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大事なことは率直に簡潔に明らかにすべきなので、はっきりと申し上げます。
齢四つ。ナマエは無個性でした。
わーい私の中の常識は私の身体では覆らなかったぞ。わーい、かなり好きな未来の若頭に病人を見る目で見られる可能性が無くなったぞ。
と、思ってしまえばこちらのもので、恐らく純粋にこの世界に生まれ落ちた人間に比べれば、無個性と告げられたナマエの衝撃は、ノミほどの小さな衝撃でしかなかった。
「個性なんぞ気にするな。そんなモンは人間の付属品に過ぎやしねぇ」
そして祖父もザ・任侠。ナマエの小さな世界における絶対権力、組長のこの思想も一つの要因だろう。大きくてごつごつした手に頭を撫でられ、ナマエはこくりと頷いた。
「……あっ、閃いた。ナマエちゃんのパパ、もしかして無個性だったんじゃない?」
そして脳天気に空気を読まない母は自ら地雷原に突入。「治崎」とだけ口にした祖父と「ああ」とだけ返した治崎によってナマエが退室させられれば、室内からはお叱りの声が漏れ聞こえてきた。
母のお説教中を治崎と二人で過ごすのはもはや恒例行事と化しているが、この習慣があまりにも平和に満ちていて逆に怖い。現在ナマエを取り巻く死穢八斎會がアットホーム過ぎるせいで、原作の殺伐とした雰囲気といまいち結びつかないのである。
だがしかし、テレビをつければ毎日のように目にするオールマイトという平和の象徴は間違いなく存在している。今があの物語のどの時間に該当するのかはいまいちハッキリしていないが、原作軸で台頭していたヒーローが存在しない点を鑑みるに、少なくとも緑谷出久はまだ高校生にはなっていないのだろう。
彼が雄英高校に入学してしまえば、死穢八斎會の崩壊はもはや秒読み段階である。最低限全国放送の体育祭だけは毎年チェックしていこうとは思っているが、果たしてあとどれほどの時間が残されているのだろう。
この身に個性が宿らない事実が発覚した今、組織崩壊ルートを回避できる都合の良い能力、なんて淡い期待は抱けなくなった。そろそろ本格的に後の対策を練るときが来たのかもしれない。
そんなことを真剣に考えていたものだから、外からはナマエが無個性に思い悩んでいるようにも映ったのだろうか。
「個性が欲しかったか」
「……え?」
治崎からの質問は唐突で、ナマエが問われている内容を理解し直すまでには、数秒の時間を要することとなった。
そうして理解した後に、やめてくれ、と思う。そんな乙女ゲー特有の好感度を左右する二択問題。
感情の読めない三白眼は、じっとこちらを見下ろしている。
結局ナマエはたっぷり悩んだ後、相手の思想に合わせるという無難な回答を選択した。だがしかし、このイイエの首振りが強がりに映ることを想像すると、なけなしのプライドが傷ついてしまう。ので、苦し紛れに「でもあったら、くみのやくにたてたかな」とちょっとは気にしているアピールも加えておくことにした。我ながら打算的。とても四歳児とは思えない。
「……嬢はそのままでいい。余計なことは考えるな」
っはー、打算的で良かった。
治崎の肯定にあっさりと別の面で自らを肯定して、ナマエはゆっくりと頷いた。
正直ここに音本が居たら詰みだった。幸い、時間軸的に彼はまだ組に所属してはいないようなので、この打算に満ち満ちた四歳児の内面を知るものはいない。
さて、治崎の肯定を得た今となっては怖いものなしなわけだが、それでも今後の対策を考えなければならないという事実だけは変えられない。
AFOの投獄に始まる裏社会の混乱。死穢八斎會の復権を謀る治崎の非人道的な計画。勝てば官軍と言わんばかりの、『主人公』という絶対的な脅威。
