▼露伴弟の伝言ゲーム


四歳の子供が一歳にも満たない弟を抱き抱えて逃げてきた姿というのは大層胸を打つ光景だっただろう。鈴美お姉ちゃんが窓から逃がしてくれた、鈴美お姉ちゃんが窓から逃がしてくれた。繰り返す露伴の声を聞いていた幼き日の理汪は、同じく幼い兄の肩越しに見た鈴美と殺人鬼の顔をよく覚えている。覚えている以前に知っているんだけれども。
何はともあれ、幼い岸辺兄弟に起こった悲劇は両親にとっては二度と触れたくない話であり、兄にとっては忘れ去った話であり、弟にとっては覚えてすらいないはずの話だ。おかげで理汪が高校受験を控える年まで岸辺家の中にこの話が持ち上がることはなく、杜王町というワードでさえ耳にする機会は無いに等しかったと言える。兄が故郷に一戸建てを買うと言い出すまでは。
杜王町、と聞いて両親は何を思っただろうか。とはいえ自立の早かった兄の決めた引っ越し先に今さら両親が口を出せるわけもない。かわいらしい露伴ちゃん、なんてものは気難しい変人露伴に上書きされて、もはや誰かのコントロールが利く存在ではなくなったのだ。
そんな兄が引っ越しの際に実家から持ち出したのは、愛用していた画材一式とお気に入りの画集、その他様々なコレクションたち。そこにプラスして炊事洗濯担当アシスタント、要は雑用係としての弟である。
「お前、ここを受けろ」とぶどうが丘高校の資料を机に叩きつけられた時には唖然としたが、二、三秒沈黙した後の理汪の答えは「受験日は送り迎えしてよ」である。急遽変更した受験先、というよりはその経緯に対して両親は何とも言えない顔をしたが、結局は慣れが勝るのが岸辺家である。
最終的には兄さんをよろしくという旨の見送りの言葉を受け取って、理汪のぶどうが丘高校への入学が決まった。
さて、岸辺露伴といえば死亡フラグこそ抱えてはいないものの、なかなかに無茶をかましてくれる人物である。その結果、彼を襲う危機も相当のものであり、バイツァダストの繰り返し被害などその最悪のケースと言えるだろう。万が一、億に一でも最終決戦に異変があれば、彼の生存は確定を外れかねない。
いかに素早くスマートに殺人鬼を確保してもらうか。これがひとつ大きなポイントだ。
本当ならそもそもが物語にさえ関わらなければいいのだが、露伴が矢に射られる事実からねじ曲げたとしても、あの好奇心がやっかいごとに興味を持つ可能性は極めて高い。スタンド能力者がうじゃうじゃと存在するこの町だ。たとえ一般人視点で過ごしたとしても、スタンドの関わる何らかの事象を目撃して、怪奇現象としての興味を抱いてしまう可能性はゼロではない。露伴がそこに非スタンド能力者として突撃した場合のリスクは、たとえすべてが推測にすぎなくとも、致命的といって過言ということはないだろう。
ならば兄にはスタンド能力は身に付けてもらった上で、害悪の芽を早々に摘むのがベストだろう。とはいえその場合、ヘブンズ・ドアーの対象から極力逃れたい理汪にとっての不都合極まりない環境が出来上がってしまうデメリットもある。この頭の中身に兄からの尽きぬ興味を向けられても困るのだ。ソレを思えば、理汪がよそのポジションでよく使う勘だの占いだのといったチート能力的な名目での情報開示はあまり好ましくはないだろう。極力を、『こいつの頭のなかはどうなっているんだ。よし読んでみよう』ルートを避けられる道理ある形での情報開示に努めなければならない。
となれば、何かしらワンクッション挟むことが最適だと思われるので。
「道に迷ったの?」
出口の遠い小道の一角にて、その日の理汪は『ワンクッション』からの声かけをひたすらに待っていた。背後からの声はようやく、だ。わざわざこの危険地帯に足を踏み入れてまで求めた声の主の名は杉本鈴美。理汪は彼女の声に振り返り、犬をつれた少女の姿をじっと視界にとらえた。
変わらない姿だ。露伴の体を押し上げて窓の外へと押しやった、あの当事から何一つ変わりはしない。理汪は鈴美を見つめ、鈴美は理汪を見つめ、互いに無言を貫く時間はほんの数秒間続いた。
