▼ 運動会なんて、あるよ。(中編)
空に打ち上げられた信号雷が、運動会の始まりを告げる。
既に賑わっている運動場には子供たちは勿論、保護者の方々も集っていた。
赤、青、紫の三色の帽子を被った子供たちは、今日ばかりは期待を背負って緊張した面持ちである。
その中でも皆の緊張を和らげる為、声を張り上げている各組の応援団長が居た。
赤組の応援団団長の幸村君。猿飛さんが背中に虎の刺繍をした学ランを羽織っている。同じく虎が大好きな広綱君が、キラキラした目で幸村君の背中の虎を追っている。
青組の応援団長の政宗君は、猿飛さんに対抗したのか二匹の竜の刺繍を学ランに。お市ちゃんに可愛い蛇だと言われ、頬を膨らませて憤慨しているのが見えた。
紫組の応援団長の三成君は、よく分からない記号のようなものが刺繍してある。聞けば大一大万大吉といい、一人が万人の為、万人が一人の為に思慮し、行動すれば平和な世になるという意味が込められているそうだ。三銃士みたいですね、と返せば不機嫌になってしまったが。
……一昔前のヤンキーみたいだから、皆に真似して欲しくない意味でも好ましくないのだけれど。
見惚れてしまいそうなほど丁寧で細やかな刺繍を目の前に、断るのは心苦しく、結局了承してしまった。
園長先生や、他の先生方も、刺繍をお褒めになっている。
周りの奥様方から賞賛の視線を向けられていることに気づいているであろうお三方は、むずがゆそうに身体をよじらせた。
更に奥の方で前田君の彼女だというサヤカさんが見えた。
明るい栗色の髪の毛がふわりと揺れ、凛々しい目と真っ直ぐと伸ばされた背中が印象的な彼女は、かなりの美人さん。
前田君がデレデレになるのも頷ける。
と、入り口の方にもう一人飛びっきりの美人さんがいるのを見つけた。
サイドに垂らした長い金髪が煌き、これまた凛とした涼しげな瞳。
誰の関係者なんだろう。キョロキョロと辺りを見回して、誰かを探しているようだ。
自由奔放に動く子供達をなだめ、促しながら、その美人さんを目で追いかけていると、学ランを翻した政宗君、幸村君、三成君が揃って背中に突進してきた。
大きく身体が揺れ、前のめりになりながらも、なんとか持ち直す。
「ハニー! やっぱりオレの竜が一番クールだろ!」
「某の虎とて負けておりませぬ!」
「貴様らなど足元にも及ばん。紫乃、私を選べ」
「うーん、先生としては準備体操を始めたいから、自分の位置についてくれる良い子が好きだな」
よし。大分扱いが上手になったのではなかろうか。
これで準備体操が始められる。
歌のリズムに乗って身体を元気いっぱい動かす子供達を眺めながら、背中の痛みと格闘した。
遊戯を無事終え、キンキンに冷えたお茶で喉を潤す。
パタパタと手で仰ぎながら、首にかけたタオルで汗を拭いた。
丁度競技中だったため、人づてに聞いた話ではあるが、わんにゃーパラダンスの親御さんの熱狂ぶりは凄まじかったらしい。
黄色いテープを越えてはならないと説明したのが悪かったのか、黄色いテープを繋いだコーンをじりじりと前にずらしていたそうだ。
親馬鹿は常識を全力で投げ飛ばす癖があるから、本当に恐ろしい。
本当大変だったよ、と朗らかに笑う前田君に、お疲れ様と塩飴を渡した。
こんな熱い日は熱中症で倒れても可笑しくない。
一応子供たちの体調にも気を配るが、運動会と言う晴れの舞台は無理をする子供が多い。
ただ、兄が来ているからと、常時顔色が悪いお市ちゃんが、わんにゃーパラダンスを踊りきったときには驚いた。
途中、真っ黒い巨大な手がお市ちゃんを支えていたような気がするけど、うん、気のせいだろう。
そしてかけっこ。
空気抵抗を感じさせない走りを見せた三成君は、息切れしながらも一位のメダルを見せに来てくれた。
一つ学年下の年少さんがメッセージを書いてくれたメダルを誇らしげに首にかけている。
「頑張ったね。おめでとう」
「勿論だ。もっと褒めろ」
「ねぇ、先生。市も、頑張ったよ……? えらい?」
「うん、お市ちゃんも頑張っていたの先生見ていたよ。偉い偉い」
さらりと伸びた黒髪を撫でると、お市ちゃんは小さく目を細めた。
園児だというのに妖しげで朧げな雰囲気を持つお市ちゃんは、変な趣味を持った人に攫われないか心配になってしまう。
縋るように小さな手でエプロンを掴むお市ちゃんに、三成君が大きな声で怒鳴る。
「浮気するな! 私以外見るな! 裏切りを私は許可しない!」
「ふふ、必死ね……。貴方も、いい子いい子してもらいたいの?」
フラフラとお兄さんの方へ向かったお市ちゃんに喚き散らす三成君の頭を撫で、静かになってもらうも、政宗君と幸村君も騒ぎ出し、他の子供たちも同調する。
