▼ どうあがいても運動会(前編)
日にちは六月九日、土曜日。大安の日。
時刻は朝の6時。
場所はふうりんかざん幼稚園、グラウンド。
今日は(子供達が)待ちに待った運動会の日だ。
懸念していた雨は降らず、空は快晴。雲ひとつ無く、風も穏やかだ。
絶好の運動会日和といっても過言ではないだろう。
職員総出で運動会の準備をしている中、例の保護者の姿もあった。
子供の活躍を記録に残すべく、撮影のベストポジションを勝ち取る為だそうだ。
保護者三方は大分早い例だが、他の親御さんも大体七時にはちらほらと来られ、早い時には七時半に満員ということもある。
だが6時というと本来なら門も閉まっている。なのに何故保護者三方がいると言うと。………言うと。
……私が入れました。面目ない上に、申し訳ない。
一応武田園長先生の許可はいただいている。
他の教員の方もお人よしで朗らかな方が多いので、快くとまではいかなくとも許していただいた。
それに、もう一人例外がいるのも原因だろう。
武田先生は元より文句を言うことはないだろうが、それでも誰一人文句を言えないでいるのは異常。
しかし、それが松永久秀相手ならば異常も日常へと変わる。
人懐っこい前田君が一切目をあわせようとしていないし。
いくら別の幼稚園の園長先生とは言え、部外者なのに涼しい職員室で寛いでいるのも松永さんだからの一言で説明がつく。
白髪交じりの黒髪を頭の天辺で結わえ、高そうなスーツに身を包んだ松永さんは、優雅に足を組み、カップに口を付けた。
アッサムティーの柔らかな匂いと、焼きたてのマドレーヌの優しい甘い匂いが鼻腔をくすぐる。思わず大きなため息を漏らした。
きっと扉を開けた時からこちらに気づいていたであろう松永さんは、今私の視線に気づいたかのような仕草で、視線を紅茶から私に移した。
鼓膜を直接震わせる、低く穏やかな声。
口元は緩やかなカーブを描き、笑みを作った。
「私の事は気にしないでくれ給え。此方は勝手を言った身。邪魔する気など毛頭無いよ」
「かしこまりました。では、遠慮せずマドレーヌをいただきます」
「君は人の楽しみを搾取する趣味があるのかね」
「無きにしも非ずですね」
相変わらずいい声してるなぁ。
しみじみと声に聞き入りながら、マドレーヌに右手を伸ばすも、松永さんの左手に阻まれてしまった。残念。
目を細める松永さんに早口で「(半分は)冗談ですよ」と弁解するも、何故か手を離してくれない。
にこり。笑う松永さんにつられ、私も笑ってみるも効果はなし。
運動会の準備は前日の内にほとんど終わっているが、ここで油を売っていいとは限らない。
調子に乗ってしまったのは私だけれど。
「あの、まだ準備が残っていますので手を離していただけますか」
「安心したまえ。私から話をつけよう」
「……十分間、休憩をいただいたんです。その間だけならば、お相手しましょう」
松永さん相手に逃げられるとは思っていない。
それでも仕事は仕事だ。例え保護者に脅され従うことがあっても、子供たちを悲しませるわけにはいかない。
前の幼稚園でも松永さんには振り回されてばっかりだったなぁ。
なんとか手だけでも離してもらおうと力を込めるも、松永さんの指はびくりとも動かない。
表面上だけでもニコニコと笑うも、内心舌打ちをしている事も松永さんにはお見通しなのだろう。
近くにある顔には、目元を中心に笑い皺があった。きっと昔からこうやって笑ってきたに違いない。
水面下の攻防戦を繰り広げていると、職員室のドアが開いた。
誰でもいい。助けてくれ。
状況を打破すべく、第三者に助けを求めようと振り向くと、将来眉間を中心に皺が刻まれるであろう片倉さんが立っていた。
「おい、わんにゃーパラダンスんときの政宗様の詳しいポジションについて聞きてぇんだが……松永ぁ?! なんでてめぇがここに!」
「お知り合いなんですか?」
「ここで右目に逢えるとはね。何、旧友だ。気にせずともよい」
「友になんざなった覚えはねぇ!」
「彼女が怯えているよ。卿も良い年なのだから、直情的な性格を直したまえ」
「てめぇは……っ」
松永さんにも怯えている事に気づいていただきたい。
気づいていながらの態度なんだろうけども、ごつごつと骨ばった細長い指を絡められ、ぞわりと背筋に悪寒が走る。
子供たちのものとは違う、節ばった大きな手。
それも私の肌を確かめるかのようにねっとりと触れるものだから堪ったものじゃない。
私の反応を楽しんでるのか、松永さんの喉がクツと鳴ったのが聞こえた。
足を組みなおし、片倉さんにも見えるように繋いだ手を上げる松永さんは根性が捻じ曲がっている。
一瞬ビンタしようかだなんて考えてすいません。
こんな教育者ですいません。
「今、私たちはお楽しみ中なのだ。邪魔しないでくれたまえ」
「おい、先生。いくら男運が無いからって松永相手はやめておけ」
「松永さんとお付き合いする勇気も無謀も持ちえるほど若くないので無理ですねー。申し訳ありません、松永さん、本当にすいません。手に力込めないでください」
