ムード・インディゴ


沖田姉弟のデート。


 その日沖田はまだ日が登らぬうちに、布団から出て洗面台に立った。冷たい水で顔を洗って、申し訳程度に髪に櫛を通して、普段気にもとめない対面の鏡を覗き込む。一昨日カミソリをあてたから、髭はまだ伸びていないが一応剃っておこうか。これもまた櫛と同じく申し訳程度に。刃物の扱いは得意である。
 沖田は軽い足取りで自室に戻って、薄い夏布団を畳んだ。ここのところ晴れているから、外出中に誰かしらが干してくれるだろうと期待して押し入れにしまうのはやめた。箪笥の手前から出した半襦袢に袖を通し、少し迷って白の長着と浅葱の袴を選んだ。以前ミツバに「そーちゃんは淡い色が似合うわね」と言われたので間違いないだろう。
 鼻歌まじりに帯を締めて袴を履き、意識するまでもなく帯刀する。この左側の重さにもとうに慣れた。
 待ち合わせまでには随分時間があるのに、もう準備が整ってしまった。今日は非番で、デートである。

「そーちゃん、お待たせ」
「いえ、僕も今来たところです!」
 待ち合わせの一時間前に着く予定が二時間前に着いてしまったが、満天の笑顔で大嘘を吐いた。
 ミツバは薄桃地に萩と菊の袷と、銀の帯を合わせており、やはり姉も自分と同じく淡い色が良く似合う。日の光が自分と揃いの亜麻色の髪を煌めかせて、純粋に綺麗だと思った。沖田には物の美醜がわからないが、唯一この人だけはずっと変わらず美しい。
「このあたりはまだ詳しくないのだけど……」
「エスコートしまさァ」
「まあ、頼もしいわ」
 今日は嫁入り道具を買おうと誘って、姉を連れ出したのだった。もうそんな風習も気にされなくなっているし、相手もうちの事情はわかっていると言っても、両親のものはほとんど売ってしまって、さすがに身一つでは申し訳が立たない。というのは建前で、贅沢も知らず自分を育てて来た姉に何かを返したいだけだった。沖田にとっては、姉をやるのだからお前の全てをよこせと、夫になる男に切先を向けてやりたいくらいである。
 目的の呉服屋は歩いて五分ほどのところで、開拓された街並みの中で目を引く、いかにも老舗の店構えであった。暖簾をくぐれば、沖田の帯刀を認めてか、奥から番頭らしき男が出て来て、慇懃に挨拶をした。
「嫁入り道具を見に来たんですが」
「それはおめでとうございます」
「どう言ったのが主流なりますかねェ」
「昔は箪笥いっぱいに作られる方もいらっしゃいましたけど、最近はどうも……お嫁入り道具なら、訪問着一式をお作りになる方が多いですかね」
「箪笥いっぱいか。そりゃいいや」
「そーちゃん、ダメよ。そんなにたくさん着られないわ。当馬さんからいただいた着物もあるもの」
「でも姉上、一生に一度のことですよ」
「そーちゃんのお金はそーちゃんのために使ってちょうだい」
「ま、ま、良ければ奥へ。本日仕入れた正絹もありますので……」

 沖田としては、箪笥いっぱいの着物をあつらえることもやぶさかではなかったのだが、ミツバに押し切られて訪問着一式だけ作ることになった。式は少し先だから、それまでには間に合うはずだが。
 並べられた反物はどれも豪華で、姉と言ったら全部が似合ってしまうものだから、沖田は壊れた蓄音機のように、似合いまさァ、素敵でさァ、を繰り返して、参考にならないじゃない、と嗜められた。
 店を出てミツバと二人、大通りを歩いて行けば、よく磨かれたショーウィンドウのガラスに、若干痩けた自分が映っている。今日のことを考えて昨日はあまり寝られなかった。寝不足なのはそれだけが理由ではないけれど。
「ねえ、そーちゃん。疲れてるんじゃない?今日じゃなくても良かったのよ。忙しいでしょうに」
「いえ、これからが少し忙しくなりそうですし、それに……」
 沖田は続く言葉を飲み込んだ。
「それに、嫁ぐ前に姉上を独り占めしたくて」
 半分、本当。半分は嘘だ。姉は嫁ぐ間もなく、誰のものにもならないままに、恐らく。

