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目が覚めたら隣に七海の覇王が健やかに寝息を立てていた。
あっ。カッコで『察し』の文字をつけて一瞬の賢者タイムに陥った後、やってしまったと心の底からうなだれる。断じて朝に小鳥がちゅんちゅんという意味でのやってしまったではない。この『やってしまった』は現在の展開を許してしまったという意味であって……いや、それもまた七海の女たらし殿にうんにゃらを許してしまったという意味ではなくてむしろ己の従者に許してしまったというか、いやこれもなんか変に聞こえる。どう言っても変に聞こえる!
「……ふ」
ひとまず落ち着こう。そうだ落ち着こう。ナマエは額に指先を添えて、自嘲じみた吐息を吐きながら明後日の方向に目をやった。あ、なんだかこの姿勢悟ってしまった感がある。ちょっとかっこいい。
……いやいやかっこいいとかそういう問題じゃないってば。というか言うほど問題の状況ではないんだから焦る必要もないんだってば。
現状はつまり、題して夏黄文君の陰謀、というやつである。シンドバッドの来訪中にこれが起きることはわかっていた。おばかな従者のおばかな策略だ。こんなことで騒ぎ立ててシンドリアに引け目を感じる事態は避けるべきだと身構えていたつもりなのに。身構えていようともこの結果に至ってしまったのだから救いようがない。背後の攻撃に対応できるようになりたい。ハッ殺気!という感じに華麗に攻撃をよけられるようになりたい。シンドバッドや紅炎クラスになるとそれも簡単にできるんだろうな、うらやましい。そんなお兄様がかっこいいです素敵です。シンドバッドに関しては怖いだけ。
というか、気配に敏感そうなポジションに立っておきながらこれってどうなんだ。酒に潰れたわけでもなしに、ぐーすかねこけるシンドリア国王を見下ろして何ともいえない気分になった。隣で先に覚醒している誰かの気配に気づかないものなのか。今殺す!ってほどの殺気が向けられない限りは起きないとかそういうあれか。そういえばこの人、初登場時には昼寝中に金属器を奪われていたわけで。それすら策略という名の演技であったら怖い。強い敵怖い。
ともかく怖い国王様の寝台からは早々に退散するに限る。そうは思ってもここまで身体が動かなかったのは、起きるかも、という恐怖心が心の内にあるためだ。大丈夫、原作紅玉ちゃんはふつうに逃げ出せたんだから大丈夫。とりあえずはそう己を励ますが、ベッドの軋みに目を覚ますのでは、という不安も同程度の勢力である。
それでもいつまでもここで『何もしない』コマンドを選択し続けるわけにもいかない。ナマエは猛獣と対峙した気分でじっとシンドバッドを凝視すると、そのままゆっくりと、ごくごくゆっくりとした動きでどうにかベッドから降りることに成功した。そこから扉に向かうまでの間も決して視線は外さない。身じろがれる度にびくりと肩を揺らしながらも、熊さんに出会ったら目を逸らさずにゆっくり後退するんですよ、とどこで聞いたかもわからない教えを胸に一歩一歩後退していく。
どうにかこうにか部屋を脱したあとの脱力感と達成感の攻防が激しくてつらい。
「義姉上?」
そこにかかる義弟からの声がつらい!
「……は、白龍ちゃん」
「ここは来客用の……義姉上、まさか」
そのまさかです。まさかをやってしまったのです。原作展開は紅炎紅明紅覇白龍の間でしっかりがっつり共有されているうえ、その全員からこの展開は不必要と言われたにも関わらず、である。ま、誠に我が不徳の致すところぉ。弟の視線が痛い。痛い。ちくちくどころかざくざくする!このまま誰に遭遇することもなく自室に戻ればすべて無かったことにできたのにい!
