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兄のような弟だった。いつだって遠くを見通したような目をして、徐倫の心に寄り添い暖かさをくれる。何よりも大切な、大切な片割れ。
「別にさ、何をしたっていいよ。徐倫の身体だろ。親にもらった身体とかよくいうけどさ、結局痛いのも辛いのも自分のもんじゃん。親のもんじゃないんだよ」
あの日、やけになって家を飛び出した徐倫の後ろを理汪は当然のようについてきた。飛び出した理由は間違いなく父に関する事柄だったけど、父親関係の苛立ちは数えてもキリがないものだから、その日の怒りの理由が何であったのかまでは覚えていない。わかるのは、毎度のことながら見捨てられたという強い孤独と苛立ちを抱えていたこと。理汪は同じ感情を抱えているわけではないくせに、それでも徐倫が抱える複雑な感情を理解はしていた。だからあの日も、数メートル後ろを歩きながらも理汪は決して父をフォローするようなことは言わず、かといって父を非難することも一言として口にはしなかった。
あてつける様に刺青を入れようとしたって、先ほどのあの言葉だ。店内まで平然とついてきたかと思えばそのまま並び立ってカウンターに肘をついて、へらへらとした笑顔で徐倫の顔を覗きこむ。それから奥の壁にびっしりと貼られた黒い模様のサンプルを興味深そうに眺めた目はやっぱりいつも通りで、どうしようもなく目の奥が痛くなったのを覚えている。
「……なんでついてきたの」
「えー。心配で」
「街を一人で歩けない子供じゃあないわ」
「でもさあ、徐倫ってこう、道歩いてるだけでトラブルに巻き込まれそうな感じしねえ?こう……たまたま財布を拾ったら盗んだって言いがかりをつけられて、事態がぐちゃぐちゃと悪化していくような……」
「……何その具体性。予言?占い師にでもなるの?」
「理汪くん占いは当たるんだぜ。星の巡りを占いますよー」
「うさんくさ」
視界が滲んでしまわないようについた悪態も、「ペテン師だからねえ」と理汪はさらりと受け流す。店員に差し出された冊子をぱらぱらとめくりながら「で、どこに何彫るの?」と尋ねる姿は何気ない振りで場の空気を切り替えようとするようで、宥められているような自分にやきもきしながら徐倫は弟の手から冊子を引っ手繰った。
ちなみにこのやけに具体的な予言もどきについてだが、後日実際にその状況がやってきている。とはいえ居合わせた理汪が「ねえ今さ、川になんか泳いでなかった?」と急にカメラを回し始めたおかげで一部始終が記録されており、最悪の事態は回避することができた。まさか本当にこうなるとわかっていたのかと真剣に聞いてみても、びっくりしたよねえ、とはぐらかされて終わってしまったけれど。
「かわいい徐倫が寂しくないように、俺もなんかいれようかな」
「は?やめなよ、付き合いでなんて。ペイントじゃないのよ」
「いいじゃん。一人でいれんの寂しくね?」
「寂しくない」
「えー。……あ、すみませーん、冊子もう一ついいですか?」
「ちょっと!」
「あ、どーもー。……んー……せっかくだから占いにでもあやかって……」
「理汪!」
頑なに聞く耳を持たないで、理汪はくるくると首にかけたチェーンを弄りながら笑っている。そんな理由で刺青なんて冗談じゃないと思ったのは父や母が徐倫に思うような「やめなさい」の気持ちだったのかもしれない。けれども、なおも言いつのろうとした徐倫の唇は、伸びてきた弟の人差し指にピッと押さえられて文句が途切れてしまう。
「お店では静かにしましょうね」
柔らかく微笑んだ理汪の首元、普段は服の下に隠れている銀色のタグが弄られた拍子にゆらゆらと外に出て、刻まれた文字がちらりと視界に映り込んだ。口を閉ざした徐倫に満足して指が退かされてから一拍。徐倫は、銀のタグに視線を下げて問いかける。
「ねえ、それ……その文字ってどういう意味?」
「んー?ナイショ」
「……あと、指、グロスついてる」
「あっ」
――Never be circulation. Never be alone.
