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死穢八斎會重要規則、組長の孫娘に対する個性の使用禁止。
これまで手の掛からない子を目指してきたナマエであるが、このたび、組全体に激しく気を遣わせる存在となってしまった。
不可抗力とはいえ肩身が狭い。まあ将来的に出会う『真実吐き』の個性を回避できるという特典付きではあるのだが。おまけに直せばオッケーな過激思考持ちである治崎から、とりあえず直そ、と雑に扱われる可能性も激減したわけだ。組長が床に伏す未来を迎えてしまった場合、いつ何時壊理のような扱いを受けるとも分からないという危険性が残っていただけに、この点に関しては素直によかったと思える。
いやしかし、やっぱり申し訳ない。「わたし、いきるのへたっぴだなあ」と口にしたら、ややあって、母は指さしと共に「それママも思ったー」と無神経極まりない同意を示した。同じこと考えてるなんて奇遇ー!という以外に何の他意もない言葉なのだろうが、聞く人によっては大ダメージだろう。決して「そんなことないよ」を求めての呟きではなかったので、ナマエとしては全く問題ない同意だが。ただ、ここに組長がいたならば、間違いなくお説教コースだった。
それはそうと、ナマエというマイノリティの扱いにくさは、既に幼稚園にはキッチリと話がつけられている。頭の緩い母に代わって、直々に赴いたのは組長と治崎だった。
お話の場にはナマエも同席していたのだけれども、園長と担任の緊張しきった姿が忘れられない。あれは可哀想が過ぎた。
結局あのときの不調の原因となった個性が誰の個性であったのかは不明なままだが、組長もわざわざ犯人探しをする気はないようだった。ナマエもさすがに悪意も敵意もない事故の責任をとらせるのは気が引けたので、堅気に対する組長の姿勢にはほっとした。その代わり、『個性使用禁止』の原則はしっかりと守っていただきたい、という圧が強くかけられはしたが。
教育の現場において、個性は切っても切り離せない要素だ。
人並みの個性の扱い方、個性に伴う身体、精神面のあり方。幼稚園と言えども、教育上個性は使用する必要がある。けれどもやはり、原則、個性は使用禁止なのだ。本来ならば、個性の使用が許されるのは、『個性教育』という科目のみなのである。
しかしそんな枠組みは名ばかりで、実際には個性はあちらこちらで使われ放題だ。
今回組長は、その点を正しく取り仕切れと圧をかけた。
間違ったことを言っているわけではない。しかしグレーゾーンの存在が当然となる社会においては、面倒なことこの上ない注文だろう。非常に扱いづらい園児である自覚はある。実に肩身が狭い。
そんなナマエに、今回正式に世話役があてがわれた。言わずもがな、話し合いの場に同席させられている治崎である。
何かあればこいつが対応します、と園に渡されたのは治崎の携帯番号だろう。私ですら知らないのに、とナマエは心の中で歯軋り。
電話などかける必要もなくそばに居るのだから当然なのだけれども。これが近しいがゆえの敗北。幼馴染が勝てないの法則。
そんな悔しさを噛み締めての幼稚園からの帰り道のことだ。治崎が運転する車の中で、組長が「ナマエ」と渋い声で呼びかけてきた。
「お前、何も言わないのは良くねェ。今後は何かあればちゃんと治崎に話せ」
「うん」
「……お前のそれはいまいち信用ならねえなあ。母親の素直過ぎる所も問題だが、お前の気遣い過ぎる所も問題だ」
「おかあさんとはんぶんこずつがよかったね」
「言うじゃねえか。違いねえ」
正直この人並みの気遣いを半分分け与えたところで、母はなおヤベェ奴だと思うのだけれども。まあそのあたりは口にしないのがまた気遣いというやつだ。正確にはよい子ぶった保身とも言うが、そんなことは誰も知らなくていい問題である。
そんなナマエの上っ面の発言を鼻で笑った組長は、しかしすぐに真剣な顔になって「だがな」とこちらを見下ろしてきた。
