▼やめたい私と退学届


インターホンが鳴っている。これで六度目となる来訪の知らせは実に執念深い。そうこう考えている間に七度目の音が鳴り、ナマエはびくりと玄関扉を凝視した。
扉との距離はゆうに三メートル。これ以上距離を詰めると来訪者に居留守がバレてしまうのではないかという警戒の元、ここから先へは踏み出せない。このワンルームへの来訪者はこれが初めてだというのに、一発目から間髪空けないインターホンの連打とはこれいかに。
まあ初めてだの何だのと言っても、ナマエがこの部屋に居着いてまだ二日と経っていないのだけれども。統計数を出すには母数となる経過時間が短すぎたかもしれない。
というのも、ナマエがこの部屋に押し込まれたのがそれほどに最近のことなのだ。
経緯は自分でもよくわからない。けれども気づけばこの一室。状況が読めずに外に出た直後に目に映ったのがこの世の者とは思えない生物となれば、秒速で踵を返し引きこもるのも当然のことではなかろうか。
夢と信じるには二十四時間近い籠城は現実味を帯びすぎている。簡素な室内にはこの状況を説明してくれるような手がかりなど存在せず、時折遠方から響く轟音に身を縮こませる日々であった。いや、日々と言うほどには全くもって時間は経過していないのだが。
などと考えている間に、いつの間にかインターホンは鳴り止んでいる。
ナマエはどくどくと煩い心臓を片手で押さえ、くたりとその場に座り込んだ。
今の来訪者は一体どちらさまでいらしたのだろうか。ナマエの置かれた状況を説明してくれる誰かであったのなら、是非とも話を聞きたかった。いやしかし、それほどに理解不能な状況であるからこそ、得体の知れぬ来訪者に扉を開けてやることができなかった。ナマエはそれほどの度胸を持ち合わせてはいない。
でも、それでも、このまま引き籠もり続けるというわけにもいかない。それはよくよく理解している。
必要最低限の設備が揃ったこの部屋といえども、冷蔵庫や保存食の中身には限度がある。
あ、いかん、涙が出そう。理解不能な状況によって蓄積されるストレスが、来訪者への恐怖心によって急増した瞬間である。
ナマエは落ち着こうと深く穏やかな呼吸を意識した。深呼吸、深呼吸。
だがしかし、そこに追い打ちをかけるのが現実というやつだ。来訪者が去ったと思われた扉から、今度はガチャガチャと音がした。
ナマエは顔を上げて扉を警戒した。まっすぐに向けた視線の先で――二段付けになった鍵の一つが音を立てて開かれる。
いや、ちょ、それは無い!
恐怖におののいた体は、それでも硬直ではなく緊急対応を選択した。ナマエは弾かれるように扉に向かって駆けると、二つ目の鍵が開く前にドアチェーンを設置する。
居留守を証明する物音になどかまっていられない。鍵をかけたらすぐさま引き返し、まず何より扉との距離を稼ぐ。
どうしよう、どうしよう。
パニックに陥りながらも、ナマエは自衛手段を求めてキッチンの包丁を手に持った。二つ目の鍵が解除され、扉が開いたのは恐らく同時だ。
「おい、いるのか」
響いたのは男の声だった。1DKの間取りだ。数センチが開いた扉の隙間から、ナマエの位置は丸見えだ。
隙間から覗くその人と目があった。
ここでナマエの頭に浮かんだ選択肢は二つ。包丁を片手に男の侵入を拒むか、今のうちにベランダからの逃亡を図るか、である。
結論、あの血走った目との対話なんて無理。
一秒の脳内審議を経て、ナマエは一直線にベランダを目指した。
「おい!」
背後に怒声が投げかけられる。比例して、ナマエの焦燥感が倍増していく。慌てて飛び出したベランダから見るに、ここは建物の二階だ。防犯意識は誉められたものだけれども、現状においてはむしろ誉められる要素が一つもない。
一瞬の怯みが命取りだった。
次の瞬間にはナマエの腰には白い布が巻き付いており、逃亡を図った体は後方に引き寄せられていた。
慌てて振り返ると、紐の先には先ほどの男が立っている。どういうわけだかチェーンをかけたはずの扉は無惨に開かれており、土足の男は血走った目でナマエを凝視していた。
「こ、来ないでください!」