武田先生が機転を利かせ、タイガー●スクをつけて登場してくれたおかげで面倒は免れた。
しかし、次の競技を思い出し胃を痛める。
頬を伝う冷や汗を拭っていると、背後から声をかけられた。
軽やかな声に振り向けば、至極楽しそうな笑みを貼りつけた猿飛さんが金髪美人さんを横に立っていた。
「紫乃先生、顔色悪いぜー?」
「白々しい質問ありがとうございます猿飛さん。保護者対抗リレーに参加なさるのなら、並ぶのはあちらですよ。それと、お隣の美人さんはお知り合いですか」
「そーそー。俺様のイイ人」
「馬鹿は休み休み言え。こいつと同じ学科を専攻している唯それだけの知り合い、かすがです。初めまして」
「相変わらずつれないねぇ。昔からの仲じゃん」
「再会したのはつい最近だ。初対面だと言っても間違いは無い」
金髪美人さんの名はかすが、と言うそう。
凛とした彼女によく似合う良い名だ。
猿飛さんとかすがさんは仲睦まじいようで、所謂幼馴染ポジションというものだろう。
かすがさんも口では嫌っていても、内心は大して嫌ってはいないみたいだし。
あー、若いなぁ。青春だ。
仄々と眺めながら、クスクスと笑いを零す。
私にもこんな時代があったような無かったような。
「えーと、仲が宜しいんですね」
「もちろん!」「よくない!」
「あはは、羨ましい限りです。初めまして、かすがさん。佐々木紫乃と申します。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
無愛想で怖い子かと思いきや、ただの人見知りさんなのかもしれない。
僅かに眉尻を下げ、顔を少し赤らめた。
可愛らしい子だ。仄々とした気持ちで手を離した。
あくのはどうを出さんばかりの保護者方を見なければ、もっと長い時間仄々としていられたことだろう。
死の宣告を受けてしまったかのように、私の頭上でカウントダウンが始まりそうだ。
「なんだ、やっぱり猿飛も出やがるのか」
「ヒヒ、お手柔らかに頼むぞ。黒田ァ、負けるでないぞ」
「ああそうさ! 小生はいっつもこんなもんさ!! お前さん、そんな可哀想なものを見るような目で見るぐらいなら、ちっとはズルさせてくれてもいいんだぞ!」
「可哀想なものを見るような目だなんてそんなそんな。ただ、黒田君がいつから居たのか全然分からなくて戸惑ってるだけだから」
「初めからずっと居たっつーの、ちくしょー!」
「ごめんごめん。ほら、リレー始まるよ。皆様方も各自ご自分の旗の下に集ってくださいな」
大谷さんとかすがさんを残し、各自自分のお子さんの色の旗の下へ向かう。
寸前猿飛さんがサンバイザーを外し、かすがさんに預けた。腕まくりをして、本気を示唆する。
片倉さんは整えたはずの前髪が垂れ、目つきがいつも以上に悪くなっている。
いつも通りなのは黒田君ぐらいだ。他の保護者方は可哀想にお二方の気迫に縮こまっている。
楽しそうにしながらも、陰がある自分の席に帰っていく大谷さんを見送ると、かすがさんが遠慮がちに声をかけてきた。
「紫乃先生、ですよね」
「はい」
「あ、あいつはいけ好かない奴ですが、悪い奴ではないんです。嫌わないであげてください」
「……猿飛さんは、良いご友人に恵まれてるんですね」
「友人なんかじゃ……っ! っ幼馴染なだけです」
「大丈夫です、(私は嫌われてしまってるみたいですが)嫌ってなんかいませんよ。安心してください。かすがさんのような可愛い子にお願いされたら尚更、ね」
茶目っ気を含んで返してみると、想像どおり、いやそれ以上に真っ赤になるかすがさんは可愛らしい。
純粋な方なのだろう。もう少しお喋りしたい衝動に駆られながら、一言断り、持ち場に戻る。
子供達に水分補給を促し、帽子を取って遊んでいる子に被るよう注意する。
この時期怖いのは熱中症だ。
気をつけていても毎年必ずニュースで取り上げられる、いつになっても恐ろしい病。
大人でも死んでしまう事があるのだから、体の弱い子供達は殊更気をつけなければならない。
まつ先生がクーラーボックスにスポーツドリンクを準備しているし、氷やタオルも多めに用意した。
梅雨の時期と言えど、油断出来ないのだ。
よーい、どん。
お決まりの掛け声と共に保護者方が走り出す。赤組のアンカーは猿飛さん、青組のアンカーは片倉さん、紫組のアンカーは……誰だ。見たこと無い人だ。その人の後ろに黒田君がスタンバイしている。
さてさて、リレーが始まったわけだが、一番手からして何かが可笑しい。
何故重装備の人間(?)が走っているのか。
