▼徐倫片割れの水没携帯


『自分が誰かの明日を救える何かを持っているとしたら、ダッドは迷いなく差し出すことができる人?』
「つまり何だ」
『新しい携帯が欲しい』
「壊したのか」
『水没しちった。どうしても今日中に新しいのが欲しいんだ。ダッドの財布の中身が俺の明日を救うんだけど、いざ立ち上がってはみませんかね』
珍しく、財団の受付を経由しての連絡に何事かと思いはした。しかしまさか、受話器を取った先におねだりが待っていたとは。承太郎は二重の意味で驚いた。緊急事態を予測したにも関わらず実際が気の抜ける内容であったのはもちろんのこと、そもそもあの息子がこうしたおねだりをするという状況自体が珍しいのである。
「……今どこに居る」
『電話ボックス。迎えに来てくれる?』
「それで情報が足りると思っているのか」
『うん。逆探知でよろしく』
一見呆れる横着に対し溜息が零れることはない。むしろ承太郎の口はきつく閉ざされ、デスクに注がれていた視線が無意識に鋭くなる。
怒りからではない。理汪の状況を半ば察してしまったためだ。
「わからないのか」
『ん?』
「わからないんだな」
『……えへへー。まあそんなこともあるよね』
「そこを動くな。すぐに行く」
『手間かけさせちゃってごめーん。待ってまーす』
へらへらとした声音から一度離れて、承太郎は通話を内線へと切り替える。その後はワンコール後に対応に入った財団職員へと、理汪が望んだ通りの逆探知を依頼。一分とかからずに割り出された位置情報を乱暴にメモに書き止めると、やりかけの仕事をそのままに、早々に部屋を後にした。



「状況説明」
「うたたね水ポチャ頭ぱーん」
「どこまで覚えてる」
「え、今のでわかったの?ダッドまじすげーね」
「理汪。話したくなくても話しなさい」
「ダッドまじ流されねー!強いー!うあー!尋問やだー!」
あー、と顔を覆ってしゃがみこんだ我が子の首根っこを掴んで立ち上がらせ、そのまま車まで引っ張って歩く。あ゛ー、と声を濁らせ引きずられる理汪は、助手席に放り投げられてまもなく観念した様子でむくれ、ずるずると背もたれからずり下がった。承太郎は運転席に乗り込み、エンジンもかけないまま確認の続きを始める。
「自己紹介」
「空条理汪。家族構成父母姉。徐倫とは双子ちゃん」
「年齢が抜けてる」
「ぐぬぬぬ……」
「今朝は何をしていた」
「飯食って歯磨きして顔洗って着替えて息してた」
「昨日以前は?」
「突っ込みがほしい……」
「全滅か。……今回は特に重症だな」
「ヒントなしでそれやめてもらえますかね。ズルくね?ズルいよね?こっちは携帯死んでるって重たいハンデがあるわけでさあ」
「ヒントが必要な時点で問題だ」
「今は突っ込み要らなかったっすわー。ダッド容赦ねー」
本気でへこんでいる理汪の気配を隣に感じながら、おおかたの状況を把握した承太郎はようやく車のエンジンをかけた。ひとまずは息子の希望通りに、彼にとって人生の必需品である携帯の確保に向かう。
こうなるに至った経緯……ショッピングモールで理汪を見つけた直後の短縮されすぎた説明によれば、どうやら理汪は出掛け先でうたた寝をして目を冷ました直後から、眠る以前をすっかり忘れてすまったらしい。そうして起き上がった拍子にでも携帯を水の中へ落としたか、グラスでも倒して水をぶちまけたのか。何にせよ、目覚めた瞬間には携帯はもうすっかりもうダメになっていたことに間違いはないだろう。でなければ『習慣』の確認作業で、先ほどの質問に対してもう少しくらいは情報があるはずだ。そうする暇もなく携帯をダメにして、携帯がないゆえに家族の連絡先も全滅。となれば、調べればわかる財団の受け付け番号を経由して連絡を取ってきたのにも納得がいく。
信号待ちの片手間、ちらりと横に視線を流せば、不貞腐れたように唇を尖らせた理汪が窓の外を眺めながら胸元で銀のタグを弄っていた。短い英文をかき消すような直線的傷をなぞる指は、手持ちぶさたに往復を繰り返している。
銀のタグに触れる行為、腕の刺青をなぞる行為。理汪が寝覚めに行うことの多い癖だ。
否、多いどころか必ずと言っていいほどの習慣と言っても間違いはないかもしれない。それらが何かしらの形で理汪の中の不安を解消しているように感じるのもまた、きっと間違いではないのだろう。



