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「やはりエジプトか。私も同行する。やつから弟を取り戻さなければならない」
ほんの数時間前まであの男のそばにいる弟は幸せだと本心から思っていた。未だずきずきと痛む額におぞましい芽が埋まったままでいたのなら、きっとその考えは改められることのないままこの命は朽ち果て、弟はDIOの手元にあり続けたのだろう。
「弟だと?そいつも肉の芽に操られてやって来るってのか?」
「いや、弟は恐らくはまだエジプトに。DIOのそばに置かれている可能性が高い。……三ヶ月前の家族旅行でDIOと出会ったきり、弟は行方不明だ」
息を飲んだ誰かの気配が言葉なく弟の生命そのものに危機感を抱いたことは問うまでもなかった。あと少し沈黙を許せば、最悪の事態も覚悟するよう諭す声がどこかから飛んできたかもしれない。確かに花京院も今の話をよその兄弟の話として客観的に聞けば、まず弟にも兄と同様に肉の芽が埋められていると考える。そしてそれが兄弟共に同じ時期となれば、弟は今日救われなければ死んでいたであろう兄と同じ命の期限を抱えたまま、救い主に出会うこともなく終わりを迎える可能性が極めて高い。
だがこれはあくまで花京院自身と、その弟である理汪の話だ。弟がそんな一般例に当てはまらないことはよく分かっている。
「断っておくが、弟に肉の芽は埋められていない」
「根拠があるのか」
「弟のスタンドの性質上、有り得ない話だ。……弟のスタンドに関しては身を守る能力であるとだけ。攻撃にこそ能はないが、防御に関しては絶対です」
きっぱりと言い切った花京院に三人分の視線が集まる。それぞれが何を考えているのかなどわかるはずもないが、たった今根拠の有無を尋ねた承太郎に関しては特にそうであったように思う。何かを見極めようとするかのようにこちらを貫く視線には、伏せられたスタンドの詳細に対する思考があるのか、花京院の主張に希望的観測でも見出しての同情があるのか、はたまた花京院への警戒でも含まれていたのか。
踵を返したのはその視線から逃れるためではない。程なくして「わかった」と頷いたジョセフが、エジプトへの交通手段の確保に立ちあがったためだ。花京院は後に続いて歩き出そうとするが、その足は完全に敷居を跨ぐ前に承太郎の声によって呼び止められた。
「待ちな。暗闇の中にまだ何か見える」
半歩部屋の外に出ていた足は再び室内へ。振り返れば、既に花京院から外れていた承太郎の視線が彼の広げる手帳に落とされ、先程ハエをスケッチしたというスタンドの腕が素早く動き始めている。
「……花京院。てめぇの弟ってのは」
「何ですか」
「こいつか?」
尋ねられるとともにスタンドの腕がぴたりと静止して引っ込んだ。承太郎は出来上がった模写をしばらく見つめてから、顔をあげて花京院へと手帳を差し出す。
こいつ、などと言われれば、まさか、と思う。疑い半分期待半分。そうして覗き込んだ紙面には、ベッドに突っ伏す一人の少年の姿があった。顔をほとんど枕に埋めてぐったりとした姿。見覚えのある顔つき、見覚えのある表情。それを目にした瞬間、花京院の胸中にどっと懐かしさが湧き起こった。
三ヶ月。そう、思えばもう三ヶ月も。それまでは毎日顔を合わせていたはずの存在と、はじめてこんなにも長く引き離された。突如としたその実感が、ここに来てようやく。
「花京院、どうじゃ?」
「……ええ。弟です」
様子をうかがうような問いかけにハッとして、花京院は急ぎ何でもない風に肯定を返した。
弟は今の状況をどう感じているだろう。住み慣れない地で一人きり。いや、正確には写真に写る通りDIOが一緒なのだろうが、あれはいわゆる誘拐犯だ。生まれてこの方一般家庭で両親と兄に囲まれて生きてきた末の子が、突然そのすべてと引き離されて――それでも適当に生きてはいるんだろうなと思えてしまう辺り何とも言えない気分である。
理汪はあらゆる場面で強かなのだ。小さい頃に夏祭りで迷子になったときには、ちゃっかり保護してくれた老夫婦にかき氷をご馳走になっていた。運営のテントでその姿を見つけたときには泣くどころか満面の笑みを浮かべてスプーンストローをくわえており、母と共に迎えにいった花京院にブンブン手を振って残り半分を差し出してきたのだ。この一例が決して一例で収まらない。日常のすべてがそれであることを思えば、誘拐犯とも適当にやっていると思えてしまうのも仕方がない。