スーパーロボ●ト大戦に出てきそうな風貌にたじろいでいると、応援席の家康君が声を張り上げた。タダカツ、って言うんですか、アレ。
若干引き気味の私の後ろで、男の子たちは歓声をあげている。
園長先生に目配せすると、親指を立てられたので、構わないのだろう。
保護者席のお父さん方も楽しそうだ。
タダカツさんのおかげで紫組が大きくリード。お市ちゃんのお兄さんが活躍し、二番手に青組。その後ろを赤組が追う。あれよあれよとリレーは進み、黒田君の出番。流石というべきか第一歩目で転んだ。
大笑いする子供たちの中、三成君が激昂している。
あとで黒田君には絆創膏をあげよう。
先にアンカーへバトンが渡ったのは青組。髪を振り乱し走る片倉さんの姿は鬼気迫るものがある。すぐに赤組。猿飛さんは見た目通り足が速いようで、半分走ったところで片倉さんを抜いた。猿飛さんの背中を追う片倉さんの姿に子供達が怯えている。そして、紫組。誰か分からない人にバトンが渡った。
凄まじく速い。
誰の保護者か知らないが、風を切って走る姿は風神の如く。
片倉さんを抜き、猿飛さんに追いついた。ぎょっとする猿飛さんの横を抜けようとするも、猿飛さんも眉間に皺を寄せながらも必死で走る。
私からの位置ではどちらが先にゴールテープを切ったのか分からなかった。
子供たちも同じようで、反応がまばらだ。
前田君の元気一杯な声がマイク越しに響き渡る。
「この勝負、赤組の勝ちーっ!」
瞬間、赤組から歓声が巻き起こった。
三成君が黒田君の腰に盛大な飛び蹴りをかましている。
幸村君は両膝をつき、上半身を仰け反らせながら武田先生の愛称(お館様)を叫び、政宗君は今にも自害しそうな片倉さんを励ましていた。
他の保護者の方にもみくちゃにされながらも嬉しそうに笑うのは猿飛さん。
かすがさんにハイタッチをせがんでいる。
「紫乃先生もやろーぜー」
はしゃぐ猿飛さんにハイタッチをねだられ、我ながら律儀に返した。
手品師向きの大きな手が、軽やかな音を立てて触れる。
嬉しげにヘラリと笑んで離れる手を掴んで、引き寄せた。
手が、熱い。それも、尋常じゃないくらい。
失礼、と一言断り、額に触れる。帯びた熱に確信した。
「まつ先生! クーラーボックスと、タオルお願いします!」
「はい、すぐにお持ちしまする」
「え、ちょっと紫乃センセ? 俺様大丈夫……」
「駄目です」
失礼しますと皆さんにお辞儀し、肩にかけていた冷却タオルを猿飛さんの首にかけ、そのまま保健室まで手を引いた。
簡易ソファに腰を下ろしていただき、まつ先生が持ってきたスポーツドリンクを飲むよう促す。
言われるがままに嚥下する猿飛さんの目はとろりと眠気を帯びており、目の下に朱が混じっていた。
経験上、この症状は熱中症によるものだ。
子供達には気を配っていたが、保護者の方にまで気が回らなかった。
己の思慮の甘さに反吐が出る。
「よく、気づいたね。我ながら上手に隠せてたと思ってたんだけど」
「熱中症を我慢する人なんて聞いた事ありませんよ。倒れたらどうするつもりだったんですか」
「俺様がそんなヘマするわけないっしょー?」
へらへらり。笑う猿飛さんは、一見健康そのもの。
ひらひらり。両手を振る猿飛さんが底に抱えているものは分からない。
「本当は家に帰って安静にしていただきたいですが……、嫌そうですね」
「うん、嫌」
「では仕方がありませんね。まつ先生、お任せしてもよろしいですか?」
「はい、まつめにお任せくださいませ。猿飛様、昼食の時間までこちらで絶対安静でございまする。よろしいですね?」
「え、競技始まっちゃ」
「よろしいですね?」
「は、はい」
「大谷さんと片倉さん、かすがさんにはお伝えしておきますのでご安心ください。では、まつ先生よろしくお願いします」
にこやかに手を振るまつ先生と、呆然とする猿飛さんにお辞儀し、グラウンドに戻った。
幸村君の居る年中さんの午前の競技は残り一つ。
猿飛さんは残念がるだろうが、午後には親子競技が残っている。
それが出られないとなると猿飛さんはかなり落ち込まれるだろう。
担当する学年の子の競技が始まるまでの間、大谷さんと片倉さん、かすがさんと黒田君に猿飛さんの容態の説明。
テントからはみ出して見学していらっしゃる保護者の方を影のある場所へ促し、水分補給を呼びかける放送をした。
暇だからと松永さんに職員室へと連れ込まれそうになりながらも、なんとか年中さんの競技に間に合った。
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