不可逆の道


六角事件直後の土沖
※嘔吐表現


 過呼吸気味に呼吸が引きつっている。人間だったものの山に囲まれて吸った息は鉄の匂いを多く孕んでいるが、あいにく鼻は馬鹿になっていた。俺は力の入らなくなった膝に舌打ちをして、刀を杖にしてなんとか自立している。
 人間の脳は普段10%しか使われていないそうだが、俺は残りの90%を解放する方法を知っている。理性を飛ばして人を斬ったあと、押し寄せる嫌悪と後悔、そして脳みそがキャパを超え身体を酷使したツケ。依然息は整わず、霞みがかった頭がどんどん酸素を欲するので余計に苦しくなる。ついに膝が折れて、俺は神山が(または俺が)殺した六角屋の目の前に倒れこんだ。六角屋の恐怖に見開かれた目はもう何も映さないはずなのに、きっと俺を責めている。
 人間というのは取り繕う生き物である。死や、悪や、ドロドロした汚いもの、怖いもの、全部目を背けて、綺麗なものでコーティングして、健やかに生きることができる。だと言うのに、最後にこの男の目が見たのは、生きるか死ぬかの瀬戸際でがむしゃらに刀を振るった人間の根底だった。

(そんなもん、あんたは見なくてよかったのになァ)

 光を宿さない瞳に語りかける。陸に上げられた魚のような俺の下敷きになっている事切れた部下も、家族を人質に取られたこの男も、俺がもうちょっと強けりゃ生きてたかもしれない。生かしてやることはできなくてもせめて、綺麗なものだけ見て目を閉じて、死なせてやることくらいできたかも。いくら考えてももしもはもしもで、死んだ人間が生き返ることがないのは世の中の摂理である。
 黄色い砂嵐が脳奥を吹き、耳鳴りが煩かった。こめかみとうなじが膨張するような感覚、脈動に合わせた頭痛。
くそ、めんどくせえ。
 その場に響くのは唯一生きている俺の必死な呼吸音だけ。これだけの人数を殺して、俺は生きるために酸素を取り込みもがく。

「沖田隊長!」

 情けない声が飛び込んできて、俺はごろりと転がされた。
大丈夫ですか、どこか怪我したんですか。泣きそうな顔で俺の服を脱がし怪我の有無を確かめようとする山崎。この修羅場で俺は怪我1つしていなかった。笑っちまうだろ。鼻を鳴らそうとしたが、ひく、と肺が引きつっただけだ。
 山崎は俺の健康を確認するといくらか落ち着きを取り戻し、ただの過呼吸です、大丈夫、と袋を口に当ててきた。袋の中にこもる自分の呼吸音だけに集中すると、ようやくまともな息の仕方を思い出す。
 汗と血で張り付いた前髪を払ったとき、自分の手が震えていることにはじめて気づいた。

「立てますか」
「立てる」

 吐き気を堪えてそう言って、気力だけで立ち上がる。貸されたほとんど同じ高さの肩に寄りかかって、どうにか歩みを進めたが、もう意識を飛ばしてしまいたかった。

「いいですよ、寝てください」

 その一言になんだか安心してしまって、俺は足に力を入れるのをやめた。ガクンと落ちたのは意識なのか身体なのか知らないが、だれかもう1人に正面から支えられたような気がする。



 乾いた目があった。追いかけてくるでもない、襲ってくるでもないそれは、ただ静かにそこにいて、じっと俺を見ていた。おれはその目に自分の罪を暴かれるような気がしたので斬った。手応えはなく、目はやっぱりそこにいて、じっとおれを見ていた。
 都合の悪いものは斬ってしまえばいいのだが、斬れないものに対抗する術を知らない。斬れない相手におれはどこまでも無力で、そもそも斬って解決することが酷く虚しいように思える。おれのそんな自己嫌悪すらその目は暴くようで、どうにも居心地が悪くなり、刀を捨てて逃げた。遠ざかる目はやっぱりそこにいておれを見ている。逃げても無駄だと知っていたが、追いかけてすら来ないものからひたすらに逃げて、逃げて逃げて逃げて逃げて

