▼愛を望んだシンドローム


理汪にはコレと固定された世界というものがない。何を言っているかわからねえと思うが、この身に起こっているありのままを話すとやっぱりそうとしか表現できないので、この一言でどうにかご理解いただきたい。
推測するに、家族というものへの憧れが生み出した妄想的なアレだと思うのだ。自分で言って虚しいが、そうとでも思わなければ説明がつかないのでどうしようもない。ただ、寝ても覚めても妄想が作りだした世界という割には、理汪が思う『現実』に延々と至らないのはどういう理屈だろうか。いや、妄想で片づけるにしても説明が付きにくいこの状況であるから、理屈を求める方がおかしいのか。
ともかく、今更ながらにも状況整理のため、順を追って振り返ってみたいと思う。始まりは『どこ』だっただろう。……ちょっと考えてはみたけれど、最初の特定をするには記憶がごちゃごちゃになりすぎているので、その点に関してはこだわらずにいこう。そうしよう。
まあ異変の最初はおいといて、まずは簡単な身の上話から。これこそが自分の本当の身の上だと思ってはいるけれど、だんだんとその自信も薄れているので正直なところ信憑性には欠けている。いたしかたない。もともと持っていた姓なんて忘れてしまうほど理汪には複数の姓があるもので、そこに関してもこだわるのはやめておこうと思う。
とまあ言い訳がましい前置きはここまでにして。理汪は物心ついたとき、すでに施設の住人であった。家族の顔は知らない。頼れる親族もいない。そのくせ身体は厄介な病を抱えていたものだから、生きるためには臨床試験を積極的に引き受けることで病院のベッドを確保する以外に方法が無かった。そういうわけで入退院を繰り返す幼い理汪にとっては施設よりも病院が家という感覚で、血縁としての家族は仕方が無いにしても、絆としての家族の方も残念ながら得ることが難しい状況にあった。まあここまでを聞いて「いや、でもそれはさあ」と口を挟みたくなる人もいるかもしれないが、家族だの絆だのを作ろうとする本人の努力が足りなかった否かは今は問題ではない。過ぎ去った過去は過去であるし、今はただ『幼いころの理汪は家族というものを切望していた』という事実だけが重要なのである。
日に日に積るそんな思いを抱えて早十……十五?十六だっただろうか。もっと多いか少ないかはやはりハッキリしないので置いておくことにして、まあ少なくとも十は越えていたはずということで。十年以上は抱えた積年の思いというやつである。
で、なぜここまで『家族めちゃほしい』な気持ちを繰り返し強調するかと言うと、それこそが今の状況深く関わるものであると思うからだ。いや、もう今の状況今の状況と勿体ぶるのはやめておこう。
単刀直入に言う。理汪は今、念願の家族を手に入れている。それも複数。これといった固定もなく。
何を言っているかわからねえと思うが理汪にもさっぱりよくわからん。家族を切望していた人生がどこでどうなったのかもよくわからないし、何がどうして家族をいくつも持つことになったのかもよくわからない。なぜ家族が固定されないのかもよくわからない。そもそも何故家族が『アレら』であるのかもよくわからない。まあ『アレら』についてはちょっとばかり話がややこしくなるので一旦保留。
というわけで改めてありのまま、自分の身に起こっていることを率直に表現してみる。そう、例えば今日が終わって眠りについて、明日の朝が来て目が覚めたとしよう。そうすると、目が覚める場所というのはその前日に眠りについた場所であるとは限らない。眠る前の自分の姓がAであっても、目覚めた時の自分の姓はB、だなんてことは多々ある。というか割と普通にそればっかりである。けれども苗字がBな日が来たからと言って、二度と苗字がAである日が来ないわけではない。ハイややこしいややこしい。とはいえ、これこそが『理汪にはコレと決まった世界というものがない』という状況なのだ。ある日の理汪はAさんちの二男で、ある日の理汪はBさんちの三男である……というこれが複数、これといった規則性もなくやってくる。救いなのは全ての切り替えが寝て起きるというハッキリとした区切りによってなされるということと、それぞれの自分がどういうわけか第二子以下に限定されているという規則性があることだろうか。
つまり簡単に言うならば、理汪は複数の自分の人生を持っている。そしてそれらはいわゆる並行世界的な扱いで、理汪は睡眠を区切りとして並行作業的に、なおかつランダムにそれぞれの人生を送っている。というわけである。ううん、結構綺麗にまとめられた気がする。やはり順を追って考えることは大切だ。
