▼永遠の国の白骨少女


「……きみはだれ?」
問いかけは唐突であった。宮田は背後で何の脈絡も無く呟かれた言葉に振り返る。
普段からへらへらと笑うばかりの幼馴染は、どういうわけかその性格に似合わない驚愕の表情で目を見開いていた。視線はどこでもない宙へ向き、その様子にこちらの方まで驚いてしまう。宮田は手にしていたカルテを放って「……ナマエ?」と訝しみの声で呼びかけた。しかしナマエからの反応はほとんどなく、見開かれた目は未だ薄汚れた壁をぼんやりと眺めているだけである。そう、それこそ、ここではないどこかを見ているようなような様子で。
(幻視か?)
この状態のナマエに全く見覚えが無いわけではない。今ナマエが何をしているのか、可能性として浮かび上がるものはある。
≪幻視≫と呼ばれるその力を有している者は、この村の中では少なからず存在している。宮田自身は他者の視界を盗み見るという≪幻視≫の感覚を知りもしないが、そうした能力の存在に関しては幼少の頃からナマエを通じた実感として理解していた。
しかし、ここまで動揺を露わにするナマエを見るのは幼少期を除けばほぼ初めてに等しいことだ。ともなれば問題は、いったい今誰の視界を見ているのかである。
宮田は体ごとナマエへ向き直り、取り戻した平静さでもって状況の把握に向かった。ナマエは古びた椅子の背面に両の手を拘束されたまま、腫れの引ききらない右の瞼をも押し上げ、未だ大きく目を見開いている。普段ならば≪別のもの≫を見ていようとも彼自身の視界を見失うことはないナマエには珍しく、宮田の姿など見えていない様子だ。
宮田はもう呼びかけることはやめて、ただじっとナマエの様子を眺めた。彼の意識がこちらに戻るまで、もしくは彼が何かを口にでもするまでは、あの動揺の原因はわからない。場合によっては神代への報告が必要になるかもしれない事態を見極めるべく取った行動だが、その後すぐ、ナマエ自身によって解は示された。
ただでさえ動揺に染まっていた瞳が揺らぎ、その目はさらに大きく見開かれて。そうして掠れるような声で呟かれたのは宮田もよく知る名であった。
「……美耶子、さま?」
その名は、宮田の中には二重の意味でもって存在している。
美耶子様、と言えば一般に思い浮かぶのは(村の暗部に通じる人間の認識に限定されるが)神代家次女である神代美耶子の名であろう。美耶子という名は村の政を担ってきた神代家、その次女に代々受け継がれている名だ。生まれ持って宛がわれた≪神の花嫁≫という生贄の役割を背負った当代の少女は盲目。やがて失われる命ごと彼女の存在はひた隠しにされており、生活空間は神代家の薄暗い奥座敷に限定されている。宮田も父に伴って実際の姿を目にしたことがあるだけで、宮田という名を背負わぬ身分であれば一生その存在さえ知らぬままに過ごしていたのかもしれない。
だがそうであったとしても、宮田の記憶にはよく知る同じ名が存在している。それは幼少の頃からナマエが繰り返し口にしていた『ミヤコさま』の存在である。いわく、『遠くに居るけれど、いつでもそばに居る』存在。いわく、『何よりもお優しく、尊く、美しい』存在。
普段であれば、『ミヤコさま』の盲目的信者と化しているナマエが口にするその名であれば、今日も変わらず後者の存在の方であると受け取るのが自然なものである。だが今日のこれは恐らくそうではない。音が同じでもそこに込められた意味が違う。宮田はそれを本能的に感じ取った。
ナマエが日ごろから煩いほどに口にする『ミヤコさま』とは――宮田が断片的にしか感じ取れない≪その人≫とは違う。今の名が示したのは恐らく、当代の。
宮田にとってのミョウジナマエとは幼馴染にあたる存在である。同い年の彼とは小中学校時代までを同じくし、人口の少ないこの寂れた村の分校で、気付けば誰より近しい位置に互いを置いていたように思う。
根の深い部分を共にしているのだと自覚したのは小学校から。その頃には、ナマエはあの気味悪くさえ思える笑みを常とし、宮田が彼を初めて見た頃のような無表情も弱々しさも、すっかりなりをひそめていた。