「……あの、ゆ、油断していました……」
「何もなかったんですね?」
「うん。ぐっすり眠っていらっしゃるし、何も覚えてはいないと思う。……それに、絶対、私は騒ぎ立てたりはしないから。ごめんなさい……」
「義姉上が謝ることではありません。責を受けるべきは向こうです」
「騒ぎ立てるべきじゃないのよ、白龍ちゃん」
「ですがこの事態を捨て置けはしません」
「隙をつかれた私が悪いの。注意するよう言われていたのだから」
「義姉上は気を張っておいででした。それを言うのなら、俺がそばについているべきだったんです。ですが何にせよ、元凶にはしかるべき対応を……」
うわこの子夏黄文を従者から外す気なんじゃ。遵守するべき流れの上では絶対的に必要な立ち位置というわけではないと判断されているのか、白龍の目に戸惑いがない。
やめて夏黄文は根はいい子なのよ!おばかなだけなのよ!そうは言いたくても、どうやら白龍は静かにご立腹のようだ。ここで従者教育に関しても悪いのは私だからと主張したところで火に油な気もする。となればおばかな従者夏黄文を守ってあげるために浮かぶ方法は限られてくる。ここはお兄様方にこんな失態晒せない作戦で行くしかない。
「処分を下すとなっては、お兄様方にもお話が行ってしまうわ!」
「…………」
「お願い、白龍ちゃん」
「……ひとまずはここを離れましょう。騒ぎを避けるのであればなおのこと。部屋までお送りします。……話はその後で」
あ、言葉で追いつめる気は満々のようだ。『話』は夏黄文達に向けての話のことだろう。いったいどのくらい厳しい言葉でこの件を言及する気でいるのかは定かでないが……社会的制裁でないのならまあ、構わないか。いずれにせよ、今後白龍と共にシンドリアを訪れる際には紅玉に代わってこの件を暴露されぬよう圧力をかけておく必要はあったわけで。
何よりこれで白龍の気が収まれば上の兄たちに話が行かない可能性が高い。お兄様方にこんな失態晒せない作戦は素直な気持ちそのものでもあるのだ。呆れきった目を向けられるのは耐え難い。





夏黄文君の陰謀事件は、白龍から夏黄文への軽蔑の目とお説教と「貴様の首は義姉上の御心で繋がっていることを忘れるな」という警告でもって無事に幕を閉じ、シンドリア国王の煌帝国滞在期間は客人の帰国をもって無事終了となった。
次にやってくるのは白龍のシンドリアへの留学およびザガン攻略という重大な山場だ。
時を同じくして『練紅玉』にとっても重要となるのは、この時点で起きる、シンドバッドによるゼパルのねじ込み事件である。
練紅玉は従者のおばかな策略によってシンドバッド王に不貞を働かれたと勘違いをした後、留学に向かう白龍に同行してシンドリアへ入国することになる。入国直後に全ては従者が仕組んだものだと発覚することになるわけだが、最大の問題はそのさらに後。同時期にシンドリアに滞在していたアリババとの手合わせに割り込んできたシンドバッドによって、その最中にゼパル――いわゆる盗聴器、および一時的な操り人形起動スイッチを仕込まれることにある。
すなわちこの時点から練紅玉は無自覚なスパイと化し、後に煌帝国が迎える重大な局面においてはシンドバッドの操り人形として上の兄たちの敗北の原因となるのである。
これは頂けない。そもそもが白龍と紅兄弟が対立する場面自体が起こる予定のないものではあるが、そうでなくとも歩く盗聴器となること、いつお人形状態になるかもわからないということについては、重大な問題であることに変わりはない。
バルバッドからの帰国直後にナマエが原作知識を開示した際というのは、暴露は各章タイトルを述べる程度の大まかな流れだけを話すに留め、紅炎が「紅覇を呼んでおく」と日を改めたことで、後日白瑛をのぞいた兄弟の前で細かなあらすじを説明する形を取っている。よって、ゼパルの件もその詳細は兄たちが揃って初耳状態であり、ナマエはそれぞれの純粋なリアクションを同時に目の当たりにしている。
不快そうな顔、であったことに関しては全員が共通している。それが紅玉にではなく、シンドバッドに向けた不快感であることは、言葉少ない上の兄に代わって紅覇がいち早くフォローを入れてくれた。あの場面で彼を絶望の淵にたたき落としたのはほかでもない練紅玉であるというのに。あの瞬間に紅覇様教の信者の気持ちが理解できてしまったのは言うまでもない。