あの意味は、結局教えてもらえないままだ。





「やっほ、徐倫。とりあえず元気?」
「理汪!……と、誰?」
「あれ、徐倫とは直接面識ないっけ?俺の友達。刑務所行くつったら心配だからって着いてきてくれてさあ。人数多ければ徐倫も元気になるかなって」
「……なんとなく見たことある顔もあるけど……」
GDS刑務所に収容されてすぐの面会人は、どういうわけか友人を引きつれてやってきた。どうしようもない絶望に襲われていた気持ちはあまりの衝撃に一瞬霧散し、次いで激しい戸惑いの波がやってくる。いや、だって、友人を引き連れてってどういうこと。理汪と徐倫は確かに同じハイスクールだ。だからといって行動パターンの異なる理汪とは共通の友人はそう多くはないし、誰、と尋ねるほどには彼らとの面識も薄いわけで。
そもそも、徐倫は殺人の罪でここにいるのだ。冤罪だとしても、一般にそう理解されていないからこそここに放り込まれている。そんなところに他人を連れてくるなんて。徐倫は一瞬弟の神経を疑った。けれども彼を挟むように座っている友人たちの目に一切の冷たさが無いことに気が付いて、再び状況への戸惑いが勝る。説明を求める様に弟の目を見ると、理汪はあのいつも通りの笑顔で笑って、つん、とからかうように徐倫の鼻先をつついた。
「聞かんぼうの徐倫ちゃんめ。だからあのクソ野郎との別れ話はしかるべき所で片づけようって言ったのに」
「……へ?」
「……って叱りたいけどさ。それにしては今のお前の状況は辛すぎるもんな。とりあえず今日までを良く頑張りました」
話が全く掴めない。徐倫はポカンと口を開けて呆けた。が、理汪はそんな徐倫の頭をぽんぽんと撫でて説明はなしだ。意味が分からない。だというのにただ一言、「頑張りました」がここまで耐えてきた心を揺さぶって、じわりと涙が滲み始める。
とはいえ室内にはいけ好かない看守の目がある。意地でも泣いてやるかと徐倫が唇を噛んで机を睨み付けていると、まさかの両斜め前……理汪の両隣の名前も知らない同級生の方から嗚咽が漏れ始めた。なぜそこから。涙は引っ込みポカンが再び。男泣きの一歩手前に反射的に体をのけぞらせるが、嗚咽二人組は気付いた様子もなくおいおい泣き始める。理汪はむさ苦しい泣き声に苦笑していた。
「ちょ、ちょっと……誰か知らないけどなんで泣いてんのよ……」
流石にこれはドン引きだ。徐倫は頬を引きつらせて仕方なしに声をかけることにした。
「ご、ごめんなあ……勝手に他人に知られてちゃ気持ちよくはねえよなあ……!でも、俺たちクージョー……理汪が姉貴のために頑張ってたの見てたからよぉ……」
「ああ、ホントに頑張ってたんだ……体弱ぇ癖に無理してさ……」
いや、だから何の話。看守の目が若干好奇心を持ってこちらへ向いているのを感じてなおのこと居心地が悪くなる。
「ロメオ・ジッソ、知ってるよ。あのいけ好かない金持ち……何が何でも別れないって脅してきてたんだろ?……ああ、いや、理汪がペラペラ話したわけじゃねえんだ!たださ、このところ一緒に騒いでても、難しい顔して中抜けすることが多くてさ。俺らも何かあるなとは思ってたし」
「はあ……?」
「理汪もどうにか内々に片づけようとはしてたんだぜ。けど、脅しが過激になってきちゃあ、周囲にも危険が降りかかるかもしれないからってさ。警告をくれたんだ。だからジョリーン、心配すんなよ。大抵の奴らは冤罪だってわかってるから」
「……へ……?」
うんうん、と頷く両サイドの男たち。と、挟まれながら「ごめんな、勝手に話して」と意味の分からない設定の展開を続けているらしい理汪。
徐倫はまだしばらく状況が掴めないままだった。が、間もなくしてようやく、弟が徐倫が刑務所の外に戻りやすいように何らかの嘘で環境を整えてくれているのだと察することができた。
徐倫はロメオとの別れ話などしていない。事件が起こるまで馬鹿らしくイチャイチャとしていたほどだ。しかし理汪の話ではそれが『別れ話が拗れて執拗に脅しをかけられていた』というものにすり替わっていて、徐倫の投獄もその延長線の冤罪ということになっているらしい。事故の隠ぺいという点では事実でも、あれこれ嵌められたという意味では確かに冤罪だ。だらだらと続く男泣き組のおしゃべりから察するに、接近禁止命令を取ろうとしていたところを、徐倫が家族の手を煩わせられないと一人で話をつけようとした。その結果、逆恨みで罪を擦り付けられて今に至る……というところだろうか。
