能動的な感情


乾貞治夢小説。
※大学生設定・ネームレス


 時刻は午前5時30分。
 ストレッチは念入りに。怪我をすればテニスができなくなる。体力作りはテニスのためである。小雨が降っているが、足元に気を付ければ問題ない。台風の日は流石に危険なので諦めるが、中学時代はどんな暴風でも鈍るのが嫌で、ランニングは毎日欠かさなかった。自分に休息の重要さを説いたのは目の前でアキレス腱を伸ばしている先輩で、闇雲すぎるきらいのある海堂にとっては、逆に理詰めすぎるきらいのある男のアドバイスが有り難かった。思春期から始まった縁は、青年期に差し掛かった今も、緩やかに続いている。
「どうしたんスか、急に」
 早朝ランニングは海堂一人の日課であった。乾に誘われて走ることもあるが、院試に向けた勉強の合間らしく、夜が多かった。
「いつも海堂に付き合わせてたから、たまには。良ければ打って帰ろうかと思ったんだが、生憎の雨だな」
「院試は終わったんスか」
「ああ。4月からさっそく研究室に缶詰めだよ」
 肩を押さえて首を回しながら乾は言う。ストレッチに組み込まれていないそれはただの癖で、本人は気づいていないらしい。中学からの見慣れた動きだが、違うのは、ファッションなんぞに興味のない乾の中指に、無骨な指輪が付いていることだった。いつからかは知らない。詮索する気も特にない。
「あと、ちょっと早起きする用事ができて。さ、行こうか。いつものところで休憩で良いかな」

 "いつものところ"は、今時珍しい屋根付きの自動販売機で、雨天でも休憩に丁度いい。そこで二人はきっかり10分、水分補給も兼ねて休息を取る。海堂も乾も雑談は苦手なタチだから、各々勝手に過ごして、乾がきっかり10分に声をかけて走り出すのがパターン化されていた。
「さすがに蒸すな……ちょっと失礼」
 青いビニールの屋根の下の、少し離れたところで、乾はスマホを取り出して操作し、耳に当てた。
「……もしもし、おはよう。……起きた?まず布団から出て、顔洗って、電話繋いでおくから。電話切ったらお前寝るだろう。……うん。……うん、わかった。寝ちゃダメだよ」
 電話を切った乾はポケットにスマホを入れると、防水ケースに包まれたアップルウォッチを確認して、行こうか、と言った。休憩時間はきっかり10分だった。
 乾は常から荒い言葉を使う方ではないが、気持ちいつもより優しめの言葉遣いで電話をしていた相手は、恐らく彼女だろう。
「早起きする用事って」
「ああ、彼女の目覚まし」
 自ら話を振ってしまったところで、若干気まずさを感じた。
「……先輩って案外面倒見良いっスよね」
 何を返せば良いのか分からずに、そう絞り出す。こう言った話は苦手だ。乾も海堂も、対外的にパートナーの存在をアピールするタイプではないから、今まで触れることもなかった。

 高等部から青学に入ったという乾の彼女とは、ほとんど関わったことがない。覚えているのは唯一、全校一斉に行われる高等部の体育測定である。半ば強制で運動部に記録担当が割り振られ、テニス部はハンドボール投げで、桃城とペアだった。
 肩の入れ方も知らないような女子投げで8メートルを叩き出したその人は、落ち込みも喜びもせず、淡々とカード返却の列に並んでいた。
 その人が目の前に来たとき、桃城が何かに気づいた顔をして、「8」を消して「20」に書き換えた。
「オイ」
「はい、どーぞ。乾先輩によろしくっス」
 堂々たる不正を咎めるつもりであったのに、唐突に乾の名前が出たので驚いて、不躾にもまじまじと眺めた顔には苦笑いが浮かんでいた。
「ハンドボールだけ違和感あるなあ、シャトルランなんか18回なのに」
「えー!体力ねー!乾先輩100超えますよ。こいつは140」
「すごいね、テニス部。あ、海堂くんだよね。貞治くんからよく聞くよ」
「……ッス」
 置いてけぼりで進む会話に辛うじて返した挨拶は、愛想の悪い印象を与えただろうが性分だ。特に気にした様子もなく、手塚くんには内緒にするね、と、ボールペンで書かれた消しようのない20メートルを指で撫でていた。

 海堂は、テニスを通してしか乾を知らない。運動が苦手らしいあの人と、乾がどんな話をするのか想像もつかなかった。
「就活始まってるだろ。何か手伝えたら良かったんだが」
「いえ、充分っス」
 そう言えば、対策本をお下がりでもらったが、乾は就活をしていないのだから、あれは彼女のものだったのかもしれない。
「本、ありがとうございました」
「いや、俺は渡しただけだから」
「彼女さんのっスか」
「ああ。俺が使っても良かったんだが、二年後には新訂版が出てそうだし」
「先に社会人になるんスね」
「全国転勤アリのとこ。いわゆる配属ガチャ」
 聞いてもいないことを開示した乾の真意は読めない。
「彼女は割に淡白だから」
 だからこう言う話は苦手なのだ。答えの出ないことを、ましてや二人だけの問題に、自分が何を言えばいいのか。
「……んな難しく考えなくても、連絡取って、会いに行けば。それじゃダメなんですか」
 彼女の性質だとか、乾の性格だとか、距離だとか時間だとか、もちろん、重要ではあるけど。続けることを諦めてしまえば本当の終わりではないだろうか。海堂には、乾の求める答えがわからないが、恐らくただ零した弱音のようなもので、何を期待しているわけでもないのだろう。だとしたら随分、余裕がない。乾らしくもない。
「……うん、そうだな。確かにそうだ」
 乾は咀嚼するように首を傾げたあと、最適解を得たと言うように頷いて、ほんの少しペースを上げた。海堂もそれを追った。いつの間にか雨が上がって、遠くの雲が朝日で仄かに発光していた。

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海堂から見た乾と彼女が書きたかった。
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