さて、このようにいつ背後から切りつけられるかもわからない、という危険性を孕んだシンドバッドのジンの能力であるが、これについて紅玉はシナリオ通りに受け取ってくるよう指示を頂いている。ゼパルを仕込まれる展開自体を回避することは容易い。そもそもが、今回は白龍への同行を己の見聞を広げるためとしているように、本来ならばナマエにはシンドリアに向かう理由はないのである。
それでも理由を付けてシンドリアへ赴き、ゼパルを持ち帰る理由というのは、盗聴器の居場所を確定しておくという意味合いに他ならない。
妥当な判断だ。ナマエに仕掛けられることがないとなれば、その分は当然ほかの誰かに仕込まれることになるのだろう。となればいつどこで、どの情報がシンドバッドに届くのかも、いつどこで誰に寝首をかかれかねないのかもわからない。だがこれがナマエに仕込まれるとわかっていれば、ナマエの目に触れる情報を統制し、戦力図においてのナマエの配置に気を配れば、それで危険はおおよそのコントロールが可能となる。
必要情報をすべて兄達と義弟に託した後となれば、重要機密から遠ざけられても何ら問題は無いのだから。
だがここで一つ障害となり得るのは、シンドバッドが紅玉を利用価値のある人形と認識してくれるかどうかである。なにせ、バルバッドでは保身のために強気な姿勢を貫き通してきたもので。今から惚れるのか。うっかりときめいて恋する乙女の顔を見せつけなければならないのか。正直ここが一番の不安。それでもこの心配に関しては紅覇から「お前、怖がってる姿かわいいから大丈夫でしょ」と後押しをもらっているのでそれを信じて突き進むつもりだ。いわく、袖で顔を隠して目をそらす様は傍目には殿方を前に恥じらっている乙女に見えるとか。恐怖にひきつる頬はしっかりと隠されるので勘違いしやすいそうだ。「多少目が潤んでるならなお良し」とまで言われたけれど、目薬なしでそこまでできるかはちょっとわからない。
「この国はいかがですか、紅玉姫」
とにもかくにも、まずはシンドバッド王と対面できる場面を築くべく頑張ろう、と意気込んでいたのだけれど。
きっかけを作らなければならないかという不安は見事に覆された。こちらから行かなくてもあちらから来てくれたよお兄様方。さすがはこの王ときたら七海の女たらしだね白龍ちゃん。
「これはシンドバッド王。わざわざこちらにお出向きになられるなんて……お呼びいただければ私からお伺い致しましたのに」
「どうか畏まらないでください。招いた身として、もてなすのはこちら側ですよ。それにあなたと話がしたかったのは私なのですから、私から出向いて当然です」
数ヶ月ぶりの砂糖だ。煌帝国はやはり辛口寄りの空気だと再実感。リアルにおえっとなるわけではないけれど、いつ頬がひきつるともわからない状況なので、合わせた両の袖口で口元を隠すことも、恋慕にかこつけてちゃっかり視線を逸らすことも忘れない。
ナマエは目を逸らしたついでに先の声かけに答えるべく、視線の行く先を夕闇に灯をともし始めた城下へと定めた。
「素敵な国。活気にあふれていて……このような国のあり方も存在するのですね」
「私も貴国への訪問時には多くを学ばせていただきました」
「実りのある時間を提供できましたこと、一皇族として誇らしく思います。……そうして学ばれたことがこの国で全く別の形として繋がっていくのだと思うと……なんだか不思議な気持ちになります」
資本主義国、懐かしい。長らく社会主義の煌帝国で過ごしてきたとはいえ、その生活はあくまで宮中でのものだ。社会主義がこの身に強く根付いてきたわけでもないだけに、感覚はやはりこちら寄りのままなのかもしれない。
「……煌帝国と言えば、姫君」
「はい」
「…………先日の訪問では、その……あなたに何か、不快な思いをさせるようなことはありませんでしたか」
「…………え」
郷愁の念にも似た気持ちを抱いていた穏やかな心に落雷。言いづらそうに、申し訳なさそうに、どこか青ざめても見えるぎこちない表情でシンドバッドがまさかの話題を振ってきた。反応が遅れたことも、「え」の後に長い沈黙と硬直が訪れたことも致し方ないことだろう。
いやまさかそんな。あれはしっかり隠蔽できたとばかり思っていたし、そうだと思っていたからこそ、ここでは比較的穏やかな気持ちでいられたというのに。
「お、起きていらっしゃっ……」
「え」
え?