気になるのは弟の病弱な身体のこと。それから弟の居場所も事情も知らずにいる両親のこと。
繰り返すが、あくまで弟の心の方は心配はしていない。苦労はあるのだろうが、結局はあの夏祭りの日と同じだ。なぜそうも呑気なのかと呆れ半分怒り半分でいた花京院にあっけらかんと言い放った言葉の通り。
――だって『みどり』が一緒なら絶対見つけてくれる。
子どもにとっての夏祭りでの迷子は、もう二度と家族に会えないのではないかと言うほどの絶望であるはずだ。にも関わらず、あの時弟が示したのは兄への、兄の持つ力への絶対的信頼。弟の強かさを示す前例の数と同じだけ、その根底に示された花京院への信頼がある。
花京院がそれに応えなかったことはない。今までも、これからも。





「無事に家族に会えるといいんだが。ご両親も心配しているだろう」
なんてことない発言のつもりだった。シンガポールのホテルの室内。荷物を置いてベッドに腰掛け、今は別の部屋にいる家出少女の身を気遣っただけだ。まだ幼い少女が一人旅だなんてと、ごく一般的な感性でもって一般的意見を述べただけ。だがそれを聞いていた承太郎にはそこから連想される物事があったらしい。
「弟はいくつだ」
問いかけは唐突で、花京院は一瞬彼の言う弟というのが誰を指しているものなのかがわからなかった。
「……理汪のことですか?」
「理汪?……ああ、弟の名前か。それ以外に誰がいるんだって話だぜ」
「そうか、名前も言ったことはなかったんでしたっけ。……弟の名前は理汪。僕らの一つ下です」
花京院がこの旅の中で弟と言う存在を口にしたのは空条家での一度きりだ。以来一度もその話題が出なかったわけではないが、あってもあくまで第三者から第三者へ、だ。
意識して伏せていたわけではない。ただ必要性を感じなかっただけだ。花京院にとっての理汪は承太郎やジョセフにとってのホリィと同じ。DIOを倒すという過程を経て達成できる目標に位置する存在だ。そのために取るべき行動を取っている今現在、取り立てて話題に上げるべき名前とは感じていなかった。そうでなくとも、寝食を共にしているとはいえ、出会って間もない人間に身内の話をするのもどこか気が引ける。個人情報を明け渡せないという意味でも、延々と身内の話をされる側が気の毒だと言う意味でも。
だからこそ、ほんの少し驚いていた。今ここで上がる理汪という名は世間話の部類に他ならず、それがどこか花京院の中にある承太郎のイメージとかけ離れていたからだ。花京院が「それにしても意外だ。君もそういう世間話に興じることがあるんですね」と思った通りを口にすると、承太郎は「俺をなんだと思ってやがる」と何とも言えないというような表情を浮かべた。
「はは、失礼。いや、そうだな。偏見というやつだ。すみません」
「てめーこそ、やけにあっさりしてやがるな。触れられたくない話題だとばかり思っていたが」
「まさか。死んだわけでもあるまいに」
「心配じゃあねえのか」
「心配はしていますよ。弟は昔から身体が弱いですから。しかし、ここで弟が弟がと騒いでも何にもならない。君だってホリィさんのことを口にする回数なんて片手で足りるほどだろう」
「なすべき最善はなしている」
「同感です。……ああ、でもなんだか、久しぶりに弟の名前を口にしたな」
日本を出てからまだほんの数日。しかし弟が行方不明になってからは三ヶ月以上。呼びかける相手がいないというだけでこうも。
「……どんなやつだ」
「え?」
「弟だ。……花京院、てめーはうちのアマを知ってはいるが、俺はそっちの弟をなにも知らん。探しに行くにしても情報があのスケッチだけじゃあな」
どん、と正面のベッドに腰掛け、承太郎は軽く肩をすくめた。確かに、彼らの頭の中にある理汪に関する情報と言うのは、『花京院の弟はDIOに連れ去られた』『花京院の弟は身を守るスタンドを持っている』という程度。そこにほぼ顔の映っていないスケッチがかろうじて付け加えられるだけで、先ほど気づいた通り理汪の名前すら把握されてはいない。
