▼3


「紅玉姫、紅炎皇子からのお呼び出しがかかっております」
砂糖をぶちまけたようなシンドバッドの甘ったるさから一変、煌帝国に戻れば国内の空気も次なる試練もキリッとした辛さに満ちていた。帰国早々の大勝負が始まる。バルバッドで失策を打っていないだけあって肩身の狭さこそないが、緊張からは逃れられない。出国の前に、『不安な夢を見ました』という体で紅明の前で未来予知カッコ詐欺をして披露して来たのだから当然だ。
そんなことを知る由もない夏黄文はといえば、「バルバッドでの姫君の手腕にいたわりのお言葉をいただけるのでしょう」と勝手に浮き足立っている。この脳天気さがうらやましい。そうさせているのは、情報を開示していないナマエも同然なのだが。
呼び出しに応じて宮中の一室へ向かうと、入り口には白龍が立って待っていた。白龍だ、生白龍だ。その姿を目にした瞬間、帰ってきたという実感がどっと胸に押し寄せる。そんなナマエを視界にとらえるなり、白龍は礼の姿勢でもって「お帰りなさいませ、義姉上」と心からの労わりの言葉で迎えてくれた。
「ただいま、白龍ちゃん」
「バルバッドでのご活躍、聞き及んでおります。大きな騒ぎもあったようですが、お怪我がないようで何よりです」
「ありがとう。……白龍ちゃんも一緒にお兄様の所へ?」
「はい。お供します」
これは嬉しすぎる。紅明だけならともかく、あの紅炎をも前にたった一人で向き合わなければならない覚悟をしていただけに、この救済措置は素直に嬉しい。
ナマエは夏黄文に外で待つよう言いつけると、白龍と並び立って室内に足を踏み入れた。窓のない部屋の中には、予想通り紅炎と紅明が待っている。
その姿を視界にとらえるなり、ナマエはまず「ただいま戻りました、紅炎兄様、紅明兄様」と兄二人に帰国の挨拶をした。共に入室した白龍の姿に紅明は一度は驚いて見せたものの、すぐにどこか納得した様子でナマエと白龍の二人に椅子へかけるよう促した。紅炎の方はピクリとも表情が動かないもので、何を考えているのかはわからない。
「よく戻りましたね、紅玉。まずはバルバッドの一件、お疲れ様でした。これから何の話があるかはわかっていますね」
「はい」
「その上で白龍をここに同席させるということは、そういうことである、と認識しますが」
「構いません。彼には、かねてより全てを話しています。今回の事も、お兄様方に打ち明ける機会として……失礼ながら、その間この件が要らぬところまで漏れぬよう、本国での警戒に協力してもらいました」
「ああ……なるほど、やはりあれは監視でしたか」
どうやら紅明には思い当たる節があるらしい。入室時に白龍を見てすぐに何かに納得した様子でいたのは、ナマエが不在の間に『監視されている』という気配を感じていたためなのかもしれない。
白龍も白龍で気づかれていたのを理解していた様子で「必要措置とはいえ、不快な思いをさせました。申し訳ありません」とあっさりとした謝罪で対応している。あくまで本国に滞在していた白龍の目的はナマエの『夢』の問題が広まらぬよう努めることであったので、監視行為が気づかれようが気づかれまいが、牽制にさえなればいいという臨み方であったのかもしれない。
「紅玉」
「は、はい!」
相変わらず微妙な殺伐感があるような……と、紅明と白龍のやり取りを眺めていたナマエは、突然自分を呼んだ紅炎の声にびくりと肩を揺らしてそちらに向き直った。
彼が一言発するだけで一瞬にして空気の重みが変わった気がする。もとより姿勢を崩していたわけでもないのに、改めて姿勢を正す必要性さえ感じている。
「よく戻った」
まずは短く、それだけ。余計な言葉がないところにはシンドバッドとはタイプの違うかっこよさを感じる。どちらが好みかと聞かれると……楽な気分でそばに立てる人でないという共通項があるもので、結局はどちらも微妙なところだ。しかし身内という安心感が加算された結果、紅炎に軍配が上がるのは必然だろう。