「え」って何、つまりそれはどういう意味の「え」?
白龍ちゃん、白龍ちゃん、義姉上はヘルプを所望しております!と大手を振って叫びたい気持ちを抑え、ナマエは困りに困ってシンドバッドを見上げる。つまり、これは、どういう状況だ?あなたに何か不快な思いをさせたのではないか、と確認をしにきた。すなわち何かしらの心当たりがある。しかし夏黄文のおばかな策略のことかと咄嗟に取ってしまった『起きていたのか』という確認に対して明らかな戸惑いの声。すなわちこのことではない……もしくは心当たりがない。いや、でも、心当たりがなければそもそもこんな問いかけをしてくるはずが。
「…………な、なにもありませんでした!」
何にせよ国際問題にさえなりかねない自国の非を認めるわけにはいかない。さきほどはうっかり「起きていらっしゃっ」まで口にしてしまったがそんなことはなかった。なかったのである。たとえ誰があったと言おうともなかったで押し通さなければ。従者の責任は主の責任。せっかく白龍がお口にチャックを約束してくれたにも関わらずこんなところで失態を認めるわけには。
――ガタン。
「あー!あー、そうだ紅玉姫、あちらに連なった灯りが見えますか?あれは近海の漁船の灯す光でして、この時間になると光につられてやってくる魚がいるんですよ」
「え?あ、ええ……海に囲まれた国ですから、やはり漁業も盛んなのですね……?」
……今、物音のあった方向から一瞬複数の人影が見えた気がする。あくまでも、そこに割り込んできたシンドバッドの陰に隠されたせいで、見えたのは一瞬であったけれども。そしてこのあからさまな話のそらし方。
意識が物音のあった方向に向いたせいで中身のない受け答えしかできなかったが、おかげで今の間に察してしまった部分がある。
これはつまりあれか。シンドバッドが何かしらの粗相をした可能性がシンドリアに浮上しており、それを確認してくるよう背中を押されてきたという感じか。だってさっきの人影、政務官殿的な布が見えた気がする。「ありませんでした!」のごまかし直後のあれであるから……うむ、『あったんだ!』と集中線で従者たちの心の声が聞こえてきそうな展開だ。
必死に話を続けようとするシンドバッドを見上げると、だらだらと冷や汗でも流していそうなひきつった笑顔だ。取り繕ってます、と顔に書かれているというのはまさにこのことだろう。
なんだかちょっとかわいいかもしれない。と、思ってしまったのは悪いことでしょうか。
そう思ってしまった自分に恥ずかしくなって、ナマエは目を背けるようにして彼が指さす海の灯りを見やった。少しばかりやかましい心臓の音が先程の緊張の名残なのか、うっかり一回り年上のおじさんに母性を刺激されてしまった結果なのかは定かではない。


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