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なにかとひとりを避ける子だった。『独り』ではなく、『一人』を避ける子だった。
とはいえそんな印象を受けたのは承太郎だけであったようで、妻はいつでも「寂しがり屋なのよ」と困った顔をするだけ。そして決まってこう続けるのだ。誕生したその瞬間から両親からも片割れからも引き離されたせいかもしれない、と。一つを二つに分けた命のはずが、随分と偏ってしまったわが子の身体。徐倫を胸に抱きながら、保育器の中に眠る小さな理汪を眺めていた日々を思い出す。
幼い徐倫は体調を崩す弟を見るたび、自分が片割れの元気を奪ってしまったのではないかとぐずったものだ。その度に誰よりも先に違うと言うのは理汪で、「じょりーんは理汪のぶんのげんきをもってきてくれたんだよ」と大人顔負けの励まし方をしてしまうのである。
頭のいい子だ。昔からそうだった。大学は法学部に行くんだという報告の電話を受けた時も何の心配もいらないと思った。気になるのは相変わらずの一人を避ける放浪癖だが、それだけ頼る先があるということを考えれば悪いばかりの話ではない。
『本日は野郎ハーレム』
『麗しくない。クージョー、その写真はやめろ』
徐倫と比べて怖いくらいの大人び方であっても、こうして馬鹿をやっている面があるのなら問題はないだろう。承太郎は画面に映る写真で息子の風邪の程度を予測して、身体の面も今回は心配いらないことを確認する。後ろ盾である財団の技術を乱用してのこの監督行為も、理汪本人は特に気にした様子もなさそうだった。承太郎も隠す気はなかったが、あくまで相手が理汪であるからこそ可能な姿勢だ。これが徐倫であれば、いらぬ反感を買ってなおも非行に走らせることになりかねない。
とはいえ徐倫の方は放浪という問題を抱えているわけではないので、理汪ほど現在地の確認が必要になるわけではないのだが。
……今にして思うと、理汪はそれを理解しているからこそ。
『病人の圧勝ってどう思う』
『詐欺師!詐欺師!』
『おいそれ誰んち?今から参戦できる?イカサマ対決しに行きたい』
『おい、はじめから宣言してんじゃねえ。クージョーの「ばれなきゃイカサマじゃない」が成立しなくなんだろうが、アホ』
『お前クージョーの勝ちになんか賭けただろ』
『イエス!』
『どうせどこでやってんのか見えねえんだから、「イカサマじゃない」は成立はすんだろ。むしろ成立しないのは賭けの方』
『クージョーが負けるのに誰が賭けてんのかが謎すぎる』
『チャレンジャー以外に誰がいる』
画面に映るのは細かな交流の記録。理汪がこうして自分の行動をネット上に記していくのは、全て理解した上での書き置き代わりなのかもしれない。もちろん交友関係のためというのも大部分を占めているだろうが……いや、どちらかというと日記代わりという部分が大きいか。どういうわけかあの子は、一日前にあったできごとを忘れやすい性質があったから。
最初は何らかの障害かとさえ思った。妻や娘が「昨日ね」と話しかけても反応が鈍いことが多く、話題一つではなくその日一日のことを丸々思い出せないこともあるのだ。保育器に入っていた頃には心停止に陥ったこともあった子だ。何らかの障害が起きているのではないかと心配するのも当然である。
しかし検査しても検査しても異変は見当たらない。しばらくすれば思い出せることもあるので、結局はそういうものなのだと扱われることになって早十数年。『頭がよく』『人当たりもよく』『適度に抜けている』というのは親しみやすいですよね、と財団職員に話を振られるのは何度目だろうか。本来はそう簡単な話ではない。親しみやすいで済ませられるのは、全て理汪の努力があってこそのものだと承太郎は良く理解しているつもりだ。
