を保つように山崎の前に湯呑を置いた。
「あれ、新八くーん。銀さんの分は?」
「ねーよ。てめーでやれ」
「ちょっと何イラついてんの」
「すみませんねぇ、どこぞの上司が三か月分給料を滞納してくれやがってるせいでこちとら迷惑してんですよ。少しでも早くお支払いいただけるように仕事の経費も節約しなきゃならないんです」
「だったらこいつに出す茶の方が無駄だろーが」
「うるせー仕事しろ。そして給料を払え」
言葉でもって直球に圧をかけてみるが、この上司ときたら「へーへー」とどこ吹く風だ。しかし今の要求を受け取ったのか、単純にこの話題から逃れたかったのか、銀時は「で、結局何よ」と改めて山崎に向き直った。
「つまり、おたくのゴリラがただのストーカーゴリラなのかショタコンストーカーゴリラなのか判定してくれっつーことか?」
「まあ、それもありますけど……」
「あんだよ」
「……万一黒だった場合、局長の目を覚まして欲しいんですよ」
「それこそてめーらでやれよ」
「できるわけないでしょーが!隊員たちの手前、局長の名誉を汚せませんよ!」
山崎がテーブルに拳を叩きつけ、湯飲みの中のお茶が波を打つ。銀時は面倒くさそうに片耳を塞いでから、やはり面倒くさそうに大きなため息をついた。
「要するに、世間的には全部根拠の無い噂だったと説明できるよう、秘密裏に更正させたいと」
「黒前提で話を進めないでくださいよ。潔白ならそれでいいんです、それで」
「……まあ、こっちは報酬さえもらえりゃあいいけどよ」
かくして、万事屋久方ぶりの仕事は真選組局長の援交疑惑解消、もしくは速やかな更正への助力および隠蔽という、どこか後ろ暗くもある依頼内容ということで話が纏まった。
ともなれば、まずは現場を押さえなければ話にならない。本番は山崎が述べていた水曜日の昼食時だ。だが水曜日までにはまだ日数があったこともあり、まずは近藤と疑惑が立てられている少年の正体から調査を進めて行くことになった。少年の正体が分かれば近藤との関係性も見えてくるであろうし、関係性が見えてくれば援交疑惑の真偽を見定める手がかりになる。
だが、まさかそんな序盤から調査が躓くことになるとは。
「……うーん……やっぱり近藤さんの行動が引っかかりますよね。尾行対策の動きをしてるってことは、尾行される可能性があるって本人が認識してるってことですかね」
「どーせ姉御にバレないようにこそこそしてるアル」
「神楽ちゃんはクロ寄りの意見なんだね……」
まずは山崎が事前に調べ上げた少年の情報を引き継ごう、という流れになったところで明らかになったのは、彼が謎の少年の正体を掴めていなかったという事実だった。というのも、近藤との昼食後、帰宅までのルートをつけようとしても撒かれてしまうとのことで。それも少年が一人の時にではなく、近藤が一緒の時に、だ。ゆえに少年の帰宅先どころか、昼食より後の彼らの行動がつかめない。それが疑惑を助長する。
近藤と少年が昼食を取っていたという店に向かう道中で、新八は呻りながら考え込む。嫌悪を滲ませた顔の神楽は近藤のショタコン疑惑を肯定気味だが、ここまでの調査を経て、新八にはどうもそうとは思えない。確かにあの男のストーカーぶりは身近で実感させられているし、その被害者が身内ということもあって、腹が立つ部分はある。
けれども真選組局長としての近藤勲という男もまた、ある程度は理解しているつもりだ。
だからこそ、きっと何かの勘違いなんだろうと言う気持ちの方が強い……というのが正直なところだ。近藤が少年を連れて尾行対策を取っているというのは、単純に少年に及ぶ害悪を避けるための行動、とは取れないだろうか。
例えば、一緒に昼食を取っているというのも、相手が何か事情のある家柄の子供であって、少年の警護も兼ねているだとか。それほど壮大な話ではないとしても、たまたま親しくなった子供と仲良くお昼を食べていただけで、尾行対策は真選組局長という自分の身分が少年を危険な目にあわせることのないように、という予防措置であるだとか。