宮田の記憶する最も古いナマエの姿は、表情に乏しくぽろぽろと涙を流す小さな子供の姿だ。あの頃はいつも「頭が痛い」と言って泣いていた。その理由をまだ知らなかった当時の宮田は、訳知り顔でも何もせずにナマエの手を引く志村家の人間を薄情とさえ感じたことがあったが、今思えば単に彼らには何もできなかったというだけの話なのだろう。少なくとも宮田の知る範囲では、ナマエが引き取られた先の家で酷い扱いを受けていたという事実があったわけでもない。
ただあのときの宮田は、一方的にでもナマエに親近感のようなものを抱いていた。宮田、牧野、ミョウジ。全く違う姓の三人の子供。同い年の三人は、一九七六年の土砂崩れで家族を失った結果、ある意味ではみな同じような境遇に置かれていたわけであるから。
ナマエは宮田のように引き取られた先の姓を名乗ることなく、そのまま彼自身の姓を名乗り続けた。それは志村家が、宮田家や牧野家ほど切に後継ぎを必要としていなかったこともあるだろう。姓も名も取り上げられ、宮田家の跡取りとして扱われた自分とは大違いだ。それを特別羨ましく思ったことはなかったが。ぼんやりとするばかりで喜怒哀楽の希薄であったナマエを前に、幸せな家庭を連想できなかったことも大きかったのかもしれない。自身の重く暗く息苦しい家庭と比較して、ナマエを妬ましく思うこともなかった。
小学校に上がってしばらくすると、ナマエは「頭が痛い」を口にすることも、言葉通りに頭を抱えて座り込みぽろぽろと泣きだすことも無くなった。しかし同時期に、ナマエは一人で幸せそうに目を細めて微笑むことが多くなった。
いまでも覚えている。彼に心の奥底を言い当てられたようなあの感覚。
――慶も一緒でいたいね。
突然だった。あまりに突然すぎたものだから、否定をする間もなく、ただ何故と問うのが精一杯だった。それは、それだけは、誰にも打ち明けたことはない。まだ引き離された片割れを求めていたあの頃。その名を口にすれば母は激しく怒り狂ったものだから。
――だって、俺たちだけだもの。同じ世界を持ってるのは。ミヤコさまが、言ってたよ。
――いまはみんな違う場所でさみしくっても……大丈夫、ミヤコさまがいてくれるから大丈夫だよ。
――ね、司郎。ミヤコさまがいてくれたから、さみしくなかったよ。痛いのも、なくなるように練習したんだ。ずっとミヤコさまが教えてくれたんだ。怖くなんてないんだよ。慶にも、大丈夫だって教えてあげなくちゃね。
宮田が幼い頃から見る『夢』の正体を知ったのはその時のことである。ぼんやりとした曖昧な夢、そこから届く少女の声。それが『ミヤコさま』という名を持つこと、そして同じものをナマエが、異なる姓の片割れが、それぞれの心の奥底で共有しているのだという事実も。
――三人で、一緒がいいね。
幼き日、ナマエはそう言って笑った。あの日の宮田は握られた手を振りほどく気にはなれなかった。
――司郎がいちばん慶に会いたいんだもんね、だからそれまで俺が一緒にいるよ。寂しくないように、一緒にいるよ。
――司郎が会えない分、俺が頑張るから。慶に大丈夫だって、教えてあげなくちゃ。
この頃からもうすでに、ナマエは何処にいるかもわからない『ミヤコさま』を敬愛し、崇拝し、恐ろしいまでの盲信を抱いていた。





「……まさか、美耶子を?またあの狂信者が、愚妹を呼んだんじゃないのか」
「そこまでの判断はつきません。事実報告だけはしておきます」
「……ふん、まあご苦労だった。美耶子のほうは私が見ておく。お前はアレから詳しいことを聞き出しておけ。……幻視で意思の疎通などと聞いたことがないがな」
「はい。失礼します」
神代の屋敷は何度訪れても厳めしく、それでいてどこか気味が悪い。一礼をして後にするのは神代家当代当主のいる応接間。宮田が顔を上げた時、神代政太郎はもうすでに宮田に注意を向けてはいない。
離れの奥座敷に続く道へは宮田の人間とて必要時以外に通されることはなく、当代の美耶子と顔を合わせた回数は、まだ医学生の身である宮田には片手で数えるほどしかない。
宮田が夢に聞く≪声≫が先代のそれであるということなど、ナマエに言われなければきっと一生知りもしなかった。
ナマエは≪声≫のことを当然のように口にしてから……『司郎のそばにいる』宣言をしてから、その言葉通りに多くを宮田の隣で過ごした。とはいっても、大抵は学校での時間のみ。しかしそうであるからこそ、宮田の母の逆鱗に触れるようなこともなかったと言っていい。ナマエの性別もまた、母にとっての『愛する息子に群がる悪い虫』という排除対象から逃れる要素となったのかもしれない。