というわけで自分の現状まとめに一段落が付いたので、先ほど保留にした『アレら』……すなわちAさんちBさんちについても触れてみたいと思う。理汪のもつこういった姓たちについてだが、これらは総じて、全く関係のない一族名というわけではなかったりする。というか関係ありすぎというか、だからこそ自分でも妄想乙と思わざるをえないというか。
彼らのお名前、総じてJで奇妙でアドベンチャーなお話の住人なのだ。つまりはそういうこと。この点を考える度に妄想説が濃厚になってきて虚しい。とはいえ妄想乙夢乙というには一向に本物の現実に目が覚めてくれないので、一概にそうとも言えないのはある意味では救いかもしれない。
ちなみに病弱であったこの身体、状況とタイミングによっては全くの健康体として過ごせることがある。というのも、理汪があちこち行き来しているこの世界独特の要素が深くかかわっているわけで……まあ勿体ぶらずに言ってしまえば、スタンド能力というやつである。
デットブック……なんて周囲に合わせて横文字呼びをしてみるが、なんだかちょっと気恥ずかしいので率直に借用書と呼ぶことにする。平常が健康体であるにも関わらず、これによって病弱状態は引き継がれていると言っても過言ではない。
このスタンド、人型ではなくただの本なので、通常の状態ならば一見してスタンドと気づかれる可能性が低いのは利点だ。とはいえいつどのポジションにいる自分もこの能力を保持しているというわけではなく、やはりその人生ごとにスタンドを得るきっかけ、条件がなければスタンド能力は保持できないらしい。ちなみに今現在理汪がスタンドを保有しているパターンには矢に触れることはもちろんのこと、血縁、双子の神秘なんてものもあったりなかったりである。
さて問題の能力についてだが、なんというか、その名の通り借用書、といったところだ。イメージ的には第三部の『ツケの領収書だぜ』な感じで。記述もまあそれに近い形で、開いた本には『誰々に何々された』というリストがずらりと並んでいる。具体例を述べるとナイフで刺されただとか、毒を盛られただとか、つまりは理汪への危害のリストだ。しかし第三部のあれと大きく異なるのは、この借りを清算するのは相手ではないことである。というか、実際的には理汪はこの危害を受けていない。むしろこれは理汪のスタンドへの借りというか。つまり、正しくはあのリストは『理汪への危害をスタンドが無かったことにしたリスト』であり、返済義務は理汪本体にあるのである。
ナイフで腕を切られるという事実を無かったことにした負債は、危害の程度に相応して身体の不調といった形で返済されていく。とはいえ死に至るほどの危害の返済を一度に返済するのではなかったことにする意味もないので、じわじわと時間をかけて返済されていくのが常である。ちなみに一度の返済額についてはコントロールは効いていない。スタンドの匙加減といったところだろうか。スタンドと意思疏通をしたことなどないので、この言い方をすると妙な感覚だが。
とまあ、ここまでのこれは、理汪に対して自動で働く機能である。対して手動で働かせることができる機能というものも存在しており、これは他者に対しても適応できるのだ。すごい。『誰が誰に何をされる』をあらかじめ書いておくことで、その事態の回避を前借りしておくことができる。この返済義務も理汪にのしかかってくるのだが。とはいえあくまで保険という形。理汪は自らの力でも避けたい事態を避けるよう手は回しているし、それが成功すれば自らの行動で返済を完了したと見なされるようで、身体的異常をじわじわと重ねていく必要はないのである。ちなみに『あらかじめ書いておく』という点からもわかるように、理汪はこれを主に原作の死亡シーン回避に適応している。
そういうわけで状況によっては律儀に持ち越されているともいえる病弱性だけれども。おかげで危険な世界とはいえ非戦闘要員でいられるという利点もある。多重生活で時折頭がこんがらがってしんどい、という難点も常に付きまといはするけれども。
まあ何事も良い面悪い面があるものだ。切望した家族がどこにいってもあるというのなら、やっぱり多少の問題には目を瞑ってこの謎現象を喜ばしく受け入れておくべきなのかもしれない。
というわけで、今日も今日とて『とある一家の理汪くん』な一日を終えて理汪はそっと目を閉じる。目覚めて見る天井が白か茶色かどれでもないかは、目覚めてみなければわからない。

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