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見られている。それに気が付いて覗いた誰かの意識を辿っても、見えたのは真っ暗な闇だけだった。
村には時折ナマエと同じように、とはいってもさほど強力なものではないようだが、それであっても幻視の力を身に着けた人間は存在する。≪覗かれる≫感覚は初めてではなかったナマエだが、あくまでそれは≪映ってしまっている≫という程度のもの。ここまでハッキリと、明らかに≪覗かれている≫感覚を覚えるのは初めてのことだった。
だからつい、問いかけた。そこに宮田がいることさえ頭から抜けていた。
「きみはだれ?」
覗く誰かにこちらの声が聞こえているはずだとわかったから、ナマエもまたその誰かの視界を覗くことで答えを聞けるだろうと思った。幻視のこんな使い方ははじめてだ。相手の方も≪覗かれている≫感覚を理解できるのならば、この問いが明確に自分に向いていることも理解できただろう。
しかし、聞こえてきたのは引きつった呼吸音だけ。反応は、した。だが驚きすぎて言葉が出てこなかったというところだろうか。
ならば相手が落ち着くのを待つべきだろう。こういった事態が初めてなのはナマエも同じだが、どこかたどたどしくも思える覗かれ方からするに、幻視に関しては自分の方が慣れている可能性も高い。向こうが落ち着けば、あるいは何かしらの反応が返せる状況になれば。何故か向こうの視界が真っ暗である以上、視覚的情報は得られないわけだから。
『――……ゃこさま……?』
一音たりとも取りこぼさないつもりで研ぎ澄ませた神経が拾い上げたのは、雑音の向こうの微かな声。向こう側にいる誰かが呼んだのであろう覗き主の名。
それに、驚愕した。衝撃に見開いた目は向こう側の暗闇だけを見つめ、たった今耳にした名前を渇いた喉で紡ぎ返す。
「……美耶子、さま?」
向こう側の覗き主は怯える様に小さく悲鳴を上げた。それが幼い子供の声だと理解する頃には、『どっかいけ!!』と叫ぶ声に逃げる様に拒絶をされて、驚きこちらまで集中が途切れる。
そうしてようやく、こちらをじっと見つめる宮田と再び視線を交えることとなった。





物心ついたころから身についていた幻視の力はナマエには強大すぎた。ろくにコントロールもできず、流れ込んでくる膨大過ぎる情報の処理もままならず、幼い頭は常に痛みを訴えていた。
思い返せば泣くばかりの幼少期だった。引き取り先の志村家に幻視の力を持つ人間がいたのは少々の救いだが、それでもナマエほどの強くハッキリとした力ではない。それでも、痛みに頭を抱えてうずくまるナマエを志村晃は特に気にかけてくれていた。出来ることなどほとんどなくとも、理解があるというのは大きい。痛みの原因を、泣く理由を知るからこそ理不尽に叱りなどせずに、ただ黙ってそばに居てくれた。優しく頭に置かれた大きな手が、当事どれだけ支えになっていたことか。
一九七六年の土砂崩れ――と言われている儀式の失敗。その際ナマエは一度異界に取り込まれたのち、どういう訳か他二人の赤子と同様に現世へと放り出されたらしい。元々幻視の力の強い血筋だったところを、向こう側へ一度でも身を置いたことにより、それがさらに増幅されたのではないか……というのが、ナマエへ多くを教えてくれた≪声≫による見解である。
その声もまた、物心ついたころからナマエのそばにあった。遠く、小さく、微かな声だが、それは確かにいつでもそばにあった。
届くばかりの声と意思を交わすことができるようになったのは五つか六つのころ。声はミヤコと名乗り、泣いてばかりのナマエをよく宥めてくれていた。大丈夫、練習をしましょう。大丈夫よ、制御できるようになる。ちゃんと、ずっと一緒に見ているから。根気強くナマエを励まし、あちらこちらを覗き見てしまう意識を導いてくれた彼女のおかげで、小学校に上がって少しした頃には幻視の制御も身に付き始めた。無理さえしなければ、あれほど苛まれた頭痛とも全く関わりのない生活を送ることができるようになった。