その一例が約束ごと自体の回避。理汪はその日以外での待ち合わせや遊びの約束をしない。約束そのものをしないからこそ、忘れて約束を破ったなんて騒ぎが起こらない。そして細かに記した日記代わりとも思われる記録を遡っては、覚えていない事柄も思い返そうとする。それすら叶わないなら叶わないで、笑って済ませられるだけの人間関係を築いている。
正直、人間関係の構築については特に、承太郎には到底真似できないものだと尊敬してさえいる。言葉も足りず、関係を修復する努力さえしなかったがゆえの離婚。それゆえの娘の態度。しかし承太郎はそれこそが彼らを守る最善の策だと今でも確信しているし、至った現状については当然の結果だと受け入れている。だというのに、理汪はまるですべて見越したように変わらず承太郎に接するのだ。「愛してるよダッド」。承太郎が返さない言葉を、音にはならずともいつも受け取っているとでも言わんばかりに。
本当なら。本来、この関係はもっと断たれているべきである。承太郎はパソコンの前に置いたメモに走り書いた『気流、白蛇』の文字を見下ろしてため息をつく。
これが一つの理由。一見意味の分からないメモ書きだが、決して捨て置ける戯言ではない。
理汪の『占い』には確かな実績のあった前例がある。だがこれに関しては承太郎にしか実感した経験のないものだ。妻や娘はあれを気まぐれの発言としか思っていないのだろう。実際、それは時折、思い出したようにしか伝えられないものであった。
あれは承太郎が杜王町に赴く半年ほど前のことだ。悪い言葉は『鼠、爆弾、写真』、探し物は『虹、音、川』。それが何を示していたのか、気づいたときにはそのほとんどを終えていた。後になって振り返りようやく理解する。確かに鼠に手足を溶かされ、爆弾をもろに浴び、写真のなかに閉じ込められた。探していた弓と矢は最初は虹村刑兆の手に。次は音石明の手に。最終的に探していた吉良吉影は、川尻浩作として身を隠していた。
あのとき聞いたのはこの事だと理解したのは、吉良の自動追尾爆弾と退治した辺りだ。あれは丁度徐倫が高熱を出して妻から帰宅を願われていた頃。回線の向こうからの甲高い怒鳴り声の後、フォローするかのように理汪が――。
「………………白蛇……」
言われたことばを思い出してハッとする。口をついて出たのは先程メモしたワードそのものだ。なぜ今の今まで忘れていたのか。
――徐倫はだいじょーぶだよ、ダッド。徐倫のサイアクはネツじゃなくって『シロヘビ』だから。ダッドはおしごとがんばって。きをつけてね。
白蛇。あの時もそう言った。そして先ほどの。
――っていうか『白蛇』が最悪だから気を付けてね。
「……徐倫……」
唐突に襲う予感に突き動かされるがまま、承太郎は椅子を転がして乱暴に立ち上がる。自分と娘の持つ共通の最悪。承太郎と徐倫。そこにある他の共通点は血と、肩口の星。そう、星だ。星にまつわる、災厄の最悪。





息子に『占い』について尋ねたことがある。杜王町から帰った直後だ。その頃には徐倫の熱も引いてはいたが、夫婦間、親子間に入った亀裂は深く修正のしようのないものになっていた。離婚までもはや秒読み段階。だというのに理汪はやはり変わらなくて、お帰りダッド、と曇りない笑顔で承太郎に飛びついてきた。
その小さな身体を受け止めて尋ねた。あの占いはなんだったのかと。
――占いだよ。やくにたった?