正確には行かせないでください、と言うべきところだろうが、悲しいかな、混乱しきったナマエの第一声はそれであった。
自由な四肢でなんとか体勢を整えて逆らおうとするが、体は男の元へと引っ張られるばかりだ。苦し紛れに向けた包丁はあっさりと取り上げられて、瞬きの間にナマエは両手を後ろにまとめ上げられていた。
「何をしてんだ、阿呆!」
「ひえっ」
「……はあ……おい、ミョウジ。報連相って知ってるか」
「ほ、ホウレンソウは無いです!ほんとです!」
「ボケてる場合か。欠席とこの包丁の理由は」
「自衛ですすみませんごめんなさい!」
「……何に巻き込まれた。落ち着いて話してみろ」
「うぇええ……」
それを理解できていたら苦労なんかしちゃいない。
誘拐か。誘拐なのか。きゃとるだか何だかよくわからないけど宇宙人的なアレなのか。
ナマエはその場にぺたりと座り込みながらも、必死に男からは目を背け続けた。何だかよくわからないけどこういう場合顔を見るのはやばい。アウトだ。決して見まいと瞼を閉ざす以上、男の挙動は音でしか捉えようがないのが恐ろしいところである。
「……。……怪我は」
え、何だこの人優しい人か。不審者から顔を背けながら、早くも絶対拒絶の決心が揺らいだ。
いかん落ち着け絆されるな。相手は正体不明の不法侵入者である。顔を見れば生きて返しては貰えないかもしれない。よくわからないが危険は侵さないに限る。
「何で連絡しなかった」
だというのにこの人は一体どういう意図を持っているのか。先程から問いかけは意味不明だ。
連絡?連絡とは。そもそも誰に連絡しろと。警察か!警察なのか!そうしたいけどもこの部屋には固定電話も携帯電話も無かったわけですが!
「……ミョウジ」
「……」
「……おい、ミョウジ。一回深呼吸だ。こっち見ろ」
見るわけねえだろふざけんな、とは口が裂けても言えるはずは無く、ナマエは消え入りそうな声で、かろうじて「……無理です……」と呟いた。
「……み、見てないです……まだ見てないんでぇ……」
「……あ?」
「……」
「ミョウジ、ちょっと落ち着け。俺だ。分かるな?」
物音が正面に回り込んでくる。かすかに感じた風から察するに……居る。たぶん今目の前にいる。目の前にしゃがみ込まれている!
パニックに陥ってもぞもぞと身体を動かしていると、同情なのか何なのか、後ろ手の拘束が解かれた。ナマエは自由になった両手で慌てて顔を覆い、顔を見ていませんアピールに尽力する。
「……俺の顔を見られない理由があるなら頷け」
そりゃ見られないでしょう。そう思いながらも……何だろうか、こうまでして目を合わせようとする姿勢にじわじわと生じる違和感もある。
この人、悪い人では無いのでは。
だって何だか声音は優しいし。最初の不法侵入の下りを除けば、乱暴にされたわけでもない。
「状況を説明できない理由があるのか」
「……」
「……ミョウジ。大丈夫だ。ちゃんと守ってやるから、言ってみろ」
あ、なんだか完全に優しいだけの人な気がしてきた。
そう考えると……ナマエはつい、目元を覆った指を開いて、その隙間から目の前の人物を覗き見てしまった。
そして直後に、思考は停止する。玄関扉からみた充血した瞳、侵入を果たされた際にちらりとだけ見たその姿。
それらを改めて間近で見てみると。
「…………せ、先生……的な人」
「的なって何だ」
それは紙面上で、もしくは画面上で見たことのある、物語の登場人物に他ならなかった。
いやしかし、待って、そんなにあれには詳しくない。
それ故に口をついて出た、的な、であるわけだが、目の前の先生はあからさまに眉を顰めている。
「……せ、先生」
ので、改めてハッキリと言いきってみた。
「……誰先生だ。言ってみろ」
しかし容赦ないこの追撃である。
「…………えーっと」
「……」
「……あ……え…………あ、相澤!相澤先生!です!」
だがしかし、ピンと来た。嬉しくて顔を覆っていた手をぱっとはがすが、先生の険しい顔はご健在だ。無言まじでやめてほしい。もしや外した?外したのか?どうにか答えを導き出そうと先生らしき人の顔色を伺ってみるが、ドライアイ気味の目からは何一つ読みとれない。
……く、くじける!