「銀さんはどう思います?」
「さーてねぇ……」
夢を見すぎだろうか。あくびをかみ殺しもせずに適当な相槌を打つ銀時が腹の底で何を考えているのかはわからない。
「あ、銀ちゃん。あそこアルよ。不貞の現場アル」
「うっし。聞き込みついでにメシにすっか」
山崎から受け取っていた定食屋の住所と写真は、確かに神楽が指差す店舗と一致している。
新八は先を行く二人に続いて暖簾を潜ると、早速と店主に目撃情報を確認しようとする銀時の後を追った。
「はい?ゴリラ面のおっさんと少年……ああ、確かに見たことあるねえ」
「その二人、どんな様子だった」
「はあ……どんな様子と言われても」
「雰囲気とかさあ、なんかあるだろ?やけに仲がよさそうとか……怪しいとかよ」
「なんだいそりゃ」
問われた店主が怪訝そうな顔をする。怪しいのはむしろお前らだといわんばかりの目が向けられて、銀時の後ろにいた新八はうっと腰を引いた。
やっぱり冤罪だ。近藤勲は無実だったのだ。そう思いたい気持ちが元々あったことは否めないが、そうでなくとも店主のこの反応は、端から見てやましいことは何もなかったと証明しているも同然である。
「じゃあその少年ってどんなやつだったアルか?」
「普通の大人しそうな子だよ。帰りにはおいしかったですとか、ごちそうさまですとか、一言声をかけてくれるような子さ。一体なんの調査をしてんのさ」
「そんなのゴリラのエン」
「わー!わー!神楽ちゃん、僕が説明してもいいかなぁ!?」
馬鹿正直に援交というワードを出そうとした神楽の口を両手で覆い、新八は慌てて前に出る。依頼内容は援交疑惑を晴らすか隠蔽するかの二択であって、すなわち世間から近藤に対して、援交野郎という印象を持たせてはならないのだ。
「いやー、実はですね!そのゴ……年上の男性の方が、最近面倒ごとに巻き込まれてしまって!そんな時、最近彼が懇意にしている少年がいると聞いたものですから、巻き込まれてはいないかと心配になりまして!安否の確認をですね!」
我ながら無理がある。ひきつる頬を叱咤して人畜無害を装っているつもりだが、効果はいかほどのものか。
店主は暫しの間なにかを見極めるように無言を貫いていたが、新八が冷や汗を流しながら耐え抜いた沈黙の後、「そうかい」とひとまず頷いて、厳しい視線を解いてくれた。
「何にしても、教えられるようなことはないよ?」
「いやあ、ほんとに、元気でいるかどうかだけでもいいんで。最近どこかで見かけました?」
「さてねえ。というか、あの二人は兄弟じゃあないのかい?安否確認もなにも、本人の方がわかってるんじゃ……」
「き、兄弟?……え?」
「うん?」
「あの、おっさんと少年ですよね?」
「年の差のある兄弟なんて珍しくもないだろう」
「えっと……どうしてその二人が兄弟だと?」
「いや、お互いそういう感じで呼びあってたからさ」
「……へ、へえ……そうなんですか」
予想外の情報に動揺する新八の後ろでは、「あのゴリラに弟だぁ?」「いや、絶対そういう趣味アル」とこそこそとした話し声が聞こえてくる。
店主は当然、背を向けた銀時と神楽に怪訝そうな目を向ける。新八は慌てて店主の視線を遮り、「あ、ありがとうございましたー!」と二人の背を押して店を出た。言うまでも無いが、「新八、メシはどうするアルか!」ともがく神楽を宥めるのに、最大限の労力が注がれた。しかしそこは場所を変えるということで手打ちとして……。
「こうなったらもう現場を抑えて改心させるしかねーよ。お前の姉ちゃんの名前でも出しときゃどうにかなんだろ」
「いや、分かってます?援交疑惑を周囲に悟られちゃだめなんですからね?……まあ、現場を抑えること自体は賛成ですけど」