「あなたを知ってる」
沈黙から二、三呼吸をおいて、理汪は布石をひとつ、彼女の『中身』に投下した。その瞬間から理汪と兄との間の情報伝達の緩衝材となった少女はといえば、すぐには理汪の言葉の意図するところをつかめずにいる様子で、きょとりとした顔で首をかしげている。
さて、この行動の何が布石であって、何がワンクッションであるかと言うと。そう、つまりは幼児期の記憶があります作戦だ。極力のリスク回避を願ってこの案を採用すると決めて以来、理汪は日常の端々に幼いころの記憶に関する話題を散りばめるという下準備に努めてきた。こんな景色で誰々がこういうことしてなかったっけ?と母に問えば、あら理汪くんったらあんなに小さかったのに、と驚きと感心の声。それを日常的に繰り返してきたのだから、そばで見ていた露伴にとってみても、理汪が幼児期の記憶を保持していること自体への抵抗は薄れるているはず。というか薄れていてもらわなければ困る。わりと切実に。でなければスタンドをコントロールできるようになった兄は嬉々として弟の中身にまで手を出すのだろう。だが断る。誰も自分の中身を他人に読まれたいとは思わない。
理汪のスタンドでもって露伴のあの能力を弾ければいいのだが、その保証がないというのが痛いところだ。本を開くという行為があくまで危害でないというのが厄介なことこの上ない。残念ながら別ポジションにて『開かれた』経験があるもので、少なくとも『開く』という段階に関しては、オート防御のごとき理汪のスタンドの自動的発動が期待できないことがわかってしまっている。あらかじめ『露伴に本にされる』とでも書き込んでおいた場合にどうなるかはわからないが。
最低限理汪のスタンドがオートで弾いてくれるとわかっているのは、ヘブンズ・ドアー発動後、何かしら危害を与えるに相当する行為……いわゆる破るだの書き込むだのといった行為が起こる事態だ。読まれたところであくまでそこにあるのは『岸辺理汪』の記録でしかないはずだが、だからといって自分の内面を読まれたいなんて精神的露出狂にはなれやしないのである。
「俺と兄さんを助けてくれた。覚えてるよ」
それはそうと、目下の問題は目の前の彼女のほうがこの言葉をどう受け止めるか、だ。しかしその点に関しては何も心配は要らなかったようで。付け加えてもなお、まだ何をいっているのかわからないというようにぽかんとしていた鈴美だが、数秒の間をおいて唐突に、ようやくすべてを理解した様子で目を見開いた。
「……理汪ちゃん?」
「うん」
「……うそ、ほんとうに?理汪ちゃん……?」
「うん。……言うのが遅くなってごめん。あの日、俺と兄さんを助けてくれてありがとう、鈴美お姉ちゃん」
ひゅ、とか細く飲み込まれた空気の音は、か細い手が口元を覆ったことですぐに遮られる。しかし次の瞬間には見開いていた鈴美の目がじわじわと潤み、ぽろりと大粒の涙が零れて落ちた。
生憎住む場所が違いすぎるせいで触れることすら叶わないが、せめて彼女が落ち着くのをひたすら待つことで気持ちは寄り添っておこうと思う。あくまで自分の目的のためにこの場所に足を運んだ身で、何を今さら偽善ぶってと自ら突っ込みたくもなるが。しかしながら足元のアーノルドはパタパタとしっぽをふってくれているので、動物は本能的に悪意を見分ける云々という通説を慰めに、この場に立つことを許されていると解釈したい。
とはいえ理汪が慰めの言葉をかける必要もなく、鈴美は程なくすると深呼吸をして早々に自ら涙を制してしまったわけだが。女の子強い。涙を流してからほんの数分のことだ。鈴美は「大きくなったね」と穏やかに微笑んだ。
その後はアーノルドを挟んでアスファルトの上に腰を下ろし、二人そろって平和な青空を仰いだ。いつ帰ってきた、露伴はどんな様子か。世間話はその後数十分と続いたが、不意に会話が途切れた瞬間、当然ながら互いに無言の時間がやってくる。一瞬我に返るような静寂の間、理汪はひとつ深い息を吸った後、青空を仰いだままようやく本題を切り出した。