ナマエにしてみれば、陰日向であろうとも、細々とでも平和に生きられるのならそれで十分だ。裏社会を牛耳って欲しいだなんて思わないし、むしろ正義そのものとも言える主人公との対立は絶対的に避けたいところ。
それでも治崎は、壊理という『手段』を得てしまえば、彼の理想をひた走るのだろう。
一体どうすればそれを阻止できるのか。
組長では彼を止められない。止められなかったからこそ、原作はあの展開を迎えたのだ。
ならば原作にはちらりとも存在しなかった母の存在があればどうだろう。ナマエがアットホームなことこの上ないと感じる今の死穢八斎會の空気は、ひとえに彼女の存在によるところが大きい、ような気がする。
いやしかし、そんな曖昧な可能性にかけてあぐらをかいているわけにもいかない。
主人公に一度絶対悪と認識されれば最後だ。というのはナマエの勝手な想像ではあるけれど、この世界があの少年漫画であるという点が、どうしてもナマエをその想像から逃してはくれないのだ。
……いや、でもそれは、逆に考えてみたらどうだろう。
ナマエの考える主人公絶対説が正しくこの世界の理であるとするならば、主人公の懐に入りさえすれば勝ち確なのでは。
敵意を持たれる前に好意を得る。指定敵団体などと呼ばれる組全体にその感情を抱いて貰うことはまず難しい気がするが……たとえば最低限、無個性の少女として、ナマエ個人が主人公と出会い交流を深めることができたなら。
……不確定ながらに、悪くない保険なのでは?
そう考えると、やんわりとした活路が開けた気がする。ナマエはぱっと顔を上げて、よし、まずはその作戦でいこう、と強く意気込んだ。
己の未来の安寧と、激推しな未来の若頭は必ず守り抜いてみせる。





と、甘く考えていた時期が私にもありました。
主人公の懐に入るだの何だの、そもそも主人公こと緑谷出久はどこにいるのかという話である。
彼の出身中学名でも覚えていたのであれば難易度はぐっと縮まったのかもしれないが、悲しいかな、そんな細かい情報は頭の中にストックされていない。そもそも現時点で彼がいくつなのか、それ以前にこの世に生まれ落ちているのかという根本的な所から不明瞭だ。
通っている幼稚園に彼が居る温ゲーがよかった。そんな展開なら、幼馴染という最強ポジションでもって主人公の温情を得られただろうに。
「お嬢、元気ありやせんね。幼稚園でいじめられやしたか」
「くろの、おぶらーとってしってる?」
「お、難しい言葉知ってやすねぇ」
送迎の車に揺られながら、ナマエはミラー越しに運転席の玄野と目を合わせた。
自身が無個性であると発覚して早一ヶ月。その事実が共有されている幼稚園内では、実際、一切のからかいがないというわけではない。
倫理や世間体など気にもとめない子供達の集まりだ。特に男の子はこういったはみ出し要素を見逃すことなく突いてくる。しかし幼稚園といえども、女子の一体感というものを甘く見てはいけないというのも事実。ムコセーなどという心ない非難にナマエが口を閉ざして落ち込んでみせれば、「××くんサイテー」の嵐は必至である。ナマエ自ら言い返さずとも周囲が対応してくれるのだから楽なものだ。といっても、これは無個性という言葉にさして傷つきもしない、ナマエのメンタル面が大前提となる話だが。
ナマエにしてみれば、無個性という単なる事実を指摘されるよりも、将来身内がことごとく投獄されて社会的に居場所を失うことの方がよほど恐ろしい。
緑谷出久が見つけられない、それこそがただひたすらに深刻な問題だ。
そのことを考えれば考えるほどに気は重くなっていく。ナマエは深くため息を吐きたくなるところをどうにか堪えた。
「お嬢」
車が赤信号で停車する。玄野に呼びかけられて視線を持ち上げると、彼の目は既に、ミラー越しにこちらを捉えていた。
「真面目な話、何かされたらちゃんと言ってくださいね」