落ち着いたナマエに志村も安堵した様子であったし、当時ナマエを気にかけてくれていた宮田もどこかほっとした様子であった。それが嬉しかった。ここまで支えて、いつでもそばにいてくれた『ミヤコ』のおかげに他ならなかった。
ますます『ミヤコ』のことを知りたくなって、次から次へと問いを投げかけたものだ。遠い暗闇からのフィルターを挟んだような声は、時折ノイズがかかってすべては聞き取れない。それでもしばらくすれば、彼女は少しずつ自分のことを語ってくれるようになっていった。
『ミヤコ』が『神代美耶子』であるというのも、その時になってようやく知ったことだ。ああ、だからこんなにも尊い人なんだ。貴く、尊ぶべき、優しい人。幼いながらに、神代の名に深く納得した。当初から友愛よりも尊敬の念を抱いていたナマエは、その瞬間から抱いていたそれらを崇拝と敬愛に昇華させ、やがて『ミヤコ』は『ミヤコさま』になった。
傍にいてくださる。導いてくださる。尊い人。正しい人。そして悲しく、淋しい人。
そんな唯一の人は多くの痛みを抱えている。内の一つであろう悲しみは、その声を届けたい子供たちに届けられないこと。その時、ナマエは宮田司郎、牧野慶が自分と同じ境遇にあることを知った。あの頃からずっと、ナマエはミヤコさまを肯定する世界が欲しかった。





「……大丈夫、全部失くそうとするんじゃなくて、一度しっかり聞こうとしてみる方がいい。俺の声、遠くて掠れてしまうけど、なんとか聞こえるでしょう。まずはこの声だけを聴こうとして……俺の視界を見失わないで」
どうせなら、見せるのはもっときれいな世界がよかった。けれども生憎、窓のないこの部屋では薄汚れたコンクリートの壁しか映せない。仕方がないので、ごくごく簡素な監禁室でベッドに仰向けになり、染みのある天井を眺めることにする。右足に繋がる鎖はまだ、映さないように。
『わからない……わからない、おまえはどこにいるの。どれがおまえのせかいなのかわからない……』
「大丈夫、落ち着いて。ほら、今右手をあげました。ぐーぱー、って、動かしている手があるでしょう。これが俺の見てるもの。よく気を付けたら、声はここから聞こえてるってわかるから」
『て……て、は、ある。でもよくみえない、それにいらないおとがたくさんあってうるさい……あっ、だめ、どこにいったの!?』
「ここですよ。俺はずっとここにいる。ゆっくりでいいから焦らないで。見失ったら、また見つければいいだけですよ。少しずつ、少しずつで大丈夫」
ずきずきと痛み始めた頭をそっと抑え、それでも視界には何の異常もないように努める。ぐっと閉じたくなる目を何でもないように開き、意識的に自然な瞬きを繰り返す。
ここから神代家まではなかなかの距離であるはずなのに、美耶子の方にそれらしい障害は見られない。さすがは神代直系の血といったところだろうか。とはいえ、やはり距離を置けば鮮明さには欠けるし、意識は集中させなければならない。そろそろ疲弊はあるだろうから、適度なところで切り上げなければ。あまり無理をさせて幼い頃の自分のような苦しさは与えたくない。
『……とおいからよけいにむずかしいんだ。……もっとちかくにきてよ……』
「すみません、俺はここから出られないんです。お互い不便ですね」
『おまえもとじこめられてるの?』
「はい、美耶子さまと同じです。……美耶子さま、今日はこのあたりにしましょうか。また明日、このくらいの時間に」
聞いていた通りの軟禁生活らしい美耶子は、どうやら目が見えないらしい。そのことについては早い段階に本人から聞いており、ナマエが美耶子と話をするとき、意識は常に暗闇を見つめてのものになる。