そう思った矢先、先生は一つため息を吐いてからその場に立ち上がった。途中、ぐちゃぐちゃと頭を撫でられて、ナマエはぽかんと先生を見上げる。
しかし先生は取り出した携帯を耳に当て、お仕事モードであろう丁寧な口調で、通話相手と話し始めてしまった。
「相澤です。お忙しいところをすみません。ミョウジの件ですが……ひとまず無事ですが、著しい混乱が見られます。何らかの個性にやられている可能性がありますんで、このまま病院に連れて行きます」
なんだよ相澤かよ。合ってたんじゃないか。
先程のややこしい反応は何だったんだという気持ちは喉の奥に押し込めて、ナマエはせめて良い子の姿勢を見せようと正座に切り替えた。
その様子を横目で捉える先生は、「……いえ、まだ詳細は。はい、追って連絡します」と言うなり、電話を切ってこちらに向き直る。
「立てるか」
「……」
「俺はお前に危害を加えたりはしない。相澤消太。お前の担任。……理解できるか?」
あ、無理っす。
担任、の一言にそう察し、ナマエはつい素直に首を横に振ってしまった。
「……個性事故……なら、まだいいが」
対する先生はそんな呟きを残すと、座り込んだままのナマエを躊躇なく担ぎ上げたのだった。


 *


「退学します」
「……とりあえず落ち着け。場所を変える」
頭が痛い。相澤は盛大に吐き出したいため息を飲み込み、目頭を押さえて席を立った。
目の前には、『退学届』と書かれた封筒を掲げた生徒が一人。
つい先日、何らかの事件に巻き込まれたとされている、相澤受け持ちの女子生徒である。
「大体、親御さんとは話したのか」
「親御さんって誰ですか。どこに行けば連絡が取れますか!」
「……」
「先生ー!」
相変わらず威勢は良く能天気だが、言っていることは深刻だ。
相澤は小走りに付いてくる生徒を個室に導き、向かい合って椅子に腰掛けた。
ミョウジナマエ。相澤が担当する1−Aに所属するこの生徒が無断欠席をしでかしたのは、ほんの三日前のことだ。学校側から連絡を取っても、電話は繋がらない。この雄英高校においても不登校という問題は決して無縁の問題ではないのだが……それにしたって、ミョウジのそれはあまりにも唐突な無断欠席であった。安否確認のための家庭訪問が必要になるのは、当然のことである。
結果として、ミョウジは在宅ではあった。だがしかしあの欠席が単なるサボリか体調不良であったかといわれると、状況はそう単純な話ではない。
ミョウジが住んでいるアパートの一室を訪ねたとき、インターホンに対する反応はなかった。しかしそれで不在と片付けるわけにもいかず、相澤は大家に身分と目的を明かし、部屋の開錠を試みた。
鍵を開けている最中にがちゃ、と音がした瞬間は、居留守かこのガキ、と思いもしたが……ドアチェーンによって狭められた扉の隙間から、包丁を片手に立っている生徒の姿を見た瞬間。流石に緊急事態を察知した。直後、ミョウジがベランダから外に飛び出そうとしたときには、それは完全な確信となる。
そうなれば扉をぶち破るのは必要措置であったし、ミョウジが馬鹿をしでかす前に捕縛して包丁を取り上げるのも当然だった。
その後の会話はどうにも噛み合わず……最終的に発覚したのは、ミョウジが自身の個性を含むあらゆる記憶を断片的に失っているという事実であった。
「ミョウジ」
「はい」
「……まず、お前の現状が改善されるまでは、それは受けとれん」
「何でですか!」
「当たり前だろ。個性の影響で一時的に志望動機まで忘れてるだけだ。これが正しくお前の意思だとは受け止められない」
「そうは言っても、その原因の個性だって存在してるかどうかから分からないって話じゃないですか。一時的だなんて保証はないですよ。なのにずっとヒーローになる気のない生徒を置いておくんですか!」
「目下捜査中だ。……事故でない可能性もある以上、なおのことお前を放り出すわけにはいかない」
「優しさが重い」
「……俺は気が重いよ」
始終真顔の生徒を前に、頭痛が増した気がする。
相澤が深くため息を吐くと、ミョウジは「……肩揉みます?」とやはり真顔で両手を持ち上げるものだから、疲労と頭痛は一向に改善の兆しを見せてはくれなかった。