こいつ目が笑ってねえ。いや普段から笑う方では無いけれど、いつにも増して目がマジだ。何だかんだと彼も極道者である。
こう言うときには素直に従うが吉なので、ナマエは「うん」と頷いてから窓の外を見た。
……あーあ、こちらこそ真面目な話、どうやって緑谷出久を探したものか。


  *


最低限、今現在の時間軸を把握するには、有名人の現在や、ニュースに取り上げられる大きな出来事を記憶と照らし合わせるのが最適な手段だ。
そう思ってテレビのニュースにはしっかりと目を通すようにしているけれど、未だ決定打となる情報を得るには至っていない。こうなったらリアルタイムに流れてくる現在の情報よりも、調べて掘り起こせる過去の情報から手がかりを探すのが無難だろう。
そう思って行動を起こせたのなら良いのだけれども、四歳の幼稚園児では、行動範囲が恐ろしく限られている。
電子情報に頼りたい。『オールマイト』と『大災害』で動画を検索してみたいし、『雄英』と『体育祭』で過去の映像をチェックして重要人物の姿を探したい。1-Aに所属する生徒の名前を片っ端から検索して一人でもヒットすれば、緑谷出久の現時点の年齢は一発で明らかになる。
けれどもそのためにと家のパソコンを使うのはリスキーだ。
組長や母に関しては、履歴を消す最低限の対処でどうとでもなる気がする。だがしかし、油断ならないのが治崎廻。次点で個人的に警戒を抱いている玄野針。
突然パソコンを使いたい、と申し出たとしたら絶対怪しまれる。いや、組長の孫娘を相手に怪しむというのは少しばかりニュアンスがズレてしまうような気もするが……要は、何かあったのではないかと心配をされてアレコレ探られかねないということだ。
治崎に関して言えば、無個性のナマエに何か余計な思想が吹き込まれてはいないか、だなんて警戒を抱かれる可能性もある。それこそオールマイトなどという検索履歴が見つかれば、彼曰くの『英雄症候群』を疑われてしまう。
いや、それくらいならばまあ、まだ良いのだ。
問題は人物名を検索したことがバレた場合。まずもって確実に調べ上げられる。その先で何が起こるのかは……さっぱり想像がつかない。少なくとも物事がいい方向に転がるイメージは湧いてこない。
図書館に行きたいと強請る案も浮かびはしたが、外で一人で行動を許されるはずがない。必ずお守りはつくだろうし、そうなれば家でこっそりとパソコンを使うのと大差ない。
……残る最終手段、一人でこっそりお出かけ案。
これまで手の掛からない子を心の内で自称できるほどによい子を貫いてきたナマエだけれども、ついによい子を逸脱すべき時がきてしまったのかもしれない。
んんん、極道に怒られるの滅茶苦茶嫌だなああ。
よい子に反する行動を取ったその先を想像し、早くも気が滅入ってくる。ナマエはソファの背に横向きにもたれ掛かると、そのまま三角座りで膝に顔を埋めた。
悩ましい。実に悩ましい。
かといって悩みすぎてタイムリミットを切ってしまうなんて馬鹿な真似はできない。未だ壊理という存在が現れていないことだけが最低限の猶予を証明してくれているが……正直、あの子が現れてしまえば、何の手も打っていない状態は手遅れに等しいと思っている。
そうなる前に、何らかの手は打たなければ。残された猶予を把握するためにも……いつかは行動を起こさなければならない。
「嬢、どうした」
「わっ」
強く目を閉じて決意を固めている最中に、警戒対象からの声かけがあれば流石にびびる。
ナマエはつい飛び跳ねる勢いで顔を上げ、大げさな反応を返してしまった。寝てた、と誤魔化せばよかっただなんて、もはや何の意味もない後悔だ。
「……ちさき。びっくりした」
「調子が悪いのか」
「ううん。げんきだよ。なんで?」
「……いや、それならいい。気にするな」
……やっばい何かこれ勘づかれてるのかもしれないな。