「はーい、じゃあ解散。今日は解散〜」
銀時はひらりと手を振って、すぐにこちらに背を向けて歩いていく。方角的に目的地はパチンコ屋だろうか。新八は深くため息を吐いた。
どっと気疲れをしたその日は、家に帰って弟に愚痴をもらした。もちろん依頼人の情報や依頼内容の詳細を語ることは出来ないが、上司の援交疑惑を晴らして欲しいという厄介なお仕事の最中なのだということくらいは、ため息と共に吐き出しても許されると思いたい。
まあ愚痴を聞かされた弟の方はといえば、いまいちピンと来ていないような目をぱちぱちと瞬かせて、「……えんこー。なるほどなー?」と緩い反応を返していたのだが。
しかし何故だろう。このとき妙に、新八の胸中には言いようのないざわめきが生じていた。それがいわゆる嫌な予感であったと理解するのは、翌日のことである。





そして翌日、『水曜日のお昼』だ。
新八は銀時と神楽と共に、例の食堂の一卓を確保していた。
「いいか、決定的な会話が出たところで現行犯だ。それまでは見つかっちゃいけねえ」
「オッケーアルよ、銀ちゃん」
「……何だこの人達……妙にノリノリだな」
近藤と少年が使っているという席のすぐ隣。観葉植物が目隠しになるこの配置では、あちらからも、こちらからも互いの顔は確認できない。
この席で、二人の到着を待ち受ける。二人が入ったところに後から入ったのでは、適当に誤魔化されておしまいだ。ならば先に入って、決定的な会話を耳にした後に、それを突きつける……という、まあ理に適った作戦ではあるが……いかんせん、気は重い。
姉のストーカーが少年に兄と呼ばれて喜ぶ類いの変態でもあるとしたら……うちの弟が危ない。割と本気で危ない。
考えれば考えるほどに気分は沈んでいく。どうか単なる冤罪であれ。そう心の底で願いっていれば……ついにその時はやってきた。
「いや、だからね。やっぱ反対だって」
「えー」
「えーじゃありません。普通に危ないでしょ!」
「でもさ、単発でお給金が出るし……別にいかがわしいことするわけじゃないんだよ。調べてみたら結構ちゃんとした……異文化交流教室?みたいだし。こんな風に話したりご飯食べたりするだけだよ」
「相手がおにいちゃんみたいに優しい人ばっかりとは限らないでしょうが!」
……弟の心配をしていたせいだろうか。ターゲットである近藤の声と共に、理汪の声が聞こえているような錯覚に陥っている。
いや、しかし流石にそれはあり得ないだろう。理汪と近藤の接点など零に等しいのだ。あったとすればそれは、近藤が我が家の前の電柱をよじ登っていた時……一瞬の視線のやりとりくらいであろうし。
そう考えれば、どことなく声が似ているだけの余所の子だなと納得することができる。新八は一瞬の動揺を乗り越えて、既に怪しい会話の方に集中することにした。
「でもお座敷遊びなら身体にも優しいしさー」
「お、お座敷遊びぃ!?おにいちゃんは許しません!」
「いや、たぶん義兄さんが想像してるようなのとは違うよ。お話しするだけだよ。下手に外を歩く訳じゃないからむしろ安全だって……ねえ、何ならお店の方に一回来てみなよ」
あ、何かもうこれクロ疑惑が……。
にいさん呼びはもちろんのこと、近藤の方も「おにいちゃん」を自称している。新八と向かい合って座っている銀時と神楽はといえば、しっかりと上体を伏せながらも、聞こえてくる会話にはどん引きの表情だ。
こそこそとした声が「銀ちゃん、クロアル。真っ黒クロアル」「いや、でもまだ実弟の可能性も……あるわけじゃない?」と話し合っている。
そりゃあもちろん、新八だって背後の席にかけている二人が実の兄弟でしたというオチを期待したいのだけれども。
「で、義兄さんが俺のこと指名してくれれば、あとはお昼寝でもして過ごして……俺はがっぽりと」
