▼4


「それでこの子ったら、『治崎は私のためにがんばったんだもん!治崎は悪くないもん!』『おじいちゃん、治崎のこといじめないでよ!』ってぇ!」
「やだぁ、かわいいー!」
井戸端会議で噂に尾鰭が付く過程を見せられている気がする。
ナマエはママ集団の中でうれしそうにあの日のことを語る母を恨めしげに見上げた後、結局は居たたまれない思いで俯いた。
授業参観ならぬ保育参観は分かる。そこにナマエの母親がいることも、ほかの園児達の母親がいることも理解できる。個性教育の授業枠ということでナマエがクラスから離れて参観席に居るのも当然の措置だ。
だがしかし、隠す気もない極道の出があっさりと受け入れられているこの状況は解せない。何なんだこの母のコミュ力。そして本人を前に大泣きしただの何だのと嬉々として語る神経が解せない。
「この間のナマエちゃんの早退、あの時はうちの子の個性が本当にごめんなさいね」
「やだ、いいんですよぉ。もちろん身体には良くないことですけど、そういう経験がなくちゃ、この子も自分の身体のことを理解できませんもの」
「そう言って頂けるのはこちらとしても助かりますけれど……」
「それにここだけの話、そういうことがあったから、あの大告白もあったわけで……。ほら、うちの治崎が必死に奔走して、ちょっと過激になりすぎるところをうちの父に叱られて。……やだ、そう考えたらおたくのお子さんたらキューピッドなんじゃない?」
どの口がそれっぽい教育論を語るのか。
というか告白言うな。ギリギリと奥歯を噛みしめたくてたまらなくなるが、母は微塵も悪びれることなく顔を覗き込んでくる。
「ねー、ナマエちゃん。『治崎だけが私のことを大事にしてくれるんだもん』だったっけ?」
言ってねーよ!記憶が曖昧か!
そう声を上げたいところだが、外面だけはいいナマエとしては、荒々しく否定をぶち込むわけにも行かない。
「……い、言ってないもん……」
おかげでこの力ない否定だ。周囲のお母様方から「かぁわいいー!」と声が上がった。やめろ、照れ隠しみたいな扱いやめろ。本当にそこまで言ってねーから!
いやしかし、こればっかりは状況が悪い。あまりの恥ずかしさに耳まで赤くなっている自覚はある。これが照れ隠しの否定という信憑性を増してしまうのだろう。
でも普通に考えて赤面する。後方に治崎本人が控えてる場面でこれは公開処刑も同然だ。ただでさえ死穢八斎會の中では『お嬢の初恋は治崎』という噂が公然の事実として広まっているのだ。家の外にまで周知させるのはやめてほしい。ましてや本人の前で。
今なら治崎の気持ちが手に取るように分かる。十中八九、「おいおい、勘弁してくれ」だ。
ごめんて、ここまでの大事に発展するとは流石に読めてなかったんだって。そう必死の弁解をしてみるけれど、心の中での弁解など誰にも届きやしない。
ナマエは耳を塞いでうずくまりたい気持ちをどうにか堪えて、むずむずと唇を引き結んだ。