万が一にも前世云々とまでバレているとは思わないが、何かあったのかもしれないと気を遣われるということは、それだけ注意を払われるということだ。
あまりあからさまに異変を感じさせてしまえば、ナマエの一人こっそりお出かけ計画が難航してしまう。
あれこれ考えている間のぼんやりとした姿が彼らの目に付くのだろう。改めなければ。だがしかし、とりあえず今は笑って誤魔化すくらいしか対策方法はない。ここは一時撤退である。
ナマエはソファから下りて治崎を見上げた。
「わたしのどかわいたから、おちゃのんでくる」
「そうか」
少しばかり急な宣言ではあったけれど、特別引き留めるような声はかからない。ナマエは早足に逃げたい気持ちを堪え、余裕のある足取りを心がけた。
部屋を出て少し歩いた後、念のために振り返る。治崎が付いてくるような気配はない。ナマエはほっと安堵して、先程の宣言通りに台所を目指した。
……例のおでかけ計画は、あまり躊躇する期間を置かず、早めに行動してしまった方がいいかもしれない。
そうと決まれば、まずは地の利を得る必要がある。調べ物となればやはり目的地は図書館に絞るとして……ここから……は潜るべき関門が厳しそうなので、ひとまず幼稚園から図書館というルートを採用しておこう。まあスタート地点がどこであれ、道順は覚えておかなければならないのだが。この家のどこかに近辺の地図でもあればいいのだけれども。
あっ、待って、でもこの計画だと幼稚園の先生が監督不行き届きを極道関係者に責められるやつでは。
ひええ……可哀想すぎる。想像しただけで罪悪感に胃がやられそうだ。ナマエはつい胃の辺りをすりすりと擦って……あれ、とその場に立ち止まった。
……何だろう。何だか本当に胃が悪い気がする。
…………いや待って、本当に気持ち悪い。胃が悪いというより……乗り物酔いのような不快感だ。
自覚した途端にぶわりと湧き出る冷や汗で、より一層この不調を自覚させられる。
……何だかよく分からないがこれは結構不味いのでは。
ナマエはその場に膝を突いてぺたりと座り込んだ。
吐くほどでは無い、と思う。嘔吐直前の独特な酸味を感じているというわけではないし、胃の中に物がたまっているような感覚があるわけでもない。
ただ、確かに気持ちが悪い。
楽になりたくて深呼吸を繰り返してみるけれど、一向に改善の兆しは見られない。
これは一旦引き返して治崎に不調を訴えてみるべきでは。その場で分解修正なんてことには……流石に組長が元気に頭を務めている今であればあり得ないだろう。そう自分を後押しするが、立ち上がろうとしても上手く立ち上がれない。
いよいよ本格的に不味い。あまりにも突然の不調であるせいか、下手をすれば命に関わる異常事態が起きているのでは、という不安が湧きあがってくる。
「……ちさ、……」
呼びかけた名前は、あまりの気持ち悪さに一度途切れた。ナマエは一旦状態を落ち着けようと深呼吸を挟み、気を取り直して「ちさき」と呟く。
しかし殆ど吐息同然の呼び声など大した声量を持たない。数メートル後方でぴたりと閉じた扉は、先ほどナマエが自ら閉め切った扉だ。隙間を開けておけばよかっただなんて後悔しても後の祭り。そもそも、あのときの自分にこんな突然の不調を予知できたはずもない。
「……っちさきぃ……」
それでも動けない以上は人を呼ぶしかないのだ。ナマエが気持ちの悪さと格闘しながらようやく声らしい声が出せたときには、誤魔化しようもなく半泣き状態であった。
「…………っ嬢?」
しかし決死の努力は身を結んだらしい。もはや振り替える余裕すらないが、微かな声に気付いて治崎が顔を覗かせてくれたのだろう。
珍しく焦った声だ。けれども彼が来てくれたのであればと、ナマエはようやく安堵することができた。


  *


「個性酔い、ですね」
「……個性酔い?」