「こらこら、おにいちゃんとの仲を金銭で繋ぐんじゃありません。そりゃあきっかけはそうだったかもしれないけど、俺と君との間にあるのはもはや無償の愛という、切っても切れない絆なんだから……」
ここまで会話が続くと、ついに銀時が耐えかねた様子で机を殴りつけた。と同時に立ち上がった彼は観葉植物の影からしっかりと顔を出し、ビシリと近藤に指を指す。
「ハイ黒!残念、真っ黒でしたー!気色悪い会話してんじゃねーぞこのゴリラ!」
「え……万事屋!?こんな所で何しちゃってんの!?」
「うっせーゴリラ!姉御をさんざんつけ回しておいて少年趣味まであるとは、クロ以外の何者でもないアル!」
世間体を守って更正……。新八の頭の中を、依頼内容が駆け抜けて塵と化していく。
新八は諦めの境地で息を吐き、覚悟を決めて振り返った。銀時と神楽、近藤が騒がしく言い合いをする最中、すっかり黙り込んでしまった少年の声は聞こえてこない。
こんな面倒ごとに巻き込まれて可愛そうにと思う反面、あんなおじさんをカモにするだなんてという思いも拭いきれず……緑色の葉に隠された向こう側、身体を傾けてその姿を探した。
視界にはまず、驚いて銀時を見上げている近藤の姿が目に入る。そこから徐々に視界を開いて見えてくるのは、一体どんな子なのだろうかと……。
「…………うちの子じゃねえかあああああ!」
その瞬間、新八は近藤めがけて拳を突き出していた。
「ちょ……えええ!?新八くん!?ちょ、どうしたの!?銀さん付いていけてないんだけどぉ!?」
「理汪、この人誰だかわかってる?忘れちゃった?姉上のストーカーがいるって話は?このおじさんがそうなんだよ!?この人から話しかけてきたの?さも知り合いですって風に話しかけられた!?お兄さんですって!?お前のお兄ちゃんは僕だろ!?そういうの危ないから、誰にもついていったら駄目だって言ってるだろ!」
「え、何、弟?新八くん弟いたの?、銀さん初めて聞いたんだけど?あれ、俺達もうそれなりの付き合いだよねえ?お宅にお邪魔したこともあるよねえ?弟がいるなんて初めて聞いたんですけどお!?」
弟の両肩をがっしりと掴んで詰め寄る新八の横では、先ほどから銀時もまた何かを叫んでいる。だがしかしそれに取り合えるほどの余裕はない。
援助交際だなんて親の顔が見てみたいと思っていた数秒前の自分はどこへやら、今の瞬間に『ゴリラと少年』の少年は完全なる被害者という認識に転換した。
しかし当の本人はといえば、二人分の叫び声に片耳を塞ぎ、一言。
「……うっさ」
ぼそりと呟いた理汪は、全くもって状況に危機感を抱いていないらしい。当然、新八は弟を家族会議へと連行することとなった。


   *


「……しんちゃんのせいで、ねえさんにおこられた……」
居間の机で弟が項垂れている。新八は深くため息を吐き出すと、呆れきった感情を隠すことなく説教を返した。
「僕のせいかよ。普通にお前の危機感の無さが原因だからね」
「新撰組局長と一緒にいて危険も何もないじゃん。ちょっとニイサンって呼ぶだけでお金出してくれるのに何で駄目なの」
「それだよ!その考え方だよ!何財布扱いしちゃってんの!?」
「えっ……やばい、兄さんに懇親の突っ込みをしてもらえた……すごい、俺この世界に順応してる……」
「……駄目だ、お兄ちゃん疲れたよ。言っとくけどリアルな方のお兄ちゃんだからな」
どうしてこの弟は、ほんの一ミリでさえも反省することができないのだろうか。
新八が容赦なくじとりとした目を向けてみても、理汪は相も変わらずへらりと笑うだけである。
「もう、理汪ちゃんまだイジケてるの?ゴリラから金銭を搾り取るのは素晴らしいことだけど、相手はいつ発情するかも分からないケダモノよ。理汪ちゃんの身を危険に晒せないでしょう」
もはやお手上げ状態とも言える新八に変わって説教を引き継いでくれたのは、少し前にこってり弟を絞り上げたはずのお妙だが、いかんせん内容に問題がある。新八は「姉上、問題発言はやめてください」とズレた説教を諫めながら、お妙がお盆に乗せて持ってきてくれた湯飲みを受け取った。
