檸檬


引用から始まり引用に終わる柳蓮二の話。
引用元:梶井基次郎『梶井基次郎全集』筑摩書房

 今、空は悲しいまで晴れてゐた。ここは城のある町ではないが、彼の見た空は今日のような暑天であろうか。柳蓮二は未だ空に悲しいという感想を抱いたことがない。しかし、雲ひとつない空を見上げ、テニスコートを支配する閉塞感を一時忘れることは、ただの現実逃避に他ならず、空を見上げる間だけは閉塞感が占めていたところにぽっかり穴が開くようで、なるほど、彼もこれを悲しいと言ったのかもしれない。
 柳は賢い男であった。そのため、ここがいかに狂っているかを理解していた。狂い出したのは、幸村が倒れたせいではなかった。もともと狂っていた本尊の容れ物に、神の子幸村という、うってつけの選手が現れてしまったことが原因であった。神の子は「常勝立海」という抽象的概念の具体化に過ぎず、皆、ただの中学生である幸村に勝利の夢を見ている。
 青い光を吸収した瞳がチカチカと点滅し始めたので、柳はゆっくりと目を閉じて下を向く。開いたノートは書きかけのまま、今は残照で眩んでいた。『切原赤也』。そのページは彼のために割かれた区画である。入学当初から一際目立つ部員であったが、その成長ぶりには目を見張るものがある。切原に赤目化が見られた時から、柳は専用のノートを作り、観察することにしている。切原は、次期立海を背負う、新しい容れ物であった。

「蓮二!コートに入れ」

 コートの対岸から檄が飛ぶ。仁王立ちした真田は山のようにどっしりと構えていたが、陽炎でゆらゆらと揺れて見えた。
 少し呆けていたようだ。対戦相手だったジャッカルにすまない、と声をかけ、ノートとラケットを持ち替えて空いたコートに入る。
 
「よろしく頼む」
「ああ、お手柔らかに」
「冗談だろう」

 軽口と共に握手を交わし、ジャッカルのサーブから始まった試合は、柳の方が常に一歩、二歩、リードしていた。持久戦に持ち込まれれば厳しいかもしれないが、決着は近いうちに着きそうである。お互い、この試合を落としたとしても、レギュラー入りはほぼ確実であった。それはそれとして、両者とも負ける気はない。しかし、常の柳ならばとうに勝ち越していただろうに、今日はやけにラリーを長引かせる。時折、ボールに妙な回転をかけては、手首を確認し考え込んでいるようだった。
 長引かせるといっても、点差はじわじわと開き、5-3で柳のマッチポイントとなっていた。後がないジャッカルの渾身のスマッシュが、ライン際で跳ね、決まるかと思えた。が、コースを読まれていた。すでにボールの行く先に立っていた柳の、ラケットの面が捉えた黄色い球は、反作用で形を変えながらジャッカルのコートに落ちる。そしてそれはバウンドせず、コロコロと転がり、ジャッカルのつま先に当たった。
 その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと球形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。
 柳生の「ほう」という感嘆と、仁王の茶化すような口笛が、静寂を打ち破る。いつの間にか皆試合を終えて、この試合を遠巻きに観覧していたのだった。

「ウォンバイ柳!」

 真田の硬質な声が終わりを告げ、二人は再び握手を交わす。

「まあ、ギリギリ首は繋がったぜ」
「お前がレギュラー落ちするとダブルスが手薄になる。良かったよ」

 空蝉は完成した。柳は、親友に見せるびっくり箱を完成させた心地で、日の傾いた空を見上げる。
 さっきと同じ空が、執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる。それにしても心という奴は何という不可思議な奴だろう。
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テニスボールと檸檬は似ている。
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