現実世界を暗闇の中に生きる美耶子の感覚としては、まだ視界を定めるよりも小さな声を拾う方が安定して維持できているようだ。幼い頃のナマエと同じ状況なら、周囲のあらゆる視界が一度に見えるようなあの乱雑な状況に置かれているはず。そして視覚情報と共に得る聴覚情報は、雑踏の中を歩くような感覚に近い。その中からひとつを特定できないにしても耳には届いているので、必死に耳を澄ませば会話は成り立つ。まだ美耶子はその音がいったいどの視界情報からもたらされているものなのかを判別すること、そして他をシャットアウトすることまでは手が回らないがために、こうして苦しんでしまっているわけだけれど。
ほどなくして覗かれる感覚が消え去ったことを確認した後、ナマエは深く息を吐いて両手で瞼ごと額を覆い隠した。頭の奥がずきずきと痛む。まったく、これだから宮田病院の立地条件だけは恨めしく思わずにいられない。
幻視に関して、ナマエ自身は己を能力の高い方だと自負してはいる。といっても、比較対象なんて志村くらいだが。それにしたって、志村に言わせれば「覗かれている感覚なんぞわかりはしねえ」とのことだし、幻視をコントロールが出来るようになってからは、これでも随分融通がきくようになった。
ただ、能力値の最大限まで幻視の力を酷使して一切の弊害が無いほどの器量はない。対象との距離が開くほど幻視は困難になるし、無理をして集中しただけ襲い来る頭痛は免れない。多くの視界を一度に処理しようとすればさらにひどい。それをやって鼻血が止まらなくなった時にはさすがに焦った。いや、しかし、ここに閉じ込められてからは退屈を幻視で凌いでいるので、これでもいくらか鍛えられてはいる、と思うのだが。
日課なのは、求導女、求導師の視界を覗き見ること。牧野が求導師を継いでからは特に、その様子を覗く頻度は増えた。とはいっても、教会までもまあまあ距離があるので、常にと言うわけにはいかないのだが。
最近はそれに宮田が加わり、良い意味で退屈しない。宮田自身がここまで足を運んでくれることもあるし、そうでなくても彼の見るものを見るのは楽しい。夏季休暇が終わってしまえばまた大学に戻るのは寂しくもあるが、それさえ我慢すればまたここに戻ることはわかっている。そしてゆくゆくは医院を継いで、そうなればずっとこの村にいることになるはずだ。そこまでを考えれば、今の寂しさなど大した苦にはならない。
ナマエは目を閉じて頭痛を誤魔化す最中、ゆるりと口の端を持ち上げた。はやく、そうなればいいのに。はやく、三人でいられたら。
「……また頭痛か」
「まーね。おはよー、司郎」
足音と声だけで近づいてきた人物の正体を判断して、ナマエは瞼を押さえたまま、腕の変わりにじゃらじゃらと音の鳴る足を振った。小さなため息が聞こえて嬉しくなるあたり、反応されると喜ぶガキっぽさが抜けていない。自分でも思う。喜ぶべきか悲しむべきか、ナマエの抱えるこの気質はその先何年経とうと変わることはなかった。






『美耶子様』と出会って七年後。家族を失った土砂崩れから二十七年後。蒸し暑い夏の日に、ついに儀式の日がやってくる。
その夜、激しい動悸と共に目が覚めた。眠ったつもりなどなかったのに、夢から覚めたナマエは光のない真っ暗な闇の中で目を見開くと、息を詰めたまま身体をピクリとも動かせずにいた。
嫌な夢を見た。初めてのことではない。それは『ミヤコさま』の目を通して見た遥か遠い過去の光景であり、ナマエの中に初めての殺人衝動を植えつけた苦しみの記憶だ。
その記憶の中で、八尾比沙子は『澄子』という名で『ミヤコさま』を閉じ込めた。暗い暗い地下の中。信じていたのに。確かに心を許していたのに。ミヤコさまは彼女の無事を心からお喜びになったのに。
――美耶子様、ここに座って……。
――澄子……、何をするの?
――こうして繋ぎとめておかないといけないんです。大事なものはこうして。
視界は穏やかな女の笑顔にはじまる。『澄子』を見上げるミヤコさまの視界は、促されるままに後退し、椅子に腰掛け、そして己を拘束し始める両手足のベルトを映した。
――澄子?澄子!怖い!やめて!