「でも真面目な話。その時話してたっていうお店は、本当に危険がないかどうかを確認できるまで駄目よ。もちろん何のきな臭さもなければ、日雇いで行けるときに行けばいい、なんて理汪ちゃんには好条件なことこの上ないけど」
「いやいや、姉上。確認できてもあんまり賛成できませんよ。天人とお話しするお仕事って……いや、別に天人がどうこうってわけじゃないですけど、常識の通じない種族だって山ほどいるわけで……」
「でも敷地内にはちゃんと用心棒もいるんでしょう?ケダモノと話すお仕事っていうんなら私の職場と大差ないわよ。お酒が入らないだけマシじゃないかしら」
「そりゃ、名目は『異文化交流教室』ですからね!?お酒が入ったら接待になっちゃうだろ!」
どうしてこの場には味方がいないのだろう。
弟が見ず知らずの相手と個別にお話をする仕事に手を出そうとしている。天人相手だろうと地球人相手だろうと、それこそあのとき近藤相手に浮上していた疑惑を事実とするような印象に、不安を抱くのは当然ではなかろうか。
この感覚を理解してくれるのが『義理兄さん』と呼ばれて喜んでいたあの人しかいないという現状がまた虚しい。
「まあまあ兄さん。ほら、近藤さんも一度調べてくれるって言ってたじゃん。いずれにせよ今は結果待ちだし、そう興奮しなくても」
「……」
「あ、怒られそう。オッケ、逃げる」
「は……こら、理汪!」
「今日は色々あったので一旦日記にしたためて参ります!じゃ戻ってくるまでに冷静になっといてねー」
勢いよく立ち上がった理汪は、そう言い残すなり、まっすぐに自室へと待避していく。新八は反射で追いかけようと膝立ちにまでなるが、遠ざかる足音にため息を吐くと、諦めてその場に座り直した。
正面ではお妙が悠々とお茶を飲んでおり、そこには一切の動揺が見られない。新八がつい非難混じりの視線を向けると、お妙は目を閉じて微笑んだ。
「理汪ちゃんの好きにさせてあげたいのよ」
「……ですが姉上」
「新ちゃんだって、あの子がいつも病院を嫌がる理由は分かってるでしょ。自分の体質が家計の負担になってることに負い目を感じてるのよ。今回の件があの子なりにそれを解消できる手段なら、私は自由にさせてあげたいの」
……こうも姉として真っ当な理由を述べられては、反論など封じられたも同然だ。
弟がそうした負い目を抱えていることは分かっている。自分が同じ立場なら、と考えてみれば、容易に想像できる感覚だ。
ならばと、いくらでも融通がききそうな自分の職場に引き入れる……なんてこともしてやれない。それもまた、理汪の身体を思ってのことである。
……調査の結果次第では、やはり受け入れてやるべきなのだろうか。
そんなことを考えながら黙り込んでいると、お妙はふいに「それに」と頬に手を添えてため息を吐いた。
「正直、収入源がハッキリしてる方が私も安心できるのよね。新ちゃんは知らないだろうけど、理汪ちゃんってば、たまにドンとお金を持ってくることがあるのよ」
「……は?」
「あ、これに関して理汪ちゃんを問いつめちゃ駄目よ。黙って受け取る代わりに、必要最低限の入院は受け入れるって。随分前にそう約束したの」
「……は!?」
「もちろん身売りみたいな危険なことはしてないって言っていたからこそよ。あの顔は嘘を吐いてはいないみたいだったし」
そんな危なっかしい事情は初めて聞いた。新八は愕然とした表情で眼鏡をずり落とし、すっかり言葉を失ってしまう。
「何はともあれ、ひとまずは見守って行きましょう。何かあれば、その時は銀さんにお願いするから」
……いや、何かあってからじゃ遅いんですけどね、などというなけなしの突っ込みさえ間に合わない。新八は激動の一日にぽかんと口を開け、思考を一時停止させたのであった。

*