だがその安心感をもってしても、状況が状況なだけに肩の力は抜けなかった。ナマエはすぐさま「ありがとうございます」と礼を返すものの、その動作は傍目にはぎこちなく映ったかもしれない。だが紅炎はやはり変わらない表情のまま、まっすぐにこちらを見つめて話を続けていく。
「紅明から話は聞いた。確認したいことは山ほどあるが、まずは紅玉、お前からの話を聞こう」
「はい。……あの、でも……何から……申し上げていいものか」
こういう時、ついうっかり助けを求めて白龍に目をやってしまう。義弟である彼の方が年下だというのに、何かと頼りたがる癖を何とかしなければ。とはいえ白龍が毎度優しく対応してくれるのにも責任があると思うんだけどどうでしょうね。今回もナマエの視線に気づくなり、対紅明のいくらか冷めた表情を和らげ、大丈夫ですよという視線を返してくれる。
「紅炎殿、よろしければ俺から説明をしても構いませんか」
「構わん。話しやすいようにしろ」
「では義姉上、何かあればその都度補足をお願いします」
優しい視線に飽きたらず、説明を代行してくれるこの甘やかしぶり。育て方を間違え……いや、育てていないしナマエにとって都合がいいことこの上ない状況で間違いもなにもないんだけど、こうも甘やかされていいのかといういたたまれなさもまた。しかしここで白龍の申し出に頷いてしまうのが義姉上である。甘やかされると甘えずにいられない。
「結論から申し上げますが、義姉上は数年先までの出来事、その要所要所を夢に見ておられます。……俺がこの話を打ち明けて頂いたのは、紅徳陛下が即位なされて間もない頃です」
白龍は堂々たる態度で紅炎と向き合い、もったいぶることなく重大な事実からどかんと投下してみせた。
「当初は義姉上もただの悪夢と思っていらしたようですが、ヴィネアの攻略が実現したことにより、夢に見たのが『先に起こる出来事』に間違いないと確信されました。今回は義兄上様方にこの事実を打ち明けるにあたって、先に『証明』をするという形を取らせて頂きました」
「証明のための手段であったとはいえ、紅明兄様の助言をいただきたかったのは事実です!お陰でバルバッドの一件では失策を打たずに済んだのだと理解しております」
どうしたらいいですか、と助言を乞いに向かったあれが演技であったと思われてはたまったものではない。あの場で『夢』として先の出来事を打ち明けることが布石であったにしても、どういった対応が正しいのかがわからなかったというのは紛れも無い事実だ。
白龍の淡々とした説明に慌ててその補足を付け加えれば、紅明は穏やかな表情で「何も責めるつもりはありませんよ」と柔らかな笑みを浮かべた。相手を安心させるのがうまいお人である。
「義姉上は、数年後に煌帝国が迎える重大な危機を予知しておられます。それらを防ぐために、この情報を紅炎殿、紅明殿、紅覇殿には公開して協力をあおぐべきだと……、……」
「……白龍?」
「……義姉上、申し訳ありません。俺はやはり、どうしても……」
突如何かを言いよどんだ白龍は、キッと睨み付ける勢いで紅炎を見やる。え、何が起こるのとナマエが戸惑ったのは言うまでもない。白龍は低く静かな声で告げた。
「練玉艶に仇なす勇気がないのであれば、あなた方はここから先を聞くべきではない」
おっとお。白龍の中にある紅兄弟への不信感は簡単には拭われないらしい。確かに、話すだけ話して協力が得られないというのは好ましくない流れだろうが、そうであってもナマエが話した内容が玉艶にまでいくことはないだろう。煌帝国の未来を彼らに話してしまうこと自体にさほど損害はないと思うのだけれど。
しかしこの挑発的な物言いがこの場にどう作用するかまではわからない。沈黙にものすごくハラハラする。ナマエは白龍、紅炎、紅明に忙しなく視線を滑らせながら、ここで沈黙を破るべきは自分なのかと戸惑いに戸惑う。
「……確認するが、『煌帝国の迎える危機』というのは、練玉艶がもたらすものに間違いないのか」
「あなた方があくまで静観を貫くのであれば、結果としてたらすのは俺とも言えるかもしれませんね」
えええ、そんな挑発しちゃっていいの?それいいの?白龍の身が危なくない?