「あの日、あなたの背後に犯人の顔を見た」
「……え?」
「それらしい人を、この間町で見たよ。……十何年もたってるから、絶対とは言えないんだけど」
隣で鈴美が息をのむのがわかる。彼女が長年待ち続けた結末への重要なピースだ。その反応が当然だろう。
「……なんていうか……俺、ここにはあの日の屋敷を探していて辿りついたんだけど……あなたが居るってことは、たぶん決着を付けたいんだよね」
「……」
「あの日の恩を返せるなら、俺はあなたに協力するよ。あいつが誰なのかを突き止める。……まー、赤ん坊の頃の記憶が信頼できるかっていう根本の問題があるわけだけどね?」
理汪がおどけるように肩を竦めると、しばし呆然としていた鈴美はハッとして身を乗り出した。穏やかに伏せていたアーノルドがつられるように姿勢を正して鈴美を見上げる。主人の鬼気迫る表情に何かを察したのか、ピンと伸びた耳が緊張を訴えるが、鈴美の視線が理汪から外れることはない。
「近づきすぎてはダメ。知らせてくれるだけでいいの。誰か頼れる大人に……警察とか、あいつをどうにかできる誰かに」
「うん。でも、それには証拠がいる。そうでなくても、そいつの名前くらいはね」
鈴美は青空から下りてきた理汪の視線にぐっと押し黙った。葛藤の真っ最中なのだろう。何年もここで待ち続けた悲願の達成と、一度救ったかつての幼子の身の安全。悩ませるのもかわいそうな話である。
ここは理汪の方が多少強引にいくべきだろう。なにせ、理汪は彼女を通じて殺人鬼の顔と名前、彼がスタンド使いである事実を露伴に伝えなければならない。原作展開を捻じ曲げて早々に殺人鬼という危険因子を排除してもらうためにも、最終的には空条承太郎および東方仗助への伝言ゲームを実現させなければならないわけだから。
名前は調べたと言って答えを用意するだけでいい。スタンド使いか否かについても、彼がスタンドを使用する場面を見たと言うだけでいい。問題は顔だ。まあ無理をせずとも某財団という後ろ楯のある人物に殺人鬼の名前さえ伝えることができたのなら、向こうで顔も住所も勝手に割り出してくれるのかもしれないが。しかし出来るなら理汪の方で物的資料を用意したい。あくまで理汪が『調べていた』という体がほしいという欲目があるのだ。
無理はしない範囲で、露伴に望遠レンズを借りてみるか。写真を鈴美に渡しておけば、やはり彼女から伝えるべき場所に情報が伝わるはず。お前この頃何してるんだと直接問い詰められるよりは、よそで答えを得てくれた方がヘブンズ・ドアー回避の確率が高まりそうだ。
「無茶はしない。何かわかれば必ず報告に来るよ」
「……」
「絶対に必要以上にあいつに近づいたりしない。約束する」
「……理汪ちゃん」
「あの日の勇気はここに実を結ぶと、俺に証明させて」
あ、でも彼女を通じてこんな臭い台詞を身内に読まれるというのは恥ずかしい。これは失敗したかもしれない。





「カメラかーして」
「嫌だね」
「レンタル権を賭けて勝負」
「お前が何を賭けるかによるな」
「ややこしそうな人間関係の目撃情報」
「へえ。具体的には?」
「二十代後半の甥と高校生の叔父、遺産相続」
「ふうん……まあ悪くはないか。いいぜ、やってもいい」
「よっし」
「だが時間をかける気はないからな。一瞬で済むやつにしろ」
「じゃんけん?」
「一回勝負だ」
動体視力と瞬発力だけがものを言う勝負となると完全な運任せだ。心理戦で誘導がどうこうなんて面倒くさいまねに挑むつもりはないし、そんなことをしようものなら兄の闘争心に火がついて厄介な状況になるに決まっている。負けたら負けたで適当にインスタントカメラでも買って頑張ってみればいいのだ。目的の被写体を見つけ次第、あちこちの景色を撮りながら対象を微妙に写しこんでやれば難しいことはない。
