▼何もしないフーゴ弟


「ハニーがいないと生きていけない」
突撃、お兄様の職場訪問。
だって、もう無理。耐えられない。強硬手段に出ても致し方あるまい。
扉を開けての一言目にブッと紅茶を吹き出したのはグイード・ミスタだった。とはいえ彼とはこれが初対面なので、間違ってもその名前は呼べない。というかここにいる全員から一人を除いて総じて呼べない。他全員の視線は漏れなくこちらへ集合していると言うのに、唯一名前を呼べるその人はこちらに背を向けたままである。ちょっぴり悲しくなった。素直に負けを認めてもなおも弟を許さぬとおっしゃるか。
それでもと食い下がってじっとその人のリアクションを待ってはみたけれど、レストランの中は十秒近く静まり返るだけだった。でも諦めない。リオも扉を開いたその状態から動かずに、一貫して冷たい態度を取る兄の後姿へ、振り向け振り向けと念を送ってみる。応答はない。
「あー……わりぃけど、場所間違えてねえ?ご覧の通り、ここは野郎の溜まり場だからよ」
「ご親切にどうも。大丈夫です、間違いないです」
何とも声をかけ辛そうに、しかし出会い頭にメンチを切るでもなく親切な一言目を発してくれたのもグイード・ミスタだ。基本的に優しい男、ミスタ。ありがとう、その心遣いだけでなんと嬉しいことか。だが今その優しさを持っていてほしいのは君ではないのである。リオは「失礼します」と室内へカツカツ歩き出し、途中で人のいない円テーブルから椅子をひとつ引っ付かんで目的地へ向かう。そっぽを向いたままの兄はやはり振り向いてくれる気配がない。となれば自分から回り込むしかないわけで、リオはその顔が見えるように真横に椅子をおき、腰を下ろしてぎゅっと両手をとった。ようやく見えた横顔へ改めて一言。
「ハニーがいないと生きていけない。ごめんね」
「ブッ」
本日二度目の吹き出しはやはりミスタから。しかし今度はナランチャ・ギルガも重なって、左右からのステレオという嬉しくない贅沢な音響を堪能することとなった。ところでミスタくんはなぜ今二口目を飲もうとしたんだろう。吹き出しやすいのならもう少しカップに口を付けるタイミングを考えるべきではなかろうか。
「アモーレ・ミオ。帰ってきてよ、ハニー。お願い」
「……はぁ」
「ごめんって。ね?俺が悪かったから」
「実家に帰れば良いでしょう」
「やめてよ、息苦しくてゲロっちゃう。俺の帰る場所はハニーのいるところだよ。ハニーの帰る場所も俺のいるところでしょ?」
「都合の良いことを言うな。というか仕事場に来るな」
「だってどのホテルにいるかわかんねえもん」
「……チッ」
ううん、なんて冷たい舌打ち。しかし苛立ちのあまりにここでフォークが突きだされないのは幸い。両手ぎゅっが功を成した結果である。無論そのためのぎゅっなわけですが。
ハニーことパンナコッタ・フーゴ。現在二人暮らし中(正確には今現在は家とホテルで別居中)の彼はリオのひとつ上の兄であり、原作通りに貴族である家から見放され、原作通りに試験を受けてスタンド使いとなり、原作通りにパッショーネファミリーの成員となった。兄がこれであるから余計に、弟であるリオに対する家の束縛は強い。いや、今となっては過去の話なわけだが、このハニー呼びがひねり出されることになったのも結局はそこに原因がある。多分恐らく、この場ではブチャラティくらいはリオとフーゴの関係性を正しく理解しているのだろうが、それ以外にはいらぬ誤解を招いているかもしれない。が、そんなことはどうでもいいのである。重要なのは二人の家に兄が帰ってきてくれることだ。
兄が出て行ったのは些細な喧嘩が原因だった。同じようなことをもう何度も繰り返しているから些細と思えてしまうだけなのかもしれないが、何にしても世話を焼かれている身で生意気なことを、と言われる類のことであることは確かだ。出ていく、という行為は自分一人じゃいられないくせに、と思い知らせるためのもの。実際、思い知れ攻撃の効果は抜群。根負けしてリオが懺悔に来ているのが現在である。
別に、生活面での問題ではないのだ。リオは人並みに家事はできる。スタンド能力を身につけていない今の立場では返済による身体的な苦しみもない。人並みの健康、人並みの環境。生活する上での苦労は、兄がいようといまいと何の問題もない。本来ならば、だ。