「ったく遊んでねぇで来い。政宗様のご勇姿をおさめるためにも先生の力が必要だ」
ん? あれ? 片倉さんの言葉に妙な引っかかりを感じるが、空いている左手を引っ張られ、更に松永さんが右手を離さないことにより生じた亀裂によって、些細な事を気にしている場合ではなくなってしまった。
片倉さんは私をグラウンドに連れて行こうと引っ張り、松永さんは私を引きとめようと手を掴んだまま微動だにしない。
子供に両手を引っ張られたことならあるが、成人男性に引っ張られるのは初めてだ。
ふと知り合いが、幼い頃に自分の親と姉に両腕を左右から引っ張られ、肩を脱臼してしまった話を思い出す。
確かに子供は急に引っ張られてしまって脱臼するケースは多い。
だけど、大人だって引っ張られて脱臼するケースはあるのだ。
しかも大人の脱臼は子供の脱臼と比にならない苦痛が伴う。
嫌な予感が頭をよぎり、冷房がかかっている涼しい部屋の中にいるというのに背中を汗が伝う。
このまま、両肩が外れてしまったら。
運動会には参加できないだろうし、先生や保護者の方々にも迷惑をかけてしまう。
子供たちを悲しませてしまうかもしれない。
傷害事件等と通報されたら運動会が中止になる危険性だってある。
段々力が強まっていくのを感じながら、一つ深呼吸。
お二人にそれぞれ視線を合わせるようにし、上ずりそうになる声をワントーン低く吐き出した。
「恐れ入りますが、お二方離していただけませんか。片倉さん、すぐにグラウンドに向かいますのでお待ちください。松永さん、仕事に戻らないといけませんので失礼いたします」
「では、また後で」
「うるせぇ。さっさと帰りやがれ」
堅気とは思えない鋭い眼光に怯むことなく再び紅茶を楽しむ松永さんにお辞儀し、先に部屋を出た片倉さんを追った。
早足で部屋を出て行った筈の片倉さんが、扉のすぐ近くで待ち構えていた。
両腕を前に組み、眉間に皺をたっぷりと寄せた片倉さんの顔は目を入れられた達磨のように険しく、迫力がある。
驚いてあげそうになる悲鳴をなんとか寸前で飲み込んだ。
「申し訳ございません。お待たせしました」
「……別に怒ってるわけじゃねえ」
「え!? どう見繕っても鬼か般若にしか見えないお顔ですよ!?
……あ、すいません。完全に失言でした。般若は女性ですよね」
「違う」
「政宗君のわんにゃーパラダンスの時のポジションについてですね。途中振り付けの関係で位置が変わりますので、その時その時の詳しい位置関係をお伝えします。猿飛さん、大谷さんも一緒にお伝えした方がよろしいですか?」
「……あぁ、よろしく頼む」
乱暴に後ろ髪をかき乱す。はらりと落ちた前髪を後ろに撫で付け、片倉さんは猿飛さんと大谷さんの元へ歩いていった。
背中を追うも、早足で歩くので身長差の関係もあり、駆け足になる。
ちらりと少し振り返ってこちらを見た片倉さんは舌打ちをし、頭を引っつかんできた。
「もうちっと早く歩け」
「え、なんですか。臓器売買でもされちゃうんですか」
「なんでそうなる」
「……申し上げづらいのですけれど、今とてもおっかない顔をしていらっしゃいますから。三角頭もタイラントも怪力屍人も裸足で逃げ出しますよ」
「あいつら元々裸足だろ」
「よくご存知で」
やっぱり片倉さんもゲーマーですか。
少しだけ表情が和らいだ片倉さんに解放され、ぐしゃぐしゃに乱れた髪を整える。
「紫乃せーんせ、おはよう」
「おはようございます。お弁当作り、大変だったでしょう。お疲れ様です」
「あは、全然平気。俺様体力あるから」
「三成も真田の半分、いや四分の一でも食べてくれればよいのだがナァ」
右頬に手を沿え、ため息をつく大谷さんに、猿飛さんが苦笑いする。
猿飛さんの手にはどう見ても一人分ではない大きなお弁当が三段。
聞いてもいないのに、保護者三方と子供三人分のお弁当を作ってきたのだと説明してくれた。
実年齢より幼い笑顔を浮かべて自慢する青年に悪態をつくほど私も性悪ではないので、素直に賛辞の言葉を述べた。
つい最近湿気に嘆いていた橙の髪は、今日はワックスで自然な形に跳ねている。
比較的カラッと乾燥した空気により、猿飛さんの髪の毛はボリュームを取り戻していた。
普段との違いと言えば、カーゴパンツとお揃いの迷彩柄サンバイザーをつけていることぐらいだろうか。
片倉さんは来た当初サングラスをかけていたのだが、悲鳴をあげてしまった私を見て、ばつが悪そうに外してしまっていた。
今は白のポロシャツに濃いベージュのチノパンと、シンプルな服装だ。
ちなみに大谷さんは長時間外に出るためか、ツバの大きな帽子にフェイスカバー。
麻で繕った着物の下には長袖のシャツを着ている。
初夏とはいえ、今日の最高温度は28度。
三成君の少食よりも、大谷さんが熱中症で倒れないか心配だ。
全ての競技を計算に入れた場所取りを完了し終えた保護者方が、一旦子供たちを迎えに家に帰るのを見送り、無事運動会を終えられることを必死で祈った。
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