「こりゃあ真面目な話だ。最低限、具合が悪いことは素直に話すんだ。お前はこれだけは絶対に守らなきゃならねえ。いいな?」
「……はい、くみちょう」
「よし」
組長の大きな手がぐちゃぐちゃと頭を撫でる。
想われていることに胸が温かくなる……が、最低限の自己管理を念押しされたことで、身動きが取りづらくなってしまった。
一人でこっそりお出かけ計画がおじゃんになる気配しかしない。
こんな状況で幼稚園から抜け出そうものなら、園は深刻な責任問題に晒される。ナマエの勝手によって職を失い路頭に迷う人が出てくるなんて重すぎる。
だからといってそれ以外のタイミングでどこかへ抜け出すとなると……今度は責任を問われるのは治崎である。確実に組長にシメられる。それこそ出来ない。すなわち身動きがとれない。
やはり一人のお出かけは断念するしかないのだろうか。
切実に打開策が欲しい。ナマエはため息の代わりに項垂れ、目を閉じた。





さて、こうしてナマエの身の安全のためにと、周囲には必要な説明がなされたわけだが。
こういう問題は、やはり言葉だけでの理解は難しい。必要なのは実感だ。自分の行動のせいで誰かが傷ついた、その経験さえ明確に記憶されたのなら、以降の解決は早いはず。というのがナマエなりの見解だ。
曲がりなりにも世間はヒーロー全盛期。誰もがヒーローに憧れを抱いている今、悪者を倒し、弱者を守るという概念自体は理解を得やすい。
解決は時間の問題だ。ナマエはただ、個性を受容できずに起こす不調を、クラス内に隠すことなく知らしめ、理解をさせる。
問題はその間の組の反応なのだけれども。
「嬢」
早速早退を余儀なくされた今日この日。繰り上がった送迎時間に対応した治崎は今、ナマエの目の前に片膝を突いている。帰宅の準備を整えて保健室のソファに待機していたナマエは、平衡感覚の乱れの中、僅かに首を傾げる治崎を見た。
「嬢は賢い。外の世界が嬢には優しくないことは理解しているだろう」
「……うん?」
「それでも外にいたいか?」
……えっ、軟禁フラグ?
戸惑いに目を瞬かせるが、その度視界が大きく揺らぐ。これ、治崎から見て眼球が左右に揺れていないだろうか。そうなっていた場合に見つめられるのもどこか気恥ずかしいので、ナマエはゆっくりと瞼を下ろした。
そうすると共に息を吸い込み、それとなく、柔らかく、軟禁ルートの回避を希望する。
「すきなときに、すきなところにいきたいな」
「……そうか、分かった。クロノ」
あ、玄野も来てたんだ。治崎の呼びかけで初めてそれを認識すると、確かに「へい」と返事が聞こえる。治崎は玄野にこの場所での待機を命じると、自らは立ち上がって踵を返した。その気配を感じてナマエが目を開けた頃には、治崎の背は保健室のドアをくぐるところであった。
「廻は先生とお話にいってやす。お嬢は私と、ここで待ってやしょうね」
「……ちさき、くみちょうにおこられることしない?」
「はは。そう心配しなくても、何か起きても元に戻せやすからね。……ああ、お嬢は廻の個性は見たことないんでしたっけ」
実際には見たことはないし、対人使用は正直見たくない。まさか幼稚園の先生という完全な一般人をばらして戻すなんてことはないはず。ない……よね?と不安になって立ち上がろうとするが、ただでさえ平衡感覚の鈍った体は、一歩目を踏み出すよりも先に易々と捕らえられてしまった。
「お嬢、だめですよ。いい子で待ってやしょうね」
結局、治崎が戻ってきたのは数十分後だった。武力行使に出たのかはわからないが、園を出る際、治崎の肩越しに見た園長は深々と頭を下げてナマエを送り出していた。
……明日の登園後になけなしのフォローを入れておかなければ。
せめて保護者は怖いけどお子さんはいい子、という認識くらいは確立させておきたい。ただでさえ指定敵団体などと名づけられるような立場だ。極道という気質上、素行には何かとケチが付けられやすい。