それが今回のように一人じゃ無理だと挫ける理由というのはごく単純だ。リオにとってフーゴという名を持つ今は、身体的かつ精神的、安息のポジションなのである。なぜならここではリオは何もしなくていい。フーゴといえば第五部途中退場の何気ない安全地帯だ。原作軸で身の危険に晒されるのはイルーゾォ戦の一回といっても過言ではないうえ、彼自身のスタンドと言うのは周囲を気にしなくていいのなら恐ろしく強力な無差別型。彼の命を救うという目的のためにリオが奔走する必要が無いというのがまず一つ。そしてそうであるからこそリオがどうにかスタンド能力を身につけようとする必要もなく、おかげで返済に追われて病弱な身体に苦しむ必要もないというのがもう一つである。
心身ともに肩の力を抜ける場所というのがここ。意外な穴場だ。加えて兄はキレやすい欠点を除けば人間臭く常識的で弟に対する情も厚い。自分が家から離れたことで弟に重圧がかかっているという自覚もあるようだからなおのこと。結論から言おう。リオは何だかんだと彼に甘やかされているのだ。ご飯は出てくる、掃除はしてもらえる、あれやこれやと世話を焼いてもらえる。そんな環境が作り出すのは怠惰だ。兄を前にすると怠惰まみれになっている自分に初めて気づいたときにはそれはもう驚いた。ハニーがいなければ生きていけない。実際はそうではないのだが、この兄の下で弟をやっているとどうにも気持ちの面でそうなってしまう。
「お願い、帰ってきてよ。寂しくて死んじゃう」
こんなヒモ男のような情けないお願いにも結局は折れてしまう兄を知っているものだから。これだからこの立ち位置でのリオは、ひたすらに駄目人間の道を突き進んでしまうのである。





『×年×月×日 兄さんがやらかした。いつかはやると思っていたけどそれが今日だったらしい。大学の教授を殴って逮捕。両親はこれを機に絶縁する気でいるのかも。俺が会いに行けないようにあれこれ手をまわしてるのはバレバレだ』
『×年×月×日 兄さんのことは忘れなさいアピールが始まった。結局大学は退学になったらしい。両親の言いたいことはわかる。そうするのも正しいんだと思う。けど家には兄さんとの思い出だらけで、忘れろなんて簡単な話じゃない。俺には優しい兄さんだった』
『×年×月×日 大切を忘れるには別の大切で塗り替えるしかないんだと思う。兄さんの思い出は目に入れずに別のものを見続けていれば、きっと両親が望むように兄さんを忘れられる。こんな理由で申し訳ないとは思うけど、恋人でも作ってみようと思う。交友関係には厳しい両親だけど、俺の気持ちは理解してくれているだろう。先に繋げるつもりのない関係なら、気付いても黙認してくれるはずだ』
『×年×月×日 勉学に支障が出てはいけないから、恋人と会う時間はほとんど作っていない。手紙のやりとりが中心だし、立場が立場なので関係を証明するようなものは残せない。お互いの名前をハッキリ書くわけにもいかないけれど、彼女はそれをよく理解してくれている。何にせよ、こうしていると気が紛れているのは確かだ。それでも家の中のふとした景色に、まだ兄さんの姿を探してしまう』
数年前の女々しい日記を眺めてつい吹き出しそうになるのを、咄嗟に口許を覆って堪えるのにも慣れてしまった。一拍置いて落ちついて、ふう、とリオは深く息を吐く。しかしながら何というか、必要な下準備であったとはいえ、なんとも女々しい独白に鳥肌が抑えられない。
兄と縁を切らせたい両親の目をかいくぐり、ぬるま湯のような兄の庇護のもとに戻るための涙ぐましい努力の記録だ。盗み見られることを前提、というか見せるために書いたこの日記にはこの後も兄を忘れる努力のアピール、実家に居ることが気持ちの整理を邪魔するアピールがちまちまと綴られている。ちなみにここに出てきた恋人だが、言わずもがなフェイクだ。ハッキリ書くわけにはいかない名前には『ハニー』と綴って……これが例のハニー呼びに至った経緯である。
問題を起こした兄を無いものと扱う両親の目をかいくぐり兄と連絡を取るには、直接会うと言うのは難しい。というわけで無難なのが手紙のやりとりだったわけだが、宛名が兄の名では途中で妨害が入るのが明らか。中継役の女性を挟むことで周囲の目を誤魔化しつつ、しっかりと兄へ向けた言葉を綴りたい……という思いの末にひねり出したのがパンナコッタからのパニーからのハニーという捻じ曲げ方だったわけだが、この文通の習慣のせいで甘ったるい言い回しがすっかり身についてしまった。まあこの努力の末に家を出るための基盤を整えられたわけだから、尊い犠牲……いや、勲章とでも思うべきだろう。