……あの日、ナマエの涙ながらの訴えは、場所を移して改めて話し合われた。
門を潜ったすぐの場所で外野に見守られながらでは可哀想だと気遣ってくれたのかもしれない。組長はナマエと母と治崎を部屋に呼ぶと、改めて問題に向き合った。
すんすんと鼻を啜っていたナマエは始終母の膝の上。ほとんどは組長と治崎の会話を聞くばかりであったが、最後には行き先も告げずに一人で外にでることがいかに心配をかけるかを言い聞かせられ、二度としないことを約束させられた。
流石に二度目を起こす度胸はないので、一人で好きに出かけることはもう二度とないのだろう。年を重ねればいずれは自由が効いてくるのかもしれないが……まあ、最低限欲しかった情報は得られたので、無理をして一人で外に出る必要もない。
ナマエは素直に頷き、約束を受け入れた。
その後は母と共に退室を命じられ、組長室には組長と治崎だけが残った。中でどんな会話がなされていたのかは分からない。
ただ、あとあと玄野に聞いた話によれば、以降は夜まで二人が部屋から出てくることは無かったとのこと。
どちらも互いを突っぱねることはせず、それなりの話し合いが出来たと踏んでいいのだろうか。その辺りの事情に踏み込める立場ではないもので、ナマエには希望的観測を抱いておくくらいしか、出来ることもないのだけれども。
そんなことを悶々と考えていると、「すみません」と予想外に近い位置から治崎の声がした。
「少し外します。目の届く範囲には居ますので」
「あら。はあい、いってらっしゃい」
驚いて顔を上げると、治崎は母に声をかけた後、ちらりとだけナマエと目を合わせて、すぐに室外へと向かってしまった。彼は廊下に出て扉を閉め切ると、すぐに携帯を耳に当てて何かを話し始める。
その間も視線だけは扉のガラス窓から中に向いているものだから、仕事熱心な所には感服だ。最近の彼はああやって頻繁に着信を受けている。この所はナマエの送迎を終えてしまえば、すぐにどこかへ消えていくことが多く、ナマエが床につく時間になっても姿を見ないまま、翌朝の送迎でようやく顔を見るということもざらだ。
詳細は不明だが、中々に多忙を極めているのではなかろうか。
せめてナマエが手の掛からない子で居続けることが余計な負担を減らしていればいいのだけれども。そうナマエが扉の向こうの治崎を見つめてみると、治崎は電話口での会話を続けながらも、すぐにこちらの視線に気付いてくれた。
……いや、気付いてくれたのはなんだか嬉しいんだけれども……目を反らさない、だと。え、どういう気持ちで見返し続けてくれてるの。そのところはよく分からないが、考えが読めいないながらに、目力が強いなとぼんやり考えた。