そうして共に過ごせば当然互いのことが見えてくる。宮田もまた、ナマエという存在がわかってくる。だからこそナマエが宮田と牧野と、三人での世界を望んでいることも理解できた。自分たちは『敬愛するミヤコさま』を感じられる三人なのだと口にしたあの横顔。単純な話だ。ナマエは『ミヤコさま』を肯定する世界を欲している。
幼かった宮田にとって、それは遠ざけられた片割れとの数少ない繋がりであった。もしかしたら同じものを感じているのではないだろうか。ぼんやりと抱いていたその期待をナマエに肯定されたとき、確かにうれしいと感じる自分がいた。
けれどそれも、あくまで幼い頃の話だ。今では宮田は『三人の世界』など望んではいない。牧野慶に対する寂しさや期待などとうの昔に置いてきてしまった。あるのは羨望、怒り、妬み。いつでも光のもとにある彼への後ろ暗い感情ばかりだ。
だがナマエはそうではないようで。高校に上がる前に≪地下室≫へと連れられてしまったものだから、変わらぬ幻想を抱いたままでいるのかもしれない。まだわかってくれると思っているのだ。慶のそばにいる求道女さえいなければ、と。あれさえいなければ、慶もまた、≪声≫を受け入れミヤコさまを肯定してくれる、と。
だからこそ余計にか。ナマエは今でも変わらず、あの女を殺したがっている。





「おかえり」
宮田医院地下隔離室では、今朝ここを出る前と同様、椅子の背面に腕を拘束されながらナマエがへらりと笑って宮田を出迎えた。そこに昨日のような動揺の色はない。
診察中はこうして拘束しておくのが決まりだ。名目が精神疾患であることもあり、カルテには毎日記入しなければならない点が複数ある。でっちあげとは言えやはり監視も必要で、管理は完全に宮田家の役目。その間に襲い掛かられても困るという父からの方針を守る宮田に、ナマエは不満の欠片も抱いてはいないようである。どうせ報告を終えればまた戻ってくるからと、拘束状態のまま放置をしたことに関しても同様に。
やっぱり司郎が来てくれると楽しいなあ、と笑う姿はすっかりいつもの調子だ。何年も地下に閉じ込められていることへの苦痛など、どうにも見て取れはしない。
「政太郎さまはあんまり本気にしてなかったねえ」
「……また頭痛が出るぞ」
「あはー、もう出てる出てる。さすがに神代家は遠いよ。すんげえガンガンする。でもほら、鼻血は出てないじゃん?そこまでやっちゃうと自分じゃ拭えないから困るわー」
へらへら、へらへら、と。ここにいるのが自分でなければすでに苛立ちが溜まり始めているであろう、ナマエのこの舐めきった態度。相手が誰であろうともこの笑みを崩さないものだから、ナマエには目に見える傷が絶えない。瞼の腫れも、切れた唇も、恐らくは宮田の父によるものだ。大学の帰省期間中はこうして自分が地下の鍵を管理しているからこそ、少しずつ腫れも引き、状態はいくらか良くなりつつあるのだが。
「……それで、当代の美耶子様と話をしたのか?」
「どうかなあ。司郎は真面目だから政太郎さまに報告しちゃうしなあ」
「言うのか言わないのかはっきりしろ」
「じゃあ内緒にしよう」
ぷす、と笑って肩を竦める姿は年齢にそぐわず子供らしい。今年で二十だというのに、悪戯を企てる子供のような顔ばかりする。宮田の表情(カオ)だと言われる宮田とは真逆。かといっておどおどとした牧野とも全く違う。
この顔が激しい怒りと憎悪に染まっていた瞬間は、だからこそ強い衝撃をもたらした。
あの時、感じたのはきっと恐怖だった。今あの状況に置かれたのであれば冷静に対処も出来たのであろうが、当時中学生だった自分には、とてもでないがまともに動くことなど叶わなかった。赤い求道服、黒い学生服。あの女に馬乗りになり、その心臓へと包丁を突き立てようとしていたナマエ。怯える牧野と、立ち尽くす宮田。数人がかりでナマエを取り押さえようとする大人たちを、ただ呆然と見つめるしか。
そう、中学三年の夏のことだ。ミョウジナマエは求道女――八尾比沙子をその手にかけようとした。以来この病院の地下で、ナマエの世界は薄汚いコンクリートの壁に囲われている。