なるほど、ようやくわかってきた。戸惑いの失せた目で理汪を見れば、そういうわけです、と言わんばかりの視線が返される。
「徐倫、俺は外でまだ頑張るからさ。……ってことで、夜寝るときに寂しくないように、クマさんぬいぐるみをだね」
「うわ下手」
「手作り感溢れてんでしょ?そうだ、看守さんにも差し入れでーす」
テーブルの上に置かれた不恰好なぬいぐるみを見て口を開きかけた看守へ、すかさず理汪が差し出したのは蓋の空いたクッキーケース。中を見た看守が速やかに口を閉じて受け取るのを見て徐倫は目を見張る。徐倫でさえここに来てようやく理解した刑務所内の事情を熟知したような対応だ。あそこには間違いなく紙幣が入っていて……となると、恐らくこのクマのぬいぐるみの中にも何らかの徐倫への差し入れが入っている。
「じゃ、久しぶりに理汪くん占いを披露してあげようかな」
「占い?理汪、占いなんてすんのか?」
「小さい頃からの我が家の遊び。ま、本開いて目に入った単語を選ぶような適当な占いですけどねー。今日も家出る前に選んできたよ。……聞くよね、徐倫?」
――『雨』と『車』と『隠』は組み合わせちゃ駄目。
まだ一ヶ月も経っていない過去に聞いた言葉だ。あの時はそんなに真剣に受け取ってなんかいなかった。けれども全てが起こってしまってからようやく気付く。仕組みはわからない。もしかしたら、徐倫があのペンダントで身に付けたような妙な力が理汪にもあるのかもしれない。何にしても理汪は笑ってこそいるが、この目は必要性の理解を求める目だ。
徐倫は片割れの目を見て神妙に頷いた。今度はもう、言葉の意味を捨て置かない。





だから。
「……あんたのことは許せない。でも、私は片割れを無視できない」
「……」
「だからあんたに従う。どうすればいいか教えて」
そう言った。感情には流されない。憤りは握りしめた拳の中に留めて、今必要なことをする。父親から聞かされたような事情があるのならば余計に……徐倫はここを出て片割れのそばにいたい。自分と同様に、理汪にも何者かに狙われる理由があるのだから。
というわけで徐倫の視線が喧嘩を売る勢いでまっすぐに父親の目を射抜いたのは、今から数分前の出来事である。あれからどれだけの時間がたったのか、長く感じられた夢が現実ではどれだけの時間を経たのかはわからない。
けれども痛む頬とこの身体の痛みは間違いのない現実だ。今現在は、じわじわと溶かされていた部屋から強引な脱出をとげてどうにか体勢を立て直したところ。隣には同じく脱出を遂げたばかりの父親が倒れ込んでいる。
「……蛇の腹で溶かされるよう……か」
「何」
「いや、うまい表現だと思ってな。……徐倫」
「……?」
あれほど重かった身体も少しずつ自由を取り戻し始めている。徐倫よりそれが些か早かったらしい承太郎はのろのろとでも身を乗り出して、徐倫の耳元に唇を寄せた。
「『気流』の影には『白蛇』。俺とお前の最悪は『白蛇』、だ。ここで始末する」
「……ちょっと、それって」
「意味はわかるな?」
徐倫が察したことを確信する問い。もちろん、彼の言った意味はすぐにわかった。単語を並べたこの占いじみた言い回し。理汪から受け取って来たのだろう。そしてその考えを肯定するように、承太郎はとんとん、と徐倫の蝶の刺青を叩く。片割れの逆の腕には、同じ位置に天体図を模した刺青がある。
すでに『気流』を目の当たりにした状況だ。その影に『白蛇』があるというのなら、すなわちここに居る敵は二体のスタンドということ。蛇の腹で溶かされるようという状況がまさしくそれを示していると言うのなら、これはジョンガリ・A以外の誰かの能力と考えていいのだろう。
理汪はこの情報を父に託し、徐倫にはその父に従うよう指示を残した。敵が二人ならこちらも二人で立ち向かえということか。……いや、恐らくはそこに確実性を上乗せする可能性のある言葉も、あの時。
「……私も預かった言葉がある」
「……」
「それに従って私の『ラッキー』は確保してある。……いいわ、早くここを出ようじゃない」
早く帰って片割れに会いたい。その一心が、徐倫の胸を埋め尽くしている。

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