承太郎の言うとおりだ。花京院はホリィの顔も性格もある程度知っているというのに、彼らは理汪の顔ですら知っていると言い難い状況。フェアじゃない、というのもなんだが、確かにもう少し話しておくべきだろうか。
花京院は少し考えてから、「それもそうですね」と苦笑して弟と言う存在を思い返した。
「……まず僕に似た性格を思い浮かべているのなら全てなかったことにした方がいい。それから、病弱で儚い少年、なんてバカみたいな図も。何て言うか、そうだな。一言で言えばあいつは……調子のいいやつ、だろうか」
ある程度考える時間を取っての評価は、まあまあ理汪を表現できている気がする。それを聞いた承太郎が「確かにおめーとは違うか」と言うのに対し、花京院も「ああ。本当に」と素直に返した。主観的にも、花京院は弟よりはよほど真面目で神経質。両親から見ればどちらも周囲を振り回すところがあるとのことだが、弟よりはずっとマシなはずである。
とはいえ、それにもうずっと助けられてきた。能天気な弟のおかげで花京院は自分たちの異質さを深刻に抱える暇もなかったし、そもそもが弟という理解者の存在に支えられてきた。
たった一人でもいいのだ。己の半身であるハイエロファントを、それごと花京院を肯定してくれる存在があるのなら。どんな厳しい状況にあっても、その一人が変わらず能天気なままでいてくれるのなら。そうやって弟は花京院を幾度と助けてくれた。
あのときだって。
――典明!典明走れ!
痛いくらいの勢いで背中を押す手がなかったのなら、花京院はあの場から動くことすらままならなかった。ハッと駆け出してようやく停止していた思考を動かすことが叶ったし、時おり足がもつれそうになる理汪の体力のなさを思い出し、決して置いていくことのないよう手を取ることもできた。
――見た!?典くん、あれ、あれが変態ってやつだよ!日本人はッ、幼く見えるって言うしッ!少年趣味!?少年趣味かな!?典くんってまだ少年かな!?
――黙って走れ、馬鹿!
入り組んだ道を行き止まらぬよう、ハイエロファントを先行させながらの逃亡中。背後の理汪が息を切らせながら何を叫ぶのかと思えばそれだ。こんなときに何を呑気にと思う反面、これがどうしようとパニックに陥った叫び声であったのなら、花京院の精神的な余裕もあのとき以上に削られていたのだろうとも思う。平常時に近いズレた着眼点のおかげで、荒くなるばかりの呼吸も、そのリズムを致命的なまでの動揺に崩すことは避けられた。
とはいえ、結局は自分は肉の芽を埋められ、弟はDIOのもとに連れ去られたわけだが。
肉の芽を埋められた瞬間の記憶は不思議なほどにない。直前まで自分は弟の手を引いて走っていたはずだというのに、いったいいつ、どのようにしてあれを埋め込まれたのか。ポルナレフでさえ額に何かが刺さった記憶はあると言っていたというのに。
「おい、花京院」
「……あ、ああ……すまない。話の途中でしたっけ」
「どうした」
「いや、少し考え事を……」
特に続けようとした言葉があったわけではないが、そのまま続くはずであった会話は突然鳴り出した内線電話の音に遮られて中断となった。音に反応して先に立ち上がった承太郎が受話器を取るのを見送り、花京院は電話の相手はフロントか別室の誰かかと考える。
大きな背中は通話相手に二、三相槌を打った後、「わかった」と簡潔に締めくくって受話器をおいた。受け答えに感じた不穏な気配は勘違いではなさそうだ。
「何事だ?」
「ポルナレフの部屋にスタンド使いが出た。ジジイの部屋に集合だ」
敵はどうやら全く休ませてくれる気はないらしい。交わした視線で承太郎が全く同じことを思ったのであろうことを察し、花京院は軽いため息をついて立ち上がった。





パキスタン、元怪しげな霧の町、現閑散とした墓地。数メートル先で転がっているのは窒息したエンヤ・ガイル。すぐ傍に膝をついているのは負傷中のホル・ホース。
「で、こっちはどうします」
「おいおい、落ち着けや。俺が何でこんなところまで来たと思うんだ。花京院、お前に弟の様子を伝えてやろうと思ってきたんだぜ。安否は気になるところだろ?」
