▼睡眠薬が手放せないチョコラータ弟


生まれた時点ですでに上の人間の人格が出来上がっている以上はどうしようもない。歳の差があると人格矯正計画さえ練れない。十五歳差、この差はデカい。
当世界軸におけるリオの最も古い記憶は二、三歳の頃。ということは当時兄のチョコラータは十七、十八歳頃。じわじわと彼のコレクションがたまり始めていた時期である。両親から見た兄はあくまで成績優秀な出来た息子、歳の離れた弟の面倒もよく見る優しい長男。ところがどっこい、当然ながら事実はそうではない。直接的に切りつけられるだの毒を盛られるだのといった事態が起こらなかったのは幸いだが、あわよくばとリオが兄の人格矯正計画を実行したがっていたように、兄もまた弟の人格育成計画という名の下僕作りに尽力を注ごうとしていた。思えば、探究心旺盛な兄なりのマインドコントロール実験の一環だったのかもしれない。家に帰ってきたら部屋で遊んでくると小さなリオを抱き上げる姿は、母親の育児疲れを軽減させようとする心優しい子とでも映っていたのではなかろうか。実際、そういった信頼の積み重ねにより母はリオに関するチョコラータの助言をほぼ全面的に受け入れるようになっていたわけで、後に一人暮らしをした兄宅近くの学校への入学を勧められたり、その後の兄弟同居生活も難なく決定されたりと、リオにとっては嬉しくない環境整備が着々と進んで行ったのが現実だ。どうにか抗ってみようとしてもうまい具合に操作されて終わり。兄の手回しはいつだって的確で手強い。
そもそもどうして兄がこんな面倒を犯してまでリオを管理しようとしているのか。答えは単純。彼の人格育成計画が全く進行しなかった、というのがその理由である。
彼の計画が上手くいかなかったのは当然だ。チョコラータは自己が形成される以前の子どもの精神をどう作り上げるかと考えていたわけで、すでに自己を確立させていたリオにそれが適応されるはずもないのだから。
だが問題は、その事実がむしろ彼の興味をそそってしまったこと。チョコラータが己の計画失敗の片鱗に気付くのは早かった。むしろ早すぎた。何って、それは冒頭にも述べたこの世界軸におけるリオの最古の記憶の時点であったのだから。
あの日、恐らくはお昼寝から目覚めたのであろうリオの視界に映ったのは、画面に映る苦悶の表情。聞こえてきたのは言葉になっていない苦痛の声であった。ぎょっとして状況の把握に急いだリオを待っていたのは、自分がチョコラータの腕の中にいるという恐ろしすぎる事実。当時学生の兄はあろうことか、己のコレクションを幼子である弟へと楽しげに披露していたのである。
あまりの衝撃にぎょっとした。ぎょっとしたあまりに対応を間違えた。あからさまな拒絶は緊張した体だとか、表情だとか、あらゆる点に現れていたのだと思う。それに気づいたチョコラータが上方からじっと顔を覗きこんできたのはさながら恐怖映像だ。「嫌悪感?拒絶か?まさかもう倫理観が成立しているわけか?」という聴覚情報は視覚情報の衝撃にことごとくぶっ飛んだ。極めつけは多分、視聴強制の継続によってついにゲロってしまったこと。以来、兄はリオの精神面に対する興味と、これをどうにかコントロールできやしないかという探究心でもってさらなる管理欲をそそられてしまったようだった。つらい。
このままではいつか人体実験の材料にまでされかねない。そうした危機感は早期から抱いていたもので、このポジションでは早急にスタンド能力を入手する必要があった。きっかけさえあればリオの能力の発現はまず絶対だ。いわゆるギャングの試験を受けること自体への恐怖はない。
そういうわけで、リオがスタンド能力を身に付けるのも早かった。心を決めてブラック・サバスに射ぬかれてから、何事もなかったかのように帰宅。死んだことになってりゃいいなといういい加減な行動だったが、今の所それで何事もなく日常に戻れてしまっている。
これで兄対策は一安心……かと思いきや、望み通り自衛策を入手できた一方で、むしろより面倒な問題を招いてしまった。というのも。
「おいおいおい、まただな」
「……いや、まじやめてよ。まじでやめてよ」
「何だ、ビビるなよ。お前のためを思ってのことだろう?」