――もう大丈夫。怖い夢を見たんですね?澄子がお歌を歌ってあげます。
『澄子』は最後まで慈愛に満ちた目でミヤコさまを見下ろすと、ついにはその視界をも黒いベルトで覆い隠した。サイレンの音、女の歌声、少女の泣き声。何も見えない。動けない。やがて『澄子』の声は遠ざかり、少女の声……ミヤコさまの啜り泣きとサイレンの音だけがその場に残り、真っ暗な地下は閉ざされる。
そこにはもう誰もこない。誰も見つけてくれない。神代の血は、永遠に死ぬことが叶わないというのに。
ナマエは横になったまま、米神へと伝い落ちる涙にようやく瞬きを思い出す。まずは見開いていた目をゆっくりと閉ざして。動かない身体は後でいい。己を抱きしめるようにした両腕の力は抜けないままで構わないから、先に酸素を取り込まなければ。目頭から零れる生暖かい感触に現実世界へ導かれて、ナマエはようやく震える喉でどうにか一呼吸を成し遂げられた。
……大丈夫、自分が探し出すのだから。
酸素を得て働きはじめた頭でナマエは己にそう言い聞かせる。今も遠くて近い世界で一人暗闇の中にいるその人を救うため。そのためにナマエは美耶子に御神体を破壊するよう囁いた。ナマエはミヤコさまを救うため、美耶子は神の花嫁という生贄の立場から逃げ出すため。そうだ、少し前までその行く末を、しっかり見守っていたはずで。
石が振り上げられた瞬間までは間違いなく見届けた。だがあの後はどうなったのだろう。呼吸の仕方を思い出した肺で浅く呼吸を繰り返しながら、ナマエはハッとして視界を探す。目当ての世界は美耶子が連れているはずの犬の視界。村の端から端まで、届く限りの全ての目を辿るつもりで強く目を瞑る。
そうして盗み見た最初の視界には、首を絞められ苦痛に喘ぐ女性の顔が映って見えた。
「……………………は……」
整わないままの呼吸で吐き出した息が全てを理解して可笑しさに震える。強張っていた身体が途端に弛緩した。
あの女の名は知っている。恩田美奈。何事もなければゆくゆくは宮田美奈と姓を改めることができたかもしれない看護師だ。大方宮田のコンプレックスにでも触れてしまったのだろう。細い首を締め付けるあの手は宮田の手。ナマエが現在覗き見ているのは、恩田美奈を殺害している最中の宮田司郎の視界に間違いない。
必死に抵抗しようとする女性の手はやがて力なく滑り落ちていった。聞こえてくる音に女のうめき声はなく、ただ繰り返される宮田の荒い呼吸だけが届いてくる。
宮田は息絶えた恩田の身体を地面に横たえると、立ち上がってしばしその姿を見下ろしていた。だがそれから間もなくして、弾かれたように部屋を出るなり、ナマエにとっても慣れ親しんだ光景を辿って階段を下りていく。
同時に、現実世界からの音にも彼の足音が加わった。
「……ははっ」
可笑しくて仕方がない。
ナマエは真っ暗闇の中で身体を起こすと、塗れていた目元を拭ってくつくつと漏れ出す笑い声を抑えきれずに頬を緩ませる。
地下室の重たい扉が音を立てて開いた。同時に差し込んでくる光の中に成人男性の影が伸びる。それを辿るようにして視線を持ち上げれば、地下の入り口には未だ整いきらない呼吸を繰り返す宮田が何事か言いたげな顔でこちらを見つめていた。
「ふ……ふくくっ、やっちゃったねえ、司郎ぉ」
ナマエは止められない笑い声でもってそんな宮田を出迎えた。取り戻した余裕で笑いながらに村中を覗き見れば、なんとも可笑しな夜であることに気づいてなおのこと笑いが止まらなくなる。ある場所で教師と生徒が星を眺めているかと思えば、ある場所では親子喧嘩の真っ最中。神代の関係者は当然儀式の準備に追われており、そこには何事もなかったかのように振舞う美耶子の姿もある。それにこんな日に限ってよそ者が一、二、三、四……なんて忙しい夜なんだろう!
「ねえ、埋めるの手伝おうか?司郎のためなら何だってしてあげるよ」
叫び声にも似たサイレンの音が村中に鳴り響くまで、あと。