ならば『お嬢さんのため』という大義名分を周知させ、多少の粗暴さには目を瞑ってもらえるように……そう、してあげられればいいのだけれども。そのためにもナマエ自身は、非の打ち所のない絶対的な被害者を貫かねばならないのだ。


   *


という決意から早一ヶ月。
『原則としての個性使用禁止』の徹底についてだが……実際のところがどうなっていたかというと、残念ながらナマエが早退を余儀なくされることは決して少なくはなかった。
子供達が原則を全く無視しているというわけではない。彼らが『個性使用禁止』を破ることでどれほどの大事が引き起こされるのか、それを身を持って理解する機会を経た今、次回以降は気を付けなければと努めてくれていることはよく分かる。
それでも、だ。相手はまだまだ個性が発現したばかりの子供達だ。どうしたって『事故』は起こる。
そのたび迎えに来るのは当然、世話役とされた治崎であるものだから、彼の中にある個性への嫌悪感情が比例して増加傾向にあるのではないかと、ひそかに身震いしたりもする。
実際、彼の中にフラストレーションが溜まりつつあるのは事実だろう。
今現在、組長の部屋から漏れ聞こえる声がそれを顕著に示している。
「ガキだから仕方ないで済む話じゃない。嬢の身体は確実にダメージを負ってる。身内一人を守ってやれないで……組長、それがあんたの侠客か」
「……治崎」
「これ以上あの子を病に晒すべきじゃない。二つに一つなんだ。嬢を個性という病から遠ざけるか、外から病を一掃するか……そのためならもう、堅気が何だとこだわってる場合じゃ」
「治崎、いいかげんにせぇ!」
堅気に手を出すとなると、途端に組長はお怒りだ。ナマエは零れる怒声に身をすくめ、忍び足で扉から離れた。
相変わらず萎縮させられる怒気だ。そんなことを思いながらも……同時に、今こそがチャンスなのではと考えた。
何のチャンスであるか?そんなの、念願の一人お出かけ計画に決まっている。
今ならば、世話役の治崎は組長と一緒だ。ナマエの現在地が八斎會の敷地内ということで、代わりにお目付け役がついているわけではない。今、この状況下で屋敷を抜け出したのであれば……どうして目を離した、だなんて誰かが叱られるようなことはない。
そうと決まれば。ナマエはそっと後退し、足音を殺して来た道を辿った。
流石に誘拐騒ぎはまずいので、一度部屋に戻って『おそとにいってきます』という書き置きは残しておく。
この先は時間との勝負だ。組長と治崎の話が終わってしまえば、治崎がナマエの様子を見に部屋に戻ってくる可能性は高い。そうしてこの書き置きが見つかれば、即刻捜索隊が組まれて、鬼ごっこが幕を開くのだろう。
その前に、なんとか図書館へ辿り着きたい。そして最低限の時系列を把握し、死穢八斎會の崩壊までに残された時間を把握したい。
思い立ったら即行動だ。叱られる覚悟は今決めた。
一人で家を抜け出して図書館へ向かう表向きの理由は……一人でお出かけができると証明したかった、という所でいいだろう。組長と治崎の言い争いを聞いてしまった。自分のことで喧嘩をしているのはわかったから、大丈夫だとみせたかった。
なにかそう、健気な感じで。





図書館までの道のりがわからない、なんて問題は、道行く人に尋ねれば簡単に解消する問題だった。結果として、ナマエはものの数十分で図書館にたどり着くことに成功した。
心臓は、緊張にばくばくと脈打っている。
行動に移してから遅れてやってきた実感だが……これはナマエにとって、初めての『悪いこと』だ。パソコンの使用スペースに空きを見つけてからも、しばらくは周囲に見知った顔が無いかとそわそわしてしまった。
それでもようやく手に入れたチャンスを無駄にはできない。
ナマエはインターネットの検索欄に求める情報を打ち込み、時間的な現在地の調査に乗り出した。
まずはオールマイト、大災害で検索。該当動画あり。
続いてヒーロー、デクで検索。該当データなし。ストレートに緑谷出久で検索。こちらも該当データなし。