あわあわと白龍の表情を窺うが、白龍は紅炎とにらめっこの最中であるので、その視線がこちらに応えてくれることはない。だがその代わりというように、机の下で強く手を握られた。緊張で力のこもっていたナマエの拳に重なった手は言外に黙れと言っ……義姉上のご心配は理解しています、と言っているのだろうか。
この挑発には何の意味があるのか。戸惑いを一ミリも隠せないながらにナマエは必死に考えた。原作白龍にとってみれば紅炎は成し遂げる力があるにも関わらず玉艶を打ち倒さなかった臆病者であるからして……やっぱり純粋に紅炎の度胸を試したいのかな。
両者の睨み合いはなおも続く。実際は睨むというほどの眼力をぶつけ合っていたわけではないのかもしれないが、一触即発の雰囲気にはそういった印象を受けざるをえない。
やっぱりここはフォローを入れるべきだ。お兄様、白龍ちゃんは決して煌帝国にあだなそうというわけではないのです。これは彼が一人で立ち向かおうとした結果の話であって。よしひとまずはこれでいこう。ナマエは脳内でとっさのシミュレーションを繰り広げ、いざフォローに向かおうと息まいたのだが。
「話せ」
紅炎はただただ簡潔に、そう言って白龍の挑発を一蹴した。
「……答えになっていませんよ、紅炎殿。俺は、」
「回りくどいのは好かん。率直に言え、白龍。要するにお前は何が知りたい?」
ん?これはどいう流れだろうか。ナマエははたと瞬いて、白龍と紅炎を交互に見やる。何が知りたいって、だから練玉艶と敵対する覚悟を問うているのでは。ぽかんとしながらそう首を傾げるナマエの傍ら、てっきり白龍もそう聞いているだろうがと言わんばかりの不快感に眉をひそめているかと思いきや。
「ですから、俺はあの女に対抗する勇気を持ち合わせていらっしゃるのかと聞いているんです」
口ではナマエが思った通りを述べている。けれどもそう返した白龍は、不快感に眉を寄せるでもなく、怪訝そうに目を細めるでもなく、ただ冷たい無表情で紅炎に対抗していた。もちろんそこだけを見れば冷静だなこの子、で終わって何ら疑問に思うこともなかっただろう。しかし机の下で手を握られた状態で、白龍の手があたかも図星を突かれたかのようにぴくりと震えたことに気づかないわけがなかった。
「そんなものはその場限りの『応』でいくらでも誤魔化される。無意味な問いであることくらいわかっているはずだ。そもそもが、紅明を通じて布石を敷いた時点で情報を開示することは確定事項であっただろう」
「……」
「白瑛か。……いや、紅玉か?」
えっ。何だろう、主語と述語をきっちり用いて中身を省かずにお話ししてほしい。突如自分の名前をぶち込まれたにも関わらず理解が追いつかない。紅炎と白龍、および当然のごとく紅明にも理解されているらしいこの会話内容は、残念ながらナマエの頭では処理が及ばぬ範囲にある。お姉ちゃんなのに。白龍よりお姉ちゃんなのに。
「どう思う、紅明」
「夢の内容に危惧すべき事項があるのかもしれませんね。先ほどの挑発は『煌帝国を滅ぼしかねない』要因に『白龍』という名があることへの兄王様の反応を窺ってのものかと思いましたが」
「だろうな」
「危険因子となりうる要素への処遇……と言っても、白龍は己の処遇に怯える程度の輩でもないでしょう。となると、あくまで一例として己の名を差し出しただけと推測できますし、そうとなれば兄王様がお考えの通り、白瑛殿か……予想外に親密でいるようですから、紅玉が『危険因子』である可能性も高いですね。とはいえ、こうして情報の開示にまで持ち込んだということは、どう転んでも排除するしかない危険因子というほどではないのだと思います」