   *


お休みの日、うとうととしているとテディベアがブランケットをかけてくれた。言い間違いではない。確かにテディベアである。
彼と初めて遭遇したのは家の廊下であったが、驚きに目を丸くするナマエを後目に、当時一緒にいた玄野が「入中さん」と呼んだおかげですぐに正体が明らかになった。
ミミックだ。現在の階級はよくわからないが、キレやすい本部長殿だ。
この所不在が目立つ治崎に代わるように、彼はナマエの近くをうろうろとしていることが多い。
となるとこれは、対幼児用の擬態なのだろうか。かわいいけども。しかし一度しゃべり出すとヤクザそのものであるし、周囲に対してキレている場面を見ることも少なくはない。
ただやはり、見た目の効果ってすごい。あぁあああんん!?と声を上げようとも、その目がくりくりとしたぬいぐるみの目で、振り上げられるのがふわふわとした布地というだけで、ただガラの悪いぬいぐるみと化してしまう。
「お嬢、そろそろ眠る時間だ。おやすみ」
「……うん、おやすみ」
ああああふわふわの手に寝かしつけられている。こんなのズルい。
夜になればしっかり眠たくなってしまう幼児の身体に加えて、こんな安眠グッズが一緒となれば……いやはや、近頃は至極よい眠りでございます。
ナマエがうとうとする間、このテディベアはしっかりとそばに付いている。今日も例に漏れず、ナマエはぽすぽすと毛布に頭を撫でられるような感覚に包まれて速やかに眠りに落ちた。
しかしそこから数時間後、ぱちりと目が覚める。
単純にお手洗いに行きたくなったからだ。寝ぼけ眼で周囲を見回してみるが、部屋の中には誰もいない。ふわふわ入中の気配もない。
ぼんやりと見上げた時計は深夜と呼ぶにふさわしい時間を指していたけれど、大人であればまだ起きて活動していても何ら不思議はない時間帯でもある。恐らくはどこかで、子守から解放された貴重な時間を謳歌していることだろう。
ナマエはもぞもぞと布団から出て、そっと部屋の戸を開いてみた。廊下はまだ明るい。先ほどまで部屋の暗闇の中にあった目にはいささか眩しすぎたが、しばらく目を細めて耐えていれば、次第にこの明度にも慣れてくる。
お手洗いに辿り着いて用を済ませた頃には、瞳孔は光量調節のお仕事を終えていた。
部屋へ戻る途中、ナマエはふと本来辿るべき道とは外れた通路に目を向ける。その先にある部屋をぼんやりと見つめてからしばらく、そちらに意識を奪われたのが、微かに漏れ聞こえる声に誘われたせいであることを理解した。
もしかして、と思ってぺたぺたと廊下を歩いて声の方に近づいてみる。聞こえてくるのは男二人の話し声だ。そのどちらにも馴染みがあるのは、どうやら気のせいではなかったらしい。
「ルート上は大方シメ直した。まだ様子見と継続的な圧力は必要になるだろうが、しばらくは集中的に目を光らせてる。……治安維持と自警の条件からは逸れちゃいない」
「らしいな。報告は受けてる。お前は昔から、求められた結果は必ず持ち帰る奴だったが……」
治崎と組長だ。
ナマエは扉の影からひょこりと顔を覗かせて、ソファにかけて向き合っている二人の姿を見つけた。そうしてナマエが二人を視界に納めるのと、二人がこちらに気付くのはほとんど同時だ。組長は治崎に向けていた言葉を一度区切って、「ナマエ」と呼びかけた。
「どうした。眠れねえか」
「んーん。めがさめちゃっただけ……いまからおふとんにもどるとこ……」
「そうか。一人で戻れるか」
「うん」
どうやら二人は大事なお話の最中だ。シメるだの圧力だのと少々物騒な単語が聞こえてきたが、組長が受け入れているという事は、彼の道から外れた行いということではないのだろう。これが治崎と玄野二人の会話であれば危機感もあったのだろうが、現状としてナマエが慌てたり怯えたりするような要素はない。
ので、ナマエはちらりと治崎を見て、寝起きのゆるい呂律で声をかけておく。
「……ちさき、おかえり」
「ああ」
「……おやすみ……」
「……おやすみ、嬢」
開いた手をゆるりと振って、そんな一言。治崎が手を振り返してくれることこそないが、反応自体はしっかりと返ってくる。
……眠る前に会えるなんて、なんだか、ちょっとしたラッキーに出会えたような気分だ。
彼がこのところ一体何にいそしんでいるのかは分からない。八斎會にどんな変化が現れているのかも、まだ実感として捉えられているものはない。
最近の治崎は何をしているのか、と問うのも一つなのだろうけれども、あらかじめナマエに何の説明も無いことを考えれば、あくまで伝える必要はないと組長が判断しているのかもしれない。
だとしたら、ナマエはただ、彼らが取り組んでいるお仕事の成功と、無事の帰還を願って待つだけだ。「じいじも、おやすみ」と手を振れば、組長もまたしっかりと頷き、「おやすみ」とナマエを送り出してくれた。