スタンド能力の保持。すなわち、返済義務の発生。そりゃあ完済してごくごく健康という状況もあるけれども、重病人同然にぴくりとも動けないという状況もある。
そんな弟を身近で見る医師の兄となれば、普通はどういった行動に出るだろうか。考えるまでもなく病院へ行かせて検査を受けさせる。治療が可能であれば治療をするが、原因がわからないとなれば無理やりに何らかの処置をしようとはしないはず。
が、残念ながらサイコ野郎なこの医師は一般例には当てはまってくれない。かろうじて当てはまるのは最初の検診の段階までで、以降頻発する弟の不調を自らの握ったメスでもって解明し、さらには解決しようとまで考えている。
「その辺の調子のいい臓器と交換してやるって言ってるんだ」
「いらねえって言ってんじゃん」
「可愛い弟が苦しんでいるのに、兄貴が何もせずにはいられねぇだろ」
「検査でも問題なかったじゃん。単なる不調。治る時に治る」
「ぜーぜーしながら言われてもな。どこに異常があるか分からないとなれば総入れ替えが妥当だろうが」
くるくると兄の手の中で遊ばれている鋭いメス。目が覚めたら手術台の上なんて状況にもすっかり慣れてしまったが、毎度のそれも総じて失敗に終わっているせいか、最近ではリオが眠るベッドの上で試しに一切りしてみよう、なんて雑な扱いも多々見られる。今も不調に寝込んでいたリオの服をそのままぺろりとめくって腹部を消毒、いざメスを入れようという状況での妨害発生、という状況なのだろう。リオは嫌にスースーする皮膚を服で覆い直しながら、逃げる様に壁際へと身体を引きずって兄から距離をおいてみた。
せっかく人が一生懸命に返済に努めているところを、絶対今の間に『チョコラータにメスを入れられた』という記述と言う名の負債が増えている。畜生。とりあえず現時点では兄がスタンド能力を手にしていないのをいいことに、視界の端にスタンドを出現させて記述を確認してみる。ボロボロな本の様子はリオが現在抱えている負債の大きさを物語っており、その内部には予想通り……いや、予想を上回って、『チョコラータに開腹された』というおぞましい一文が付け加えられていた。想像して吐き気を催す。ついついおえっとなって、にやけ顔の兄に「おいおい」と背中を擦られた。解せぬ。解せなすぎる。
「まあ、今の顔でメス一本分の弁償ってことにしといてやるか」
「切ろうとする方が悪いんだろ……」
「お前のこの謎の防御体質もどうにかならねえかな、全く」
図太い神経でため息をつくチョコラータの視線の先には『防御体質』の詳細があるのだろう。リオは若干涙ぐんだ目でその視線を追って――入口側とベッド側とを隔てるカーテンレールの上に止まっている一羽のカラスを見つけた。そのクチバシに咥えられているのはメスだ。……どういう風に開胸という危害がなかったことになったのかはなんとなく理解できた。とはいえ今更ながらここは病院の個室内。兄の勤務先の一室のはずだ。さすがに場違いにも程がある。
「何あれ」
「迷いガラスだろう。今朝のミーティングで入り込んだのを見失ったとは聞いていたが、こんなところに紛れていたとはな」
「……メスは確かに光物だけど。つーか、逃がしてやってよ。窓開けて。そんで出てって健全な仕事しろ」
「冗談だろ?メスだぜ?取り返さなきゃあぶねえだろーが」
「常識人ぶってんじゃねーよ気持ち悪い。兄さんがその新しいメスもしまって、俺を傷つけないって本気で思えば返してくれるんじゃないの」
そして兄が出て行った暁には、ロケットペンダントの中に常備している睡眠薬で今日をリタイアさせて頂こう。ちなみにロケットの中にはごく普通に家族写真が張り付けてある。チョコラータとの家族写真と睡眠薬のセットで『即寝て逃げろ』のメッセージになるので、余計な言葉は特に必要ない。
一応、眠っている間に外されちゃいないかと首元に手をやってロケットの存在確認。指先に鎖が触れるので、検査で外されてそのまま、ということもなかったのだろうと一安心する。
が、そんなリオに目ざとく気づいた兄が、ひょいと手を伸ばしてロケットを取り上げた。
「あっ!?ちょ!」
「点滴刺さってんだろーが。併用していいですか?ってお医者様に聞くのが先だろ」
あれー?これって中身ばれてますー?