「総悟」

 びくんと身体が跳ねて意識が覚醒した。車の固いシートに寝かされて、土方を見上げている。

「ひじかたさん」
「魘されてたぞ」

 俺は肩で息をしていた。癖になってしまったのか、また過呼吸を起こしかけているのを自覚する。おえ、と喉が引きつって息を詰める。
 労わるように背中に置かれた手から悪寒が走り、ぐうっと喉を鳴らして口を押さえた。

「吐く、」
「山崎、車停めろ」
「はいよ」

 ドアを開けた車から身を乗り出し、土方にみぞおちと頭を固定されながら口を開けた。異常に出てくる唾がたらたらとアスファルトに垂れた。もやもやした胃の上のあたりがギリギリと痛み、力の入った腹筋が底を持ち上げた。

「おえっ、ぇっ」

 喉奥から舌が押され、意思に反する声とともに突き出される。透明なよだれの上にバシャバシャと落ちた胃の中のものはあまり消化されていないようだった。
 土方の硬い手が下から上に腹を摩り、息をする暇もなくまたこみ上げた。
 ごぽごぽと胃が鳴って、ポンプのように溢れる未消化のものを吐き出す。嘔吐物の上にぼたぼた重なる嘔吐物は粘ついて喉に絡まり、呼吸を妨げた。
 苦しくなって土方の手を掴むと力強く返って来る。
 胃液まで吐き切った時、俺は自分が空っぽの人形になった気がして、憔悴した身体を土方に寄せて眠った。



 返り血を浴びた怪我ひとつない修羅は、青っ白い顔で点滴を受けている。熱が高いのだ。

「簡単に言えばオーバーワークです。本来動けるキャパを超えて無理に身体を働かせてしまったんですね」

 医師は俺たちに懐疑的な目を向けていた。当たり前だ。本来なら16歳には当たり前に青春を謳歌する権利がある。世の中の16歳が好きな音楽の話をし、背伸びした堅い本を読み、すれ違ったいい女に口笛を吹く頃、総悟はいつ崩れるともわからない正義のために刀を振るっている。とても健全とは言い難い。
 こいつを修羅にさせるのは太陽のような男で、俺たちは九つも歳が離れていながらその人のために働く共犯関係であった。が、しかし。

(こいつはよかったのか)

 まだ幼い顔の熱い額を撫でた時、総悟が薄く目を開いた。

「起きたか」

 寝ぼけているかもしれないと思いつつ声をかけると、総悟は掠れた声で近藤さんは?と聞いた。珍しいことだと思った。総悟は体調が悪い時、近藤に心配をかけるのを嫌がるからだ。彼が今頃追われているであろう事件の処理を俺が代わって、病院に呼んでやろうかと思案していると今度は、姉上は?と聞いたので、俺はようやく、総悟の記憶が混同していることに思い至った。
 冷水を背中に浴びせられたような感覚に、気の利いた誤魔化しも出来ず固まって、額に置いた掌がただ熱を吸い取っている。
 その時初めて、俺は武州から江戸に総悟を連れてきたことを猛烈に後悔した。その突き上げた感情は掌から伝わってしまったのかもしれない。総悟はとろんとしていた目を怒りに見開き、ガバリと起き上がった。

「あんたが、」

 憎しみや怒りや悲しみや悔しさや、この世の全ての負の感情を混ぜたような声を絞り出し、俺の胸ぐらを掴む。

「俺がしてない後悔をあんたがするんじゃねえ」

 総悟の目は怒りに燃え、熱で潤んでいた。その瞳に赤く燃える炎が溢れてしまうのを恐れたが、こいつは昔から泣かない子どもであったと思い直し妙に安心する。

「土方さん俺はね、見張られてるんでさァ。今さら人斬り辞めますなんて、今までおれが斬った奴らはどうなるって話です、もう2年前に全部決まってたんですよ」

 興奮気味にそうまくし立てた総悟は、何かを確認するように空を見ると、飽和した熱に意識を持っていかれて後ろにばたりと倒れた。

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性癖に正直に書きました。暗いな〜。
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