あっさりとした答えと、邪気のない問い。承太郎は頷き、ならばとひとつ頼んでみたのだ。また何か占って見せてくれるかと。何だってよかった。何かしらの情報があれば、息子の発言の背景に何があるのかを掴む手掛かりになる。
けれどもそれは結局叶わぬまま。
――うーん、いいけどダッドのつぎはもっとあとだよ?ホシがめぐったときのことしかわからないんだ。
あの時は妻に引っ張って行かれる息子を間に挟むのも可哀想で、それ以上を聞かないままに終わらせたのだった。家族以外にペラペラ話してはいけないとだけ釘を刺して、星が巡ったら教えてくれとだけ約束をした。あの時の理汪はまだ日付をまたぐ約束事にこだわりを持つ年齢ではなかったためか、あっさりと頷いてくれたわけだが。
何にしても、あの時の約束は果たされたということで良いのだろう。それがあの連絡だ。これに関しては運よく約束を覚えていたのか、もしくは約束などしなくとも最初からそのつもりであったのか、実際の所はわからない。
そして伝えられた内容が、今回の『事件』に関わりがあるのかも。
「理汪。理汪、起きろ」
徐倫が逮捕されたという知らせは妻からやってきた。離婚以来めったになかった連絡が来たという時点でいい予感はしなかったが、それが牢屋関係とは、嫌なところで血の繋がりを感じる。電話を受けた時点ではすぐに駆けつけられる状況ではなかったので、財団に徐倫の収容先を調べさせつつ、ひとまず矢じりの入ったペンダントだけは手渡しておくよう妻に頼んでおいた。『白蛇』についての情報が何一つ得られていないが、いずれにせよどうにか対応していくしかない。徐倫には自衛手段を身に付けてもらう必要があった。少なくとも、承太郎が必要な準備を終えて迎えに行くまでは。久方ぶりに顔を合わせた妻を置いて息子の部屋へと直行したのは、一重にその準備のためだ。
「…………」
「理汪」
枕に顔をうずめて眠っていた理汪は呼びかけと揺さぶりに目を開けて、しばし寝ぼけたような目で承太郎を見上げる。直に顔を合わせるのは何年ぶりだろうか。投稿された写真でその姿は頻繁に見ていたつもりでも、物理的距離が近くなるとこうも懐かしさが募るものなのか。
承太郎は幼い頃の面影を残した息子を見下ろし、頭の方も目覚めてくれるのをじっと待つ。しかし目があって数秒、双方お見合い状態の沈黙がしばらく。仕方なしに改めて名を呼んだあたりでようやく焦点があって、しかし理汪は承太郎を呼び返すでもなく、まず自分の首にかかったチェーンを掴み、その先についていた銀のタグの方に視線を下ろした。かと思えばスウェットの裾をめくって腕を覗き込んで、何事か確認するように「……ホロスコープ……」と呟いてからようやくハッキリした目で承太郎を見上げる。
「……ダッド、おはよう?」
「大事な話がある。目は覚めたな?」
「……あー……うん……えっと、何?」
「徐倫のことだ」
「……徐倫……徐倫、が……?」
寝起きの悪さは健在。のろのろと状態を起こしながらも眉間にしわを寄せて記憶を辿るような姿がぴったり幼い頃と重なるが、今回ばかりはきれいサッパリ何かを忘れられていては困る。承太郎は念を押すように「徐倫が投獄された件だ」と語りかけ、ぱちぱちと瞬きをした理汪が「あー……」とベッドサイドの携帯を引き寄せることを静かに許容した。
「うん……うん、投獄……ダッド、会いに行くの?」
「ああ」
「俺もちょっと前に面会に行った。マムのことは、俺の判断で引きとめちゃったんだけど……」
「その件は聞いてる。それでいい」
携帯の画面を眩しそうに眺める目は恐らくここ数日間の自分の行動記録を辿っているのだろう。それに関しては承太郎も確認済みだ。理汪が取っていたあの『一連の行動』が片割れのためを思ってのものだということは承太郎から見れば明らかであるので、彼がお得意の『息を吐くような嘘』を展開している事実については黙認するつもりでいる。何はともあれ、承太郎が触れたいことはその件ではない。
「理汪、『白蛇』について占えるか?」
「……俺、どこまで話したっけ?」
「俺と徐倫の最悪は『白蛇』だと」
「あー。……まー、最悪の最悪は細かく言うと『天国』って言葉なんだけど……とりあえずはそっちだよなあ。うん、ちょっと顔洗ってくるから待ってて」