目の前で右へ左へと見せつける様に揺らされるロケットを目で追ってから、リオは頬を引きつらせて兄を見上げる。にやっとした顔がワザとらしくそれを鳴らして白衣のポケットに仕舞いこむのはもう間違いなく中身を理解しての行動だろう。逆の手にはカラスから回収したらしい分も合わせて二本のメスが握られており、きょろきょろと周囲を見てもあれを咥えていたはずのカラスの姿も見当たらない。いつの間に。……よく見るとカーテンのこちら側に黒い羽根が見えている。これはあれだ、向こう側は見ない方がいいパターンだ。せっかくリオを助けてくれたいいカラスくんだったというのに。この罪悪感。そして一瞬の間に片づけてしまった兄に対するこの恐怖心よ。
「……兄さん、返して」
「仕事が終わったらな。いい子で待ってろよ」
罪なきカラスくんを始末したのであろうその手でぽんぽんと頭を撫でられる。ぞわぞわ。そしてぞわぞわしてる弟の顔に興奮してる兄にさらにぞわぞわ。仕事に行くからと離れていった兄がシーツを一枚ひっつかんで行ったあげく、カーテンの向こうでごそごそしている気配にやっぱりぞわぞわである。





「たまに……どうしようもなく、自分がクソ以下の寄生虫にしか思えないときがあるんだけどさ」
それは人様の家庭に当然のように入り込み、当然の権利と言わんばかりに家族という名の免罪符を掲げて無償の愛を横取りしている自分自身への嫌悪感。憂鬱な気分になると決まってその事実にうちひしがれる。特にリオがよく知る紙面で細かに描写された家庭に。そうして異物でしかない自分の存在にどうしようもなく吐き気がしたら、この日々はすべて妄想なんだから、と言い聞かせては気持ちを押し上げようとして、今度はすべて偽物にすぎないのかもしれない事実に深く傷つく。結局のところ自分は一人なのだと。そして愛を乞うては人様の幸福のなかに紛れ込んでいる自分に寄生虫以下の嫌悪感を――と、堂々巡りにすっぽりはまってしまう……のだが。
「兄さん見てると一瞬で元気になるわ。自分なんて大したことないなって。このゲスに比べたら天と地の差でまだまだ上にいるなって」
「あん?」
「下を見て持ち直すって我ながら情けないとは思うんだけどね。いやあ、このポジションにも利点ってあんだなあ……」
背中からじわじわ伝わる体温が妙に気色悪い。だというのに慣れ親しんだ気色悪さに身を預けてしまうのはどうなんだろう。思えばこの体勢、三歳のあのときから何ら変わらない。逃げようとするリオを押さえて画面に顔を向けさせるには、足の間に拘束して顎をガッシリ掴むこの位置関係が最適なのだろう。いかんせん三十路手前の男の体格だ。入退院率の高いモヤシ学生には勝てない。抗うだけ無駄だということはもう学習してしまったので、今ではうんざりしながら意識だけをよそへ飛ばすよう心がけている。眼前で再生されているビデオカメラの小さな映像は走る電車の外の景色と同じ。目に入ってはいるけど見ちゃいない。これでいい。あわよくばこの生ぬるい暖かさに眠気を触発されてさよならリタイアできたらなおよい。
というかロケット返せよ。健全な仕事しろっつったのにこんな映像取ってくるくらいなら中に睡眠薬追加して返せよ。
ギリギリ歯ぎしりをしながらこの距離感を逆手にとって兄の白衣のポケットを探る。見えないながらも確かな感触があったのでしっかり回収させて頂いた。当然気付いているんだろうけれども、兄からの抵抗はない。普通に返してくれるらしい。というわけでリオも普通にロケットを首にかけ直すことにする。当然今の状況のままそうすれば顎を掴んでいる兄の手に引っ掛かってしまうわけだが、チョコラータはさも当然のようにその間だけ手を外して鎖を首に通してくれた。……な、なんだよ。そんな些細な親切にコロッと言っちゃうほどチョロくはないぜ。確かに優しくされたらコロッといっちゃう自覚はあるが、ゲス相手にそんな軽率さは持ち合わせちゃあいないのだ。とはいえこの兄、なんだかんだとしっかり養ってくれているわ、熱を出したら勤務先に入院させるわ、リオに対してメスを握る理由だって身体を改善させるためであるわ、風邪薬と睡眠薬の併用をしっかり阻止するわ……い、意外といいとこがある。なんだろう無償にわき出る恐怖があるぞ。
そりゃあまあリオは、このポジションはこのポジションでなんだかんだ失いたくないと思っている不届き者ですけれども。仕方ない、結局のところ家族というワードに甘いのだ。七ページにわたる怒涛の無駄無駄ラッシュは避けてあげたい、というかそもそも兄にはスタンド能力なんて身につけてほしくない。それさえなければ彼は人知れずゲロ以下な行為を働く程度の悪でいられるだろうから。
「……兄さんはこの程度のままのゲスでいてね」
ゲス自体はもう別にいいやと思っている辺り、ぶっちゃけもう救いようがないなと思う。

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