『もう長くはないでしょう』
 医師は沈痛な面持ちでそう告げた。そりゃあそうだ。まだ年若い、嫁入り直前の女の寿命を、成人もしない弟に告げるなんてこと、普通の感性の持ち主なら心を痛めて然るべきであろう。沖田にとって死は唐突なもので、自らが明日死ぬ覚悟も、対面した人間を斬り殺すのも、味方を目の前で失うことも、常に身近にあったから、近いうちに姉が死ぬという無責任な予言は、親切なようでもあり、残酷なようでもあった。
 医師はミツバの病状やら、今後の治療法やらを、沈痛な面持ちのまま小難しく語っていたが、どう足掻いても死から逃れることはできないらしい。かろうじて、延命はしなくていいとだけ伝えた。いつだか姉が溢した、聞かなかったふりをした選択だった。
 木偶の棒のようにぼんやりと会議室を出て、これが絶望というものか、と今の心境を咀嚼する。横を看護師に介助されながら通り過ぎた老人を見て、このヨボヨボの爺さんより姉上は先に死ぬのだろうかと不謹慎なことを思った。
 その夜こっそり義兄になるはずであった男を呼び出して事の顛末を告げれば、目の前の男は医師と同じような沈痛な面持ちで、膝の上で拳を握りしめていた。
『姉上には言わないつもりなんですが』
『ああ、総悟くんが決めたのなら。……付き添えなくてすまない』
 転海屋の商売が法に触れていることを、沖田は知っている。この男が仕入れた武器で何人死ぬか知れないのに、一人の女が死ぬことに心を痛めている様子はちぐはぐである。そのちぐはぐさは自分も同じであった。
『体調が落ち着いたらですが、外出も可能な限り対応してくれるらしいでさァ』
『私は遠慮しておこう。姉弟水入らずで遊んでおいで』
 真っ直ぐにこちらを見てそう言う男は、沖田よりよっぽど善人なのだろう。

「姉上こそ、普段外に出ないから疲れたでしょう。ちょうど近くに喫茶店がありますから休憩しましょう」
 リサーチした店はなかなか良かった。アンティークの調度品は古いながらもよく磨かれていて、店内はジャズピアノがうるさくない音量で流れていた。店主がこだわる性なのだろう。
 通された席はなかなか広い。ビロードのソファに腰を落ち着けて、古びた重たい品書きを姉に向けて開いた。
「まあ、ケーキがあるのね。美味しそう」
「頼みますか」
「どうしようかしら。こんなにあると迷っちゃうわ」
 はしゃぐようにページを捲る手がやたら細いのは見て見ぬフリをして、よく冷えたおしぼりを弄ぶうち、そーちゃんは何にする?と品書きを渡されたので、オレンジジュース、とつぶやいた。沖田が店員を呼んで、ミツバが注文したのはオレンジジュースと温かい紅茶だけだった。
 空いていたためか注文した品はすぐに運ばれて来て、ミツバの前にオレンジジュースが、沖田の前に紅茶が置かれたのを、黙って交換した。細やかな装飾の施された茶器の横で、小さな砂時計の砂が下に向かって溢れていく。この時間の終わりを知らせるようなそれを、忌々しく眺めながら飲んだジュースが、ベタベタと舌に甘く残った。
 今が永遠に続けば良いのに。姉と二人で、この広い席で、食べたいだけのケーキを食べさせてやりたい。ずっと自分と一緒にいて、楽しいだけの話をすればいい。大商人だろうが大悪党だろうが、石油王が来たって姉を渡してなんかやりたくない。神様なんて以ての外だ。それでも緩やかに死にゆく姉へ、せめてもの黄泉の手向けにと、かりそめでも幸せを恵みたかった。
「そーちゃんとのデート、とっても楽しいわ」
「蔵場さんには悪いですけどね」
 毒のない笑顔を向けながら、沖田は心中で鬱憤を募らせる。
 なんでお前じゃなかったんだ、クソ土方。
 そう思ってしまうことすらも癪だった。まったくすべてがカンに触る男だ。
 今ここにいる自分、どう言う経緯で姉を手にしたのかわからない当て馬、そして近いうちに天に召されてしまう姉、全てのままならない怒りを土方に向けているうちに、上品にカップに口をつける姉の姿がぐんにゃり歪む。娘時代の桃色の着物はまだ残っているのだろうか。あれは姉の肌によく映えていて好きだった。今纏っている着物もよく似合っているが、いかんせん白すぎて、消えないでくれと願いたくなる。
 沖田はミツバのカップが空になったのを認めて、氷で薄まったオレンジジュースを飲み干した。厠に立つと見せかけて会計を済ませ、帰りましょうか、と白魚の手を取って連れ立つ。
 柔らかに見えるこの手が炊事で荒れがちなのを、いけすかないあの男は知らないままだ。

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タイトルは同名の映画から。アンチロマン小説を元にしたフランス映画です。
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