   *


治崎が昼夜走り回って一体何に勤しんでいたのか。
それをぼんやりと理解できたのは、とある平日の真昼間だ。その日はどういうわけか、ナマエの登園も、母の出勤も無しになって、組長室で待機が命じられた。
母は事情を理解しているのか、特に首をかしげるような気配も無く、楽しそうにナマエの髪を弄って時間を潰している。
理解できていないのはナマエだけなのだろうか。思えば今朝は、出会う人出会う人、どこか緊張の面持ちであったような気もする。
え、戦争でもおっぱじまるのだろうか。いやいや組長現役の今、そんなまさか。
などと考えていると、ふと部屋の外から数人の足音が近付いてくる。なんだろうか、やけに仰々しい。
ナマエが思わず背筋を伸ばして扉を注視すると、「治崎です。入ります」という声かけの後、扉の影からは治崎本人と、玄野を含む若衆が数人姿を現した。
「組長。人数、面子共に予定通りの来客だ。あと数分で門まで来る」
「そうか。てめえに任せる、治崎。丁重にお招きしろ」
来客とは。丁重にとは。
どう考えても物騒な気配が隠しきれていない二人の会話に、ナマエはハラハラと視線をさ迷わせた。
しかし治崎は一瞬目を合わせるだけですぐに退室をしてしまうし、足音が遠のいた後には、組長も腕を組んで沈黙を保っている。
何だろうかこれ。何が起こってるんだ。しばし悶々とした後、ナマエが意を決して一度状況を問おうと口を開くのと、敷地内で大きな音が聞こえてくるのはほぼ同時。
ナマエは驚きに目を瞬かせて、轟音にぴたりと身体を硬直させた。
これは明らかにバトっている。抗争的な何かだ。直感がそう告げている。
しかし組長はやはりこの騒ぎを静観しているようであるし……そう問題のある事態では無いということだろうか。
やがて数十分とかからないうちに音は鳴り止んだ。
敷地内で始まっていた何かが終わったのだと察すると、程なくして再び足音が近付いてくる。続いて聞こえてきたのは「玄野です」の声だ。今度は治崎ではない。そんなことを考えている間に、入室した玄野は組長の前に立ち、淡々と報告事項を口にする。
「お客人との話し合いは完了しやした。ご納得の上、お帰り頂けたと思いやす」
「……早かったな」
「廻の個性を何度か経験すれば物分かりも良くなりやしょう。あくまでも、最終的には死傷者は零です」
「治崎本人はどうした」
「いつものアレで気が立ってるもんで、遅れて戻りやす」
さすがにこれは抗争確定だ。
治崎の個性、死傷者、いつものアレ。報告に含まれる単語の一つ一つが、血なまぐさい事柄を暗に示している。
ナマエは先ほど轟音に遮られた決意を改めて胸に抱き、「くみちょう」と祖父に呼びかけた。
「……くみちょう、みんななにしてたの?わたし、きいてもいいこと?」
「……ナマエ、これに関しては治崎から報告させてやってくれるか」
もったいぶられて、ナマエはきゅっと唇を引き結ぶ。なんだか聞くのも怖くなってくるが……報告自体には組長の許可が下りている。今はただ、その点に安堵するに留めて置くことにした。




要約すると、全てはナマエのための秩序の整備であったらしい。
好きなときに好きなところに行きたい。皆ができるあたりまえがしたい。
このところ治崎が忙しそうにしていたのは、いつぞやナマエが口にした願いを叶えるための『シメ直し』に奔走していたから、だそうだ。
組長と治崎の間で見つけた妥協点が、どんな条件の下に成り立っているのかまでは分からない。幼児という立場であれこれ難しい質問で掘り下げるわけにもいかず、ナマエに理解できたのは、あくまでも治崎本人から語られた内容だけだ。
日常に溶け込んだ個性使用のグレーゾーン。それを、組のシマではキッチリ白黒付けさせる。公共の場での個性の使用禁止を徹底する。その手段としての『私有地での個性使用』が先程の『来客との話し合い』であったのであろうことは、なんとなくで察することができた。
「……実際にはまだ、シメ直しは始まりの段階だ。この先邪魔が入ってくる可能性は高いし、嬢に完全な自由を与えてやれるまでには、まだ時間がかかるだろう」
「……ちさき、それ、わたしのわがままじゃない?」
「これは立派な大儀だ。もともと、組が生き残るためには行動する必要があった。組長はなかなか腰を上げようとはしなかったが……嬢が組長を動かした。嬢は、俺達に行動する理由を、生き残る道を与えたんだ」
ひぇ。何やら大事の気配。
これは素直に喜んでいい事態なのか、危機感を持つべき事態なのか……正直なところよくわからない。
ただ、『社会的最弱者を抱えた指定敵団体』という肩書きは、ナマエにとっての家族が正義の名の下に解体されていく未来をほんの僅かにでも遠のかせた……そういう認識で間違いはないのだろうか。
何にせよ……治崎廻はやはり、組長の恩義に応えたい、その一心で生きている。それをこうして再認識できたからこそ、その想いには想いで応えなければと思うのだ。
「ちさき、くみをまもってくれて、ありがとう」
とはいえ無個性非受容の子供に出来るのは、素直に感謝を述べることくらいだけれども。
でもきっと、それが重要なのだろう。人間は皆、心のどこかで『肯定』を強く求めている。それはヒーローもヴィランも関係ない、共通の願い、共通の人間性だ。
紙面で見た彼が、組長からかけられた言葉を大事に記憶に留めていたように。
今、目の前に居る治崎が僅かに目元を和らげた。その様を真っ直ぐに捉えて、ナマエは自分にできる『これくらいのこと』がいかに重要なのかを、身を持って実感することができた。