それはそうと、こうも懐かしい日記を引っ張り出した理由と言うのは、毎度毎度の『この世界軸の昨日確認作業』にある。どこの軸でも何かしらの形で日々の記録を付けるようにはしているので、自分の現在地(時間)確認のためにそれらに目を通すのが常なわけだが、するとどうにも懐かしさに引き込まれ、こうして過去を辿ってしまうことがある。とはいえ当初の目的である確認は遂げて今の状況は把握できているので、思い出に浸ってもおおよそ問題は無い。
いや、問題は無いことは無い、だろうか。何せ、予測が正しければ今は丁度原作軸。兄は絶賛頑張り中……もしくはもう離脱済みだろうか。となると今頃どこかでしょげているのかもしれない。少なくとも今の時点ではこの家にはいないわけであるから。
なんて考えるのがやはりフラグというやつなのだろう。思考がそこに至って間もなく、聞こえてきた玄関ロックが外される音に、立てたフラグが即刻回収されたことを察した。次いで気付くのは、どこか覇気のない足音。ああ離脱後か、と推測を確信に変えた直後に背中にどっと重みがやってくる。
「おかえり、ハニー」
「……今はそのふざけた口を閉じてろ」
「おー、ご機嫌が悪いね。どした?しょげてる?」
知らないふりには慣れたものだ。神経を逆撫でして申し訳ないとは思う。
僅かな潮の匂いはあのボートの別れの名残だろうか。磯臭いとも言えるこの匂いを纏ったまま、彼が乗り上げているのはリオのベッドだ。兄の不在期間があったこともあり、シーツはぐちゃぐちゃ、開いていた日記はバラバラに散乱しているけれど、背後からは散らかすなと言うお小言は飛んでこない。相当疲れているんだろうな。肩口に押し付けられた額が今にもずるずると落ちていきそうだ。自らを支えようともしない脱力具合になんとも切ない気分になる。
自分自身で下した決断にも関わらず、相当堪えているのだろう。けれども背後は無言のまま。まだ見ていないその顔がどれだけひどい表情を浮かべているのかも確認できやしない。
リオはそっと肩の付近に手を伸ばし、サラサラとはほど遠い状態の兄の髪を梳くようにして撫でてみる。抵抗はない。少しして深く吐き出された息は、むしろようやく肩の力が抜けたこと現れだろうか。
兄はなにも言わない。当然だ、仕事に関わることなのだから。それが裏社会とは関わらずに生きている弟を思うがゆえだろうが、マフィアとしての口のかたさゆえであろうが関係ない。兄が何をしてるかなんてどうでもいい。リオにとって重要なのは兄がいること。そばにいること。リオのもとへ帰ってくること。それだけである。
『Stay』は首飾りの刻み文字。なにもしない。なにもしなくていい。リオも、兄も、それでいい。それがいい。
「……う、わ。……なーに、寝るの?このまま?風呂も片付けもなく?」
ずるずると倒れそうだった体がリオを道ずれにベッドに沈みこむ。体勢が変わったことでようやく兄の方に顔を向けられたのに、そこに見えるのは金髪とイチゴの耳飾りだけだ。シーツに埋めた顔は当然隠れてしまっている。それを残念に思う腹いせに耳をくすぐってみるけれど、ちょっかいをかけるリオの手はすぐに捕まえられて、身動きができないよう呆気なく封じられてしまった。
「……どうせやるのは僕だ。僕の好きにする……」
くぐもった声が正論を紡ぐ。確かに、リオのベッドとはいえ整えてくれるのは結局兄である。主な使用権利はあちらにある。
しかし反抗したい気持ちは全くわいてこない。それどころかリオの機嫌は上昇する一方だ。不謹慎な自覚はあるがどうしようもない。兄は力を抜く場所に、足を止め休む場所にリオのそばを選んだ。だからここに帰ってきた。ガッツリ捕まれシーツに押し付けられている腕さえ自由なら、もう少し頭を撫でてあげられたのに。
ふ、と笑みがこぼれてしまう。場を読んでそれを音にすることだけは避けてみるが、つり上がる口端だけはどうしようもない。
傷ついているのはわかってる。ボートに乗れなかった自分を誰より情けなく思っているのは兄自身だ。気にしないで、兄さんが彼らと行けなかったのはその先にあるものを考えてしまうからだ、彼らと違って兄さんには俺と言う存在があったからだ……と慰めの言葉はいくらでも頭に浮かんでくる。けれどそのどれも、今ここにいるリオには口にできるはずのない言葉だ。それにきっと、兄はそんなものを求めてなんかいない。
「おかえり、兄さん」
だからきっと、これで事足りる。必要なのはこの一言。彼の帰る場所がここなのだという確かな証明だけ。

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