……ひとまずは緑谷出久が雄英高校に入学した年の雄英体育祭はまだ行われていない、ということでいいだろうか。あれだけ目立つ戦い方が放映されていれば、噂の一つくらいは立っているはずだ。
治崎がまだ若頭とは呼ばれていない点からも、ある程度の時間的猶予はあると考えていたが、その考え方に間違いはなかったということだろう。
とはいえ、まだ分かるのは曖昧な猶予だけだ。実際の所、それが数ヶ月単位なのか年単位なのか、その確証に至る情報が欠如している。
ナマエは改めて、ヒーロー、ルミリオンで検索をかけてみた。結果、こちらもヒットする情報は無し。続けてヒーロー、ナイトアイで検索。こちらには該当する項目があったがーーどうやら彼はまだ、個人事務所を立ち上げてはいないようだった。
つまり、オールマイトのサイドキック時代。この結論にナマエはピンと背筋を伸ばした。
この情報は有益だ。オールマイトとナイトアイが組んでいる……それはすなわち、今現在がオールマイトが致命傷を負うより前であるということだ。
確か、オールマイトとナイトアイが組んでいたのは五年だか六年だかで……チームを解消してから原作時間までにも、やっぱり五年だか六年だか……それくらいの年数が経過していたはずだ。
つまり、原作開始までに、最低でも五、六年以上の猶予がある。明確に見えた最低ラインだ。
そうと決まれば、今後はメディアにおけるオールマイトの露出が低下する時期を気にしておけば、それが詳しい目安になる。
ナマエはほっと肩の力を抜いてから、念のためにと1-Aの生徒名も片っ端から検索をかけてみた。
これに関しての収穫はゼロであった。雄英高校に合格するような生徒であるのだから、何かしら秀でた点でインターネット上に名前が残る可能性があると踏んでのことだったのだが……まだそこまでの年齢には至っていないということだろうか。
案外、彼らはナマエと年齢が近いのかもしれない。だとすれば関わりを持つきっかけは作りやすい。
ただ問題は、いかにして緑谷出久を見つけだすか、なのだが。
この際ストレートに彼に出会えずとも良い。未来の1-Aの誰か一人でも見つけることができたなら、そこから巡り巡って、最低でも入学直後の緑谷出久と知り合うことができるのであれば。
ナマエは警戒には警戒を重ねて検索履歴を削除しつつ、思い浮かべた理想を成す困難に小さく息を吐いた。
……せっかくの無個性同士なのだから、そうしたマイノリティ同士のネットワークでもあればよかったのだけれども。
ナマエはなんとなしに無個性、と打ってから、いまいち生かし切れていないポテンシャルに落ち込み、その場に突っ伏した。





さて、しっかりと収穫を得たお出かけ計画だけれども、いつまでもふらふらとし続けるわけにもいかない。
仮にも自分は極道の孫娘。行方が分からないとなれば、書き置きがあるといえども、いつ大捜索に発展するかは分からない。用事を終えた今、ナマエがすべきなのはお叱りに覚悟を決めた上での速やかな帰宅だ。
これまで関係ないからと避難させられてきたあの怒声を、真正面から受ける時がやってくる……考えるだけで緊張と恐怖に苛まれるが、もはや致し方がない。こればかりはもう、腹をくくるしかないのだ。
そんな、覚悟と不安が表情に出ていたのだろうか。
「……君、一人でどうしたのかな?迷子かい?」
突然、見知らぬ人にそう声をかけられた。
ヒーローだ。名前も顔も知らないが、コスチュームと呼ぶべき奇抜な服装を見ればすぐに分かる。
ナマエが顔を上げると、ヒーローはにこりと笑って膝を折った。わざわざ目線を合わせるあたりが王道ヒーローっぽい。
とはいえ、あまり関わり合いになりたい場面ではない。ナマエは首を横に振って「かえるところです」と答えた。
「そうかい。おうちの人は一緒じゃないのかな」
「うん。でもひとりでかえれます」
「じゃあお家まで送っていくよ。一人で歩いているのは危ないからね」
……ん、これヒーローだよね?