「ええ。希にみる例ですが……お孫さんのお身体には、いわゆる『個性因子』がありません。同様に、個性の効果を受け止めるための『受容体』もまた存在していない」
症状を解説する医師を前に、ナマエの隣では祖父がやたらと難しい顔をしている。そんな祖父の後ろには、「治崎、オメェこういう話は得意だろ」と連れてこられた第一発見者の治崎が立っているが、こちらの表情も決して芳しくはない。
対してナマエはと言えば……医師の説明にただ呆けていた。何を言っているのかよく分からない。そんな気持ちがよほど分かりやすく表情に現れていたのか、医師はこちらを見下ろすなり、にこりと笑って噛み砕いた説明をしてくれた。
「うーん、そうだな……そうだ、じゃあお水とコップで説明してみようかな。お嬢ちゃん、個性というものが、このボトルの中のお水だと考えてごらん。いい?」
「うん」
「火を出せる人、水を出せる人……いろんな人がそれぞれ別の個性を持っていることを……このお水が、人によって甘いジュースだったり、熱いお茶だったり、醤油やソースだったりすることに例えてみよう」
「……う、うん」
これちゃんと幼児向けの説明か?
わざわざ取り出してくれたペットボトルとコップは有り難いが、それで説明しきれるものなのだろうか。現時点ではまだ理解は追いついているけれども、最後まで四歳児に理解可能なレベルのお話であり続けるのか、早速不安になってくる。
「個性を持ってる人は、それぞれ色んなボトルの中身を持っているのと同じように、このコップも持ってるんだ。おかげで……例えば誰かの個性でテレパシーを受け取るとき、持っているコップの中に……そうだな、テレパシーがお醤油だとしたら、コップの中にそのお醤油を受け取ることができる」
何故そこで醤油。
流石に頬がひきつりそうになるが、ナマエはなんとか頷いてコップを眺めた。医師はその相槌に満足そうに頷き、「でもお嬢ちゃんの場合は」とナマエからコップを遠ざける。
「このコップを持ってないんだ。だけどそんなことを知らない人が、君にテレパシーというお醤油を渡そうとしたとする。……お嬢ちゃんはどうやってそれを受け取ろうか?」
「えっ。……え、えっと……おてて?」
「いいね。そう、お嬢ちゃんは自分にできる方法でそれを受け取るしかないから……両手で器を作ってお醤油を受け取るしかないよね」
「うん」
「ここで大変なことが起きちゃうんだ。お嬢ちゃんは一生懸命両手で器を作るけど、ちょっと油断したらお醤油は指の隙間から零れてしまう。そうすると腕やお膝が汚れちゃうね。分かる?」
「うん。わかる」
……なるほど上手に受け止めきれないとかそう言う話か。
意外に単純な話だったと頷くが、医師は「でもそれだけじゃなくてね」と困ったように首を傾げた。
「お醤油って、お口についたまま放っておくと痒くなっちゃうでしょ」
「……うん?」
「みんなはコップにお醤油を受け取ってるから何にも痒くなんかならないけど、お嬢ちゃんは両手で受け取ったよね。そしたらその手……きっとだんだん痒くなってくるよね?」
「……うん」
「じゃあ、それがもし、お醤油じゃなくてとっても熱いお茶だったらどうなると思う?手のひらも、零しちゃった腕もお膝も、とっても熱くて辛いよね」
「うん」
「今日のお嬢ちゃんは、そうやって何かを受け取ってしまったんだ。でも今回受け取ったのは、受け取った瞬間に熱い!ってなるようなお茶じゃなくって……受け取ってしばらくしてから痒くなってくるお醤油みたいなものだったんだろうね。だから、お家に返ってしばらくしてから、だんだん身体が辛くなっちゃったんだ」
……なるほどなー!あえてのお醤油チョイスにはちゃんと意味があったのか。
頭のいい人ってすごい。そして自分自身の身体が予想以上にポンコツでどうしようもない。
要は型が古すぎるという話だろう。