数十分後、最寄の携帯販売店へと携帯を持ち込みはしたものの、とりあえず水分を飛ばして、という復旧への試みはあえなく撃沈したと言っていい。電源はつきはしたが、生憎機能の方まで生き返ってはくれなかったようだ。液晶の色彩は気持ちの悪い配色に偏ってる。
ぴくりとも動かない画面の隅には、この小さな機械が歩みを止めた時刻が刻まれていた。
理汪はそんなところに気を止めはしなかったようたが、承太郎は止まった時計の時刻に察する部分があったもので、帽子の唾の陰で静かに眉を寄せるほかなかった。あれは恐らくは携帯が水没したという時間だろう。そしてその時刻は、理汪が承太郎に連絡を取るより何時間も前を示している。
承太郎は静かに理汪を見下ろした。うんとすんともいわない携帯を叩きながら「諦めるなよ、まだまだ長生きしろよ」とぼやくこの子が、噴水近くのテラス席で長い時間を潰す姿が目に浮かぶ。目が覚めて、直前までの自分の行動が思い出せず、なぜ自分がそこにいるのかもわからない。そんな状態で設けられた空白の時間は、恐らくは万一のための確認時間だろう。もしもあそこで誰かと落ち合う約束をしていたのなら、勝手にその場を立ち去るわけにもいかない。しかし携帯が駄目になった状態ではその確認をする術もなく、となれば来るかも分からない誰かのために、念のための待機時間をとるしかない。
唐突な欠落を抱えたまま待ち続けるというのはどんな気分だろうか。昨日をまるごと失ったまま、呆然と待つしかないというのは。
それをこの子は一言さえ口にはしない。
「ダッドが書いてー。もー今日は疲れた。頭いてー」
理汪はカウンターにごつんと頭を乗せて、記入用紙を承太郎の前に滑らせた。
どうやら住所などといった情報もまた今の理汪の記憶からは抜けてしまっているらしい。車の中では徹底的に追及した喪失範囲に関する問題だが、承太郎は改めて追及することは無く、酷く落ち込んでいるらしい息子に代わってペンを取った。


  *


「来ちゃった」
開いた扉の前で自ら頭をこづくのは、わざとらしいにもほどがあるあざとさの演出である。大袈裟な身ぶりには母や祖父の姿を思い起こされるが、その遺伝子は承太郎を飛び越えて息子にしっかり受け継がれているらしい。幾度となく実感する思いを抱えながら、承太郎はじっと理汪を見下ろした。
「……俺がここにいるとは限らないだろう。連絡もなしになんで来た」
「いないならいないで、忙しいとこにわざわざ連絡すんのもなあと思って。でもいたね。一晩泊めて?」
「母さんは?」
「まだ言ってないけど」
「荷物もないようだが」
「お泊まり準備してきてもダッドいなかったら切ないだけじゃーん」
「……」
「忙しい?」
「……母さんにはしっかり連絡しなさい」
「ういー。ダッド大好き、ありがとー!」
ぴょんと飛んで首もとにぶら下がった重みにやれやれだと溢しながら、ひとまずは家の中へ。間もなくすとんと降りた理汪はぱたぱたと家の中を軽く見て回ったあと、「とりあえずなに買ってこよ?」と首をかしげて承太郎を見た。
「下着はその辺で買ってくるとして、服貸してもらえたら……あ、歯ブラシって使い捨てある?」
「ああ」
「ならあとは携帯さえ充電できたら生きてけるね」
買い換えて間もない携帯は、今日も理汪の一日を支えているのだろう。携帯依存の若者の発言というわけでもなく、言葉通り、理汪にとっては生きるために必要なツールだ。
理汪は承太郎が見つめる先で命綱である携帯をポケットにしまうと、変わりに片手にぶら下げていた袋を差し出した。
「はい、ダッド。ちょっと早いけど誕生日おめでと」
「……ああ」
「忘れてた?」
「ああ」
「こないださあ、携帯駄目にしたじゃん。あれ俺何しに行ってたのかと思ったけど、ダッドのプレゼント買ってたみたい」
「そうか」
「渡しそびれるとあれだし、早めにね。なんか逆に新しい携帯プレゼントしてもらっちゃったみたいで申し訳ないんだけどさ」
へらりと笑う理汪から袋を受け取ると、手の空いた理汪は先ほどしまった携帯を取り出してソファに腰掛けた。その指が携帯に打ち込んで行くのは、恐らく今プレゼントを手渡したと言う記録だろう。
承太郎は浅く息を吐いて、おもむろに帽子を脱いだ。それを理汪の頭にかぶせたのはただの気まぐれであるが、「うわ」と驚いた理汪がややあって照れ臭そうに笑う。
その後、微妙にずれた帽子をそのままに打ち込みに戻る理汪を一瞥し、承太郎はキッチンの方へと踵を返した。夕食に用意できるほどのものがあったか、冷蔵庫の中身を確認しておかなければ。

*