恐らく、純粋なヒーロー活動なのだろうけれども、この会話だけを切り取ると不審者とも感じ取れてしまう。いや、白昼堂々、こんな格好で歩いていてヒーローじゃないというのも逆に考えづらいだろうか。
こう考えると、ヒーローというのは何とも微妙な職業だ。警察官のように決まった制服があるわけでもなく、知名度が無ければ、そう言う格好をしただけの一般人との区別が難しい。むしろ奇抜な服装を言えばヴィランと紙一重だ。
現にナマエには、今目の前にいる物腰柔らかなこの人が、本当にヒーローであるのか否かを判断する術がない。
いずれにせよ、助けが不要なことに変わりはないのだが。ナマエはもう一度首を横に振って、はっきりとお断りをすることにした。
「しらないひとには、ついていきません」
「……」
あ、このぽかん顔。たぶん普通にヒーローなんだな。
そんなことを考えていると、ふとナマエの身体が持ち上がった。背後から誰かに抱き上げられた、と理解したときには、すぐそばで落ち着いた声が発せられていた。
「うちの子がご迷惑をおかけしました。どうもありがとうございます」
治崎だ。
一番にナマエを見つけるのが彼だというところでもう、世話役の任を全うしている感がすさまじい。これによって、実は家を出たことにすら気付かれる前に戻れるんじゃないか、なんて淡すぎる期待は無惨に消え去ったわけだが。
問題は治崎が怒っていないかどうかだ。家に帰れば恐らく組長からのお叱りは待っているのだろうが、彼からも「俺の手を煩わせるな」なんて言い放たれたら軽くへこむ。そこはせめて「心配した」にしておいてほしい。あくまでも人並みの感覚を持っているつもりなので、怒られるよりもやはり優しくして欲しい。
などと悶々と考えていると、ヒーローは「……知ってる人かな?」ナマエに問いかけてきた。誘拐の線を疑っているのだろう。ナマエはすぐに頷いて「おうちのひと」と疑惑を晴らしにかかった。
「……そうか!それならよかった」
なんだか含みがありそうな一瞬の沈黙があったが……もしかするとこのヒーローの中で、治崎の顔と指定敵団体の情報が一致しているのかもしれない。けれども治崎本人が「パトロールお疲れさまです」などと思ってもいない言葉で踵を返すものだから、向こうも目に見えて警戒を示すこともできないのだろう。
繕える人、上辺を貫ける人というのは、ヒーローからすればある意味でやっかいな存在かもしれない。その辺り、治崎はヴィランの集団よりもよほど理性的だ。根っこの方はわりと短気だと思うのだけれども。
しかし腹のさぐり合いをするには恐ろしすぎる人を相手にさせてしまった罪悪感でもって、ナマエはひらりとヒーローに手を振った。その間、治崎は片手で携帯を取り出すと、数秒の沈黙の後に「ナマエを見つけた。今から連れて帰る」と簡潔な報告を済ませた。





家に帰ると、門の前に組長が立っていた。
うわ怖。思わず治崎に抱きついて目をそらすが、組長がひとたび「治崎」と命じれば、ナマエはあっさりと地面に下ろされてしまった。権力に勝てない。
最後の足掻きでそれとなく治崎の後ろに身を潜めてみても、「ナマエ」と咎められて終わりである。
ナマエは諦めて組長の御前に出頭。こちらを見下ろす厳しい視線を見上げると、やや間を置いて、組長は「おいで」と踵を返した。
おおおお説教コース。お説教コースだ!
覚悟を決めはしたけれど、決めたからと言って怖くないわけもない。門をくぐった後の敷地内で、こちらを気にする子分達の視線を感じる。
そんな中から「あ、ナマエちゃん!お帰りー!」と脳天気に手を振る母が駆け寄ってくると、ほんの一瞬、ナマエの気が緩んだ。だがしかし、今回ばかりはそれが悪かった。
「この馬鹿モンが!おめぇには子供を育てるっつー意識が足りねェ!」
擬音に表すのであれば、ビクゥウッ!である。
一瞬の気の緩みを突かれた。こちらに駆け寄ってきた母はビクッ、ぽかん、で済んでいるが、ナマエはそうとはいかない。
怒られるという不安に対して構えを解いた一瞬を突く怒声だった。
この出来事さえなければ組長は静かにナマエを諭してくれていたのかもしれないが。ハイ残念。たった今、対母のお叱りの余波で涙腺が攻撃を受けました。
ナマエはその場に足を竦ませ、耐えかねてぽろぽろと涙を零した。
「えっ、え、やだナマエちゃん泣かないでー!どうしたの?おじいちゃん怖かった?ごめんねー?……もう、お父さんこそ子育て向いてないんじゃない?こんなに泣かしちゃってさあ」
「……いっぺん黙れ、この馬鹿娘」