悪びれもせずよく回る口を働かせ、ホル・ホースはハンズアップの状態で苦笑いを浮かべた。拳銃がスタンドである人間がそのポーズをしたところで意味があるのか微妙なところだが、手が見えるところにあるに越したことはないので彼の自主的な体勢にわざわざ花京院からのコメントはない。
この男、ほぼ間違いなく刺客としてここに来た身だろうが、負傷し敵に囲まれた状況ではあくまで友好的な態度を取る方が懸命と判断したというところだろうか。一度対峙したからこそわかることだが、彼は真っ向から一人で突っ込んでくるようなタイプではない。あくまで狙うは隙、迫るは背後、立ち回るならば逃亡可能な安全地帯。こいつのやり口は概ね暗殺タイプだ。だからこそ相棒も居ない今は一旦退きたい。そのために理汪の存在をチラつかせていることは明らかだ。
わかっているからこそ花京院がホル・ホースの発言に揺さぶれることはなかった。エンヤ・ガイルを縛っている最中のジョセフに指示をあおぐ姿勢は変わらぬまま、ホル・ホースへの警戒を続ける。「そのまま少し待っていてくれ」とジョセフに言われればそれに従うのみであり、やはりホル・ホースの言葉に傾ける耳はない。とりあえず縛っておくよう頼まれたポルナレフが役目を終えるのを見守るだけである。
だというのに花京院を差し置いて怒りを露にしたのは、作業中のポルナレフだ。仲間の弟を引き合いに出されて怒っている。アヴドゥルのことを死んだと思っていることもあってか、ホル・ホースへの恨みは深いらしい。この期に及んで人質紛いのことを、と歯を噛みしめる姿は情が厚い男とも映るのかもしれないが、花京院にとってみれば操られやすい単細胞野郎である。
「落ち着けポルナレフ。耳を貸すな」
「はあ!?花京院、おめーもおめーだぜ!普通身内が無事かどうかは気になるだろうがよお!?」
「うるさい。弟が無事なのは聞くまでもないことだ。最初からそんな心配はしちゃいない」
理汪のスタンドに関しては、ポルナレフにだって最低限の情報は与えてある。世渡りの上手い性格についても、シンガポールで承太郎に話したことをきっかけにある程度は話してあることだ。それでも安否が気にかかってしまうのは、DIOと直接対峙した経験があるからこそだろう。それはわかる。理汪に直接的な被害がいかないにしろ、そこに居るのは人を玩具のように扱う吸血鬼であることを思えば、そう簡単に安心できないのも当然だ。
それでもあの弟のことだ。誘拐犯側の人間と仲良く遊んでいたっておかしくはない。この直感的確信は、いったいどう伝えたものか。
考えて、ホル・ホースから目を離したのはほんの数秒だった。そしてその数秒を今か今かと待っていたホル・ホースがチャンスを逃すはずもなく、彼が逃げ出したことに気付いた頃には背後からジープのエンジン音が激しく響いていた。
しまったと思ってももう遅い。走り出したジープから張り上げられる「俺はやっぱりDIOにつくことにするぜ!」という声は徐々に遠ざかり、視認できる姿も小さくなっていく。
しかしその姿を見失う前。声が届かなくなる前に。
「おっと、忘れてたぜ花京院!マジに弟から伝言だ!『時計を壊してごめん。嫌いだなんて嘘だよ』ってよ!」
「……は?」
くるりと振り返ったホル・ホースは、それだけを言うとすぐに前を向いて今度こそ姿を消してしまった。
花京院はしばし、戸惑いだけを抱えてその場に呆然と立ち尽くした。今のはなんだったのか。あんな伝え方をする伝言で嘘をつく必要性を感じないが、かといって伝言の内容に全く心当たりがない。あれじゃあまるで、喧嘩別れを後悔するかのような言葉だ。
事実、傍で聞いていた承太郎にもそう聞こえたようで、こちらに歩み寄るなり「喧嘩別れだったのか」と見当違いな過去を問いかけてくる。
「違う、違うぞ承太郎。そんなことはなかった。僕は時計なんかを壊されちゃいないし、嫌いだと言われてもいない。喧嘩だってしちゃあいないんだ」
「……何?」
「理汪は僕になにかを伝えようとしているのか……?こんな回りくどい伝え方でしか伝えられないようなことを」
時計を壊した?一体何のことを。
花京院は立ち上る砂埃を眺め、そこにある真意をじっと考えた。

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