がしがしと頭をかいてベッドから抜け出した理汪はその足で宣言通り洗面所へと向かう。ザーッと流れる水の音の向こうでは、顔を洗い歯を磨き、その片手間に記憶の照らし合わせでもしているのだろう。どう考えても問題のある記憶能力だが、病院に連れて行ったところでどうにもならないのだから仕方がない。承太郎は息子のベッドに座り直し、「おまたせーい」と戻ってくる呑気な声を視線で迎えた。
「で、『白蛇』な。メモ作ってあるんだけど、ダッド携帯持ってきてる?とりあえず送るよ?」
「ああ」
「そうだ、徐倫には今日会いに行くの?」
「そうなるな」
「オッケー。じゃあ『気流』についても送っておこう。これも『刑務所』に縁のある言葉だからねえ」
とん、と少し距離を置いて承太郎と同じくベッドに腰掛けた理汪は、話しながら片手で携帯を操作し続ける。少ししてポケットに入れていた携帯が震えたので、先ほど言った二つについての詳細が送られてきたのだろう。承太郎はすぐにそれを確認して、漏らすことなく頭に叩き込んだ。
その傍ら、「そーだ」と何かを思い出した様子で立ち上がった理汪は机の方へと歩いていく。
「ダッド、ちょっと相談。ツテがあったら協力してもらえる人を紹介してほしいんだけど」
そう言って机の引き出しから取り出したのは万年筆のような小さな筒だ。
「環境作り、仕上げに入りたくて」
カチッと鳴ったのはスイッチの音。直後に流れてきたノイズには人の声が重なり、録音された会話が流れていく。言わずもがな、あの筒の正体は万年筆に擬態したレコーダーというわけである。
弁護士と徐倫の声。弁護士と青年の声。後半に至っては罪の自白もある。すなわち、徐倫に擦り付けられた罪の正しい在り処だ。
この後承太郎が徐倫を無理やり刑務所から連れ出したとしても、残るのは脱獄した逃亡犯としての徐倫の不名誉だ。承太郎は何より徐倫の命を最優先して、その点については後回しにしていたが、理汪はそうではなかったというわけである。理汪が己の人脈を駆使してばら撒いていた『嘘』も全てはそのための一材料なのだろう。
承太郎は画面上に見た鎮痛な文面を思い返す。
『この場を使って伝えておきたいことがある。俺は今みんなに迷惑をかけるかもしれない状況にある。先に謝っておきたい。ごめん』
『今、姉が面倒ごとに巻き込まれてる。痴情のもつれってやつだから、本当は内々に対処するつもりだった。けど相手の方の行動が過激になってきているから、冗談抜きで危ない。詳しくは話せないけど、回りに飛び火するとまずいから、しばらくは俺のそばには寄らないで欲しい』
いったい何をどこまでわかって予測を立てているのか。末恐ろしい息子だと改めて思わされる。『それって徐倫の彼氏のことか?ロメオ・ジッソだな?何された?』とあちこちから上がる問いは恐らく全て理汪自身の中で予測されていたものだ。理汪は周囲に問わせ、味方を作り、徐倫への擁護感情を作為的に高めていた。そこに平然と嘘がちりばめられていることなど関係者以外には知りようもない。徐倫がこんな状況に追い込まれた理由もまた、一般には理解されない事情であるように。
「……話を通しておく。今日中に向かわせよう」
「やったー。いやあ、大人の人脈すごいねえ。ありがと」
「理汪」
「はい?」
「お前、この数日で異変はなかったか」
だが理汪はどうだろうか。実際の所はどこまでの理解があるのか。
矢じりの入ったペンダントは確かに徐倫に手渡されている。発信機の現在地は変わらず刑務所内であるから、それに間違いはないだろう。となれば徐倫も無事スタンド能力を身に付けた可能性は高い。
片割れがスタンドを発現させた、となればもう半分への影響は十分に考えられる。承太郎がスタンド能力を発現させたきっかけを考えれば、同じジョースターの血を引く理汪としてはなおのこと。
だが理汪は首を傾げて「今のところ具合はいいよ?」と笑うだけだ。それを受けて承太郎は「そうか」と目を閉じ立ち上がる。簡単に片づけられる心配事ではないが、今は急がなければならない。理汪がそうだと言うのなら、今は承太郎もそれで納得しよう。
「ダッド、必ず徐倫と一緒に帰ってきてね」
そう、何にしろすべてはその後だ。

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