「兄さんさあ」
「なんだ」
「勝負事好きだよねえ。気を付けなよ?道端で知らない人にじゃんけんしよっていわれても挑発に乗っちゃダメだよ。負けたら私物くれって付きまとわれるかも」
「どこに道端でじゃんけんを挑む変態がいるんだ。どうでもいいからさっさとしろ」
「あいあい」
変態かどうかはともかく、道端でじゃんけんを挑んでくるやつというのは案外いるものである。兄がそんな誰かに出会う未来がやってくるかどうかはともかくとして。
何はともあれこちらは緩い賭け事の一回勝負。理汪は拳を軽く掲げる露伴にならって拳を握り「さーいしょはぐー」と掛け声をかける。無言の露伴は理汪の声に合わせて手を振って、「じゃーんけんぽん」で五本の指を広げた。スタンドを賭けた真剣勝負とは天と地の差の勢いの無さ。ちなみにここで理汪が出したのは二本指であるので、百パーセント幸運のみで理汪の勝利である。
「うし、カメラゲットー」
「貸すんだ。やらないぞ」
「知ってるよ。いらないし」
「何に使うんだ」
「調べもの」
ひらりと手を振って向かうは隣室の防湿庫の前だ。膝を折ってガラスケースを覗き込み、理汪は「望遠ってどれー?」と声をあげる。
一部屋向こうから舌打ちとため息が聞こえた気がするがどうってことない。慣れっこだ。あの舌打ちとため息の意味はレンズの種類もわからないくせに借りようとするんじゃあない、で間違いはなさそうだ。しかしながら賭けた結果の今現在であるので、やっぱり貸さないとはならないのが露伴である。ここに漫画がどうのこうのという厄介な問題が絡んでくると話はまったく変わってしまうわけだが。
幸いにも今は彼の人生そのものである漫画というワードは絡まない状況下。先ほどさらっと提示してみた同級生の家庭事情についても、あれだけならまあその辺に転がっていることもあるネタとしか受け取られてはいない。おかげで露伴は素直に防湿庫の前までやってきて、理汪の背後から望遠レンズを指差してくれる。それに軽く礼を言ってガラス戸を開……こうとするものの、どういうわけか先ほど望遠レンズを指差した手にガラス戸を押さえつけられて、戸を開くことがかなわない。
「え、俺なんで意地悪されてんの?」
「お前、結局何もないのか」
「何が?」
「わかってるだろ。回りくどいのはよせ」
「わかんない。何の話?」
「生意気なのはこの口か?ん?」
「うがーごめーん。だってさあ、あんまり触れない方が良いかなってぇ。ねえねえ、ほっぺた右だけ伸びちゃう右だけ」
「あの時、お前もあの『矢』に触ったはずだ。指を切ったのをこの目で見た」
「抜き方が荒かったことを根の持ってるならアレはほんとに悪かったと思ってるんですよ。でもさ、目の前でお兄ちゃんが射られちゃったらどこの弟でもテンパると思うんだよね。普通は刺さったものは抜いちゃだめとか頭から抜けててね?」
「僕の傷と同様にお前の指の傷も何事も無かったように消え失せた。だがお前には何も起こっていないのか?」
思いっきり起こってますよ。しっかりスタンドなら手に入れてますよ。といってしまうのが正解なのかは実に難しい問題だ。今はまだ姿を持たないヘブンズ・ドアーも、回避を続けるには「見えない」では通らない。その上で能力を隠すことはむしろ露伴の探求心を刺激しかねないし、スタンドを保持した以上はいずれ不審な不調が起こりはじめる。
まあいつかは話すことにはなるのだろう。すべてを明かすことにはならないにしても。
しかし今は面倒な詮索と面倒な事態は後ろ倒しにしたい気持ちなもので。
「起こってないと思うけど、どうだろうね。兄さんみたいに気づくきっかけがないだけかも」
ここはひとつ、気づいたときに教えるね作戦で。ガラス越しに背後の兄の目を見て、へらっと笑っておいた。

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