母に背中をよしよしされながら、組長の低い声を聞く。
その声が馬鹿娘への呆れで占められているのか、その馬鹿娘を育てた自身へのあれこれで占められているのかは分からないが、少なくともナマエに対しては声を荒らげる気はないようだ。
組長は一つ深く息を吐くと、改めてナマエに向き直った。
「ナマエ、さっきから俺を怖がるっつーことは、悪いことをしたことは分かってんだろう。……理由があるんならちゃんと言ってみろ」
「……」
「お前はもっと素直にならなきゃならねえと、前にも言ったな?」
黙秘は許さないという追求に、ナマエはついに心を決める時がきたのだと悟った。
図書館に行きたかっただの、調べたいことがあっただの、そんなことを馬鹿正直に言うつもりはない。
ナマエは意を決して――少々恨めしげに、呟いた。
「……おじいちゃんも、ちゃんといわないのに……」
はい口答え。口答えです、ええ、すみません。
今すぐ謝罪したいところだが、ここは勇気を振り絞って言っておかなければならない。そうでなければこの先、組長と治崎の間にある価値観の相違は、取り返しのつかない事態を招く。何事もなく時が進めば、両者の溝は深まるばかりだろう。
その前にもっと当人同士でキッチリと話し合いをしてほしい。組長は組長で、治崎を咎めるばかりではなく、納得させるだけの話をしてくれなきゃ……ほぼ間違いなく彼を止めることはできないのではなかろうか。
そんな切な思いを込めて、泣きます。それでは聞いてください、じいじもちゃんとおはなししてね。
「おじいちゃんも、ちさきになにもいわないで、おこってばっかり!おかあさんにはどうしたらいいかおしえてあげるのに、ちさきにはダメばっかり!」
「……治崎だぁ?」
家庭内問題に突如として巻き込まれた治崎の心境を考えると同情心しか湧いてこない。間違っても今振り返ることはできない。自分がその立場なら「マジか。勘弁してくれ」である。
「きょうもけんかしてた!わたしのこと、わたしのためにちさきががんばるの、だめって、おこってた!」
「……ナマエ、そりゃあお前……聞いてたのか」
「ちさき、わたしのためだもん!わたしが、そとですきなことしたいって、いきたいところも、やりたいことも、だれでもできること、したいって、おもうから!だから!」
人間とは不思議なもので、形から入れば自然と心が追いついてくる。今回は元々叱られることへの不安を抱えていたわけだが、こうして声を上げてみると、案外ノってきて涙が出てくるものだ。
……しかし気のせいだろうか。外野が増えている気がする。
視界の端でなんだなんだと顔を覗かせる子分どもの気配を察知。
まあ、普段聞き分けのいい組長の孫娘が初めて泣きわめいてるのだから、そりゃあ物珍しくもあるか。
いい機会である。未来の若頭の孤立を阻止するためにも、なんか上手いこと、治崎に対する好意的感情を煽ってやろう。これは社会的弱者と、その弱者に心を砕く侠客者の図!
「ヒーローがいても、まもってくれないんだもん!ほんとは、そとじゃこせい、つかっちゃだめなのに、みんなつかって、なのにヒーローは、だめだよってしてくれないから……やめてっておもうの、わたしのわがままになっちゃう、から……だからちさき、ちさきがっ」
「……」
「ちさき、ルールをまもらせるだけだもん!みんながやぶるの、わたしががまんするんじゃなくて、ルールなんだから、みんなまもれって、それだけだもん!なのにおじいちゃん、ちさきをおこった!どうしたらいいって、おしえてくれないのに!だからっ、だから……」
「……ナマエ」
「……わたしががまんしなきゃいけないなら、するから……きょ、きょお、ひとりでおそといけたもん……おそと、ルールのとおりじゃなくても、きをつけてたら、だいじょうぶだったもん……だから、けんか、しないで」
私のために争わないで、による一人外出の正当化。子供の主張って支離滅裂でも許されるところがいい。
顔を覆った幼児がまさかそんなことを考えているとは誰も夢には思っていないだろう。
ナマエの声が尻すぼみになっていくと、やがて周囲は完全に沈黙した。聞こえるのが自分のしゃくりあげる声だけになってくると流石に恥ずかしさが迫ってくる。誰でもいいから何か言って欲しい。
そう望む娘の心が母に届いたのだろうか。先ほどから背中に手を添えてくれていた母は、すぅと息を吸ってから、ぽつりと呟いた。
「……え、ナマエちゃん治崎めっちゃ好きじゃん……」
……愛娘の涙ながらの訴えを告白にすり替えるのはやめろ!