「ならば答えは一つだな。白龍、俺は不必要に兄弟間で争うつもりはない。これがお前の『問い』への回答になる」
完全に置いてけぼりをくらいながらも、頭だけは追いつこうと必死に上の兄たちの会話に聞き入った結果、ナマエはようやっと彼らの言いたいことを察することができた。
ようするに、白龍は白瑛およびナマエの処遇を気にして先ほどのような挑発行為に至ったのだと。ナマエに関して言えば、原作知識を予知夢もどきとして披露するにあたって、その中に含まれる……おそらくはシンドバッド王のお人形と化す可能性のあたりを気にしてくれたというわけだ。そういった存在に紅炎がどのような態度に出るのかを、煌帝国を滅ぼしかねない自分、という例題でもって検証に乗り出したと。
姉思い過ぎる。義理にも関わらずこの優しさ。こうも必死に思ってくれるにも関わらず実の姉に手をふりほどかれる原作の白龍が可哀想で胸が痛い。どれもこれも、後少し何かがかみ合っていれば手に手を取り合って上手くいっていたのでは、と思うからこそ余計にだ。
だがそんな悲劇の煌帝国をどうにか回避するために今のこの場があるのだ。
ナマエは己の右手に重なっていた白龍の左手の上へ、さらに己の左手を重ねた。ここまで義弟に思われて守られて、こちらがお義姉さんらしいことしないなんて不公平というやつだ。
「白龍ちゃん、心配してくれてありがとう」
「義姉上」
「大丈夫よ。……紅炎兄様、紅明兄様。先程の白龍の発言は『独りで戦い抜こうとした白龍』と私たちのすれ違いが起こす可能性のある悲劇お話です。仮にお兄様方が白龍と同じ方向を見据えることがないとしても、私は白龍を独りにさせるつもりはありません。ですから、『煌帝国を滅ぼす一因となりうる白龍』はもはや存在しませんことを、どうかご理解くださいませ」
決して睨みつけるなんて芸当ができるわけではないけれど、それでもそれなりに意志を持って視線を交わらせたつもりだ。紅炎とまっすぐに目を合わせるというだけで結構な重労働であるのだから、強い気持ちでなければ十秒以上目を見て発言など叶わない。とはいえこれも、一対一、もしくは一対二という威圧感に満ちた空間でないがゆえの記録であるので、いつか一対一でも十秒……いや五秒でもいいので緊張感無く目を合わせられるようになりたい所存。
そんなナマエとは当然似ても似つかぬ堂々たる態度の長男殿は、ふと目を細めるとどうということもない様子で「お前と白龍という組み合わせを物珍しくも思っていたが」と片肘をついた。
「存外そう不思議な組み合わせでもなかったな。なるほど、先走りやすいところがよく似ている」
お褒めいただいているのかお貶しになっているのかさっぱりな感想を頂いてしまった。ナマエはぽかんと口を開いた後、あわてて口を閉じて視線を泳がせる。今、一瞬緊張無しで紅炎の目を見ることができた。二秒……いや、三秒くらいは、たぶん。そうして見当違いなことを思ってしばらくすると、血の繋がりを実感したとでも言うような内容に、遅れて照れがやって来るのだからたまったものじゃない。緊張で胃が痛みそうになるかと思えば今度は照れで目のやり場に困る。この数分間、心臓が忙しい。兄王様は妹の心を揺さぶるのがお上手でいらっしゃる!


*