新型パソコンに搭載された最新鋭のソフトで作ったファイルを、大した機能のない古いパソコンに持ち込んで開封してしまうようなものだ。その結果、待っているのはパソコンの不調、果てはブルースクリーン。うわ、私のバージョン低すぎ……?というのが分かりやすい例えだろう。
「無個性っつーのは皆そうなのか」
「いえ、殆どはコップ……受容体くらいは持ち合わせているものです。母親の胎内に居る時点で、何かしらの個性の影響を間接的に受けることはありますから。通常なら、その過程で受容体は正しく形成されていきます。ただごく希に、それが上手く形成されないことがある」
「……今回受けた個性ってのは」
「分かりません。ですがお孫さんは幼稚園に通われているとのことですから、恐らくはそこでのことでしょう。誰かが意図してお孫さんに当てたわけではなくとも……それこそテレパシー……そうでなくとも心を読む、幻覚を見せる……そういった干渉型の個性が発揮された場所に居合わせれば、その余波を受けて『酔う』可能性は十分にあります」
「酔うで済まない場合もあるだろう」
「ええ。こればかりは相性もあるでしょうが、場合によっては致命的なダメージを負いかねません」
にこにこ優しく説明に回ってくれていた医師は、今は祖父と向かい合って真剣な話の最中だ。
ナマエは会話に置いてけぼりを食らいながら、どうしたものかと考える。
個性を発現させることが出来ないことに加え、個性を受けることもできない。無個性は無個性でも、完全に進化に対応できていない型ということだ。
これに比べれば緑谷出久は立派に超人社会に適応した型だろう。少なくとも彼は、個性譲り受けることが出来る身体構造をしていた。しかも受け取った個性は、よりにもよってあの馬鹿でかい個性だ。それが身体を鍛えた結果であるとはいえ、そもそもの受け皿を持っているということは、立派な社会への適応である。
比べてナマエの、なんと生きにくい身体であることか。世の中は免許なしには公共の場での個性の使用を禁じているが……こんな決まり事、実際にはあってないようなものだ。
現実問題、公共の場であろうともちまちまとした個性は使われ放題である。重い荷物を個性で運ぶ、落とした物を個性で拾う……この世の中で、個性は日常の隅々にまで溶け込んでいる。
「……今後、どこかの病院にかかる際には必ず『非受容』についての申告をお願いします。治療個性も立派な干渉型ですから……何も知らずに個性による治療を受ければ、治すどころか、逆に壊されかねない。引継手帳を用意しますから、診察の際は必ずご持参ください。幼稚園の職員の方にも、よくよく説明をする必要があります」
……そうか、この旧バージョンが過ぎる身体は、いつか善意に殺されかねないのか。
重苦しい説明事項を耳にして、ナマエははたと瞬いた。
マイノリティの中のマイノリティ。弱者の中の最弱者。
こんなの、ヒーローにとっては『決して傷つけてはならない』存在じゃないか。
「……治崎、ナマエを連れてちょっと外に出てろ」
「……。……嬢」
何だか今、組を生かすための活路が見えたような気がする。
そんな閃きでナマエの気分が上昇する一方で、退室を命じた組長の声は低く重い。子供には聞かせられない話が始まるのだろうか。
余命がどうこう言われてたらどうしよう。
治崎に連れられて外に出てから、思わず扉を振り返る。しかし分厚い扉の向こう側を盗み聞きすることは叶わず、ナマエは諦めて待合いの椅子に腰掛けた。
「ちさき、きょう、たすけてくれてありがとう」
「……いや」
言葉少なに、治崎は何を考えているのだろう。
こんなところにいたら病気になりそうだ……と横顔を見上げながら胸中で密かにアテレコをしてみるが、たぶんそういう顔ではない。
……個性が病気、の思想に拍車をかけてしまっていたらどうしよう。
ちょっとばかり自惚れた心配を抱き、ナマエはふぅと息を吐いた。