終
久しぶりに踏んだ武田の地。
部屋を見ると女中さんが約束通り毎日掃除してくれたのだろう。
目に沿って丁寧に掃かれた畳。隅々まで見るが埃も綺麗に取り除かれている。
敷かれた布団には皺一つなく、寝転がるとふかふかの感触を伝えてくれた。太陽の匂いに包まれる感覚に目を瞑る。
換気をしてくれたのか空気も澄んでいる。
す、と息を吸うと、何故か泣きたくなった。
乾いた目に感情だけがせり上がっていく。
嬉しかった。純粋に喜びが漏れる。
何カ月も帰ってこなかった人の為に、部屋を整えてくれた女中さんの優しさが嬉しくてたまらなかった。
噂好きの女中さん。才蔵や佐助との関係を危ぶんだり、武田さん……お館様との関係を取り持ってくれたり、幸村を何人かで取り囲んで私との関係を問いただしたり。
熱い兵士さん。一緒に武田道場で取っ組み合いしたり、私が女ってことに未だ気づいていなかったり、だれが一番大きな声で叫べるか競ったり。
可笑しくて笑いが零れた。
朝が来るまでの時間つぶしをする、牢のように感じていた布団を初めて居心地良く思った。
最後になるのにやっと気づくなんて。
体を起こし、布団を撫でる。掌を押し返す布団の感触に微笑み、隅に置かれた制服を手に取った。
久しぶりに袖を通す着物以外の服。
下着を身につけ、セーラー服を着、胸のリボンタイを結び、ニーソックスを履いた。
鞄を肩にかけ、学校に向かう支度を終える。
先ほどより軽い足取りで広間に向かった。
中ではお館様達が待っている。すす、と障子を開けると、笑顔で皆が迎えてくれた。
お館様。幸村。佐助。才蔵。仲良くしてくれた兵士さん、女中さん。
刻一刻と近づく別れ。
やり残したことを終えれば、私は居なくなる。だが、武田の地を踏むことを選んだ私を、誰も止めないでくれた。
お館様がゆっくりと目を細める。近づくと頭を撫でられた。
太くて短い指に分厚く大きな掌。日に焼けた肌は太陽に愛された手だ。
長くなるけど、聞いて? 尋ねれば、無言で微笑んでくれた。
「皆と会えない間、色んな人に会った。相変わらず化け物と呼ばれて、大名達を嫁にして、好き放題させてもらった。
利用されたり、優しさに戸惑ったり、大事な仲間をたくさん殺して、チャラにして、大きな戦を起こすことで人を守ろうと馬鹿な真似もした。
今だから言えるけど、この世界は偽物だと思っていた。感覚は無いし、媒体を通して知っている人達は架空の人間のように見えて、私を知っている人が一人も居ない世界は私の見ている長い夢なんだって。
でも、皆必死に生きてるんだよな。死んでいないから、とりあえず生きていた私と違って、何かの為に生きることにしがみついている。
辛かった。ただただ消えてなくなりたいと願いながらも、そんな人達を殺して生き返るなんて。ずるずると現実から逃げていたんだ。
一緒にいれば機会があると思ってたのに、どんどん大事になっていくしさ。
ありがとう。こんなにも幸せをくれて、本当にありがとう」
たくさん言いたいことがあったのに、話せば話すほど舌が回らなくなる。
でも一番言いたいことは言えた。
もう一度頭を撫でてきたお館様が感慨深げに口を開いた。
「黒兎はワシの自慢すべき娘よ。利用をするような真似をしてすまんかった。
様々な人間に会うことによって成長したようじゃな。
生きていても、死んでいても、苦しい旅じゃったろう。
黒兎を大事に想いたくなかった。初めに出会った時、黒兎は随分と弱々しい目をしておったな。どんな目に遭っていたか知っていたのに、自分のことばかり考えておって、遠ざけてしまった。
じゃが、お主を支えてくれるのはわしらだけじゃなかった。良い友を見つけたようじゃな。
……旦那を見つけるのはもうちょい後であってくれ」
茶目っ気溢れる笑みを零したお館様に笑いながら頷く。
「短い間だったが、この幸村、しかと黒兎殿の魂感じたでござる。時には良き好敵手、時には友人、時には敵として。黒兎殿と過ごした一時は今も胸で燃えております。
俺は、黒兎を信じて良かったと思っている」
ありがとう。同時に呟き、笑った。
謝ったときに殴られた頬の痛みを今頃になって感じる。
最後に握手をすると、虎の魂を感じ取ったような気がした。
「一分だけ、忍やめるよ」
佐助の言葉に首を傾げると、思いっきり抱きしめられた。
「……あんたのこと、そこまで嫌いじゃなかったよ」
ぎゅう、と力強く抱きしめられ、服がしわくちゃになる。
恐る恐る背中に手を伸ばすと、更に力がこめられた。
顔を胸に沈めている為、どんな表情をしているのか伺うことが出来ない。
きっかり一分間。正確に時を計っていたのか、佐助は名残惜しさを一寸たりとも見せることなく、離れた。
「最後まで勝手な奴。達者でな」
「ありがとう、才蔵も元気でね」
短い言葉だが、才蔵らしい。
その後、女中さんや小姓さんとも一人ひとり挨拶をし、別れの言葉を告げた。
中には涙ぐむ人までいて、思わず執着しそうになった。
「最後に言い残していたことがあったんだ。いい?」
「なんじゃ?」
「……ただいま」
偽物だと思っていたから頑なに言えなかった。
家だと認めたくなかった。認めてしまえば元の世界に帰りたくなくなってしまうから。
今はそんなことはない。お館様の言うとおり、少しは成長したのかな。
驚いて目を丸くする皆。少し遅れておかえりとの声が上がった。
満面の笑顔で。照れくさそうに。声を張り上げて。
端々と耳に届く声は耳触りが良い。
「さてさてお別れの時間です。運が良かったらまた会おう」
門を出、屋敷が見えなくなるまで歩いた。
旦那様になりました。化け物になりました。友人が出来ました。大切な人たちです。ですが今日でお終いです。
待っていた神様の手を取る。
“私”はいなかったことになるんだ。
は、と息を吐くと、何故か涙が出てきた。
ボロボロと零れる涙を止める術が分からず、嗚咽が漏れる。
目覚めた場所は病室だった。病院独特の匂いと、腕に繋がった点滴。
真っ白な空間を切り取ったような部屋を見渡すと、お母さんが部屋に入ってきたところだった。
目覚めた私に気付き、目を見開く。
泣いている私を抱きしめて、良かった良かったと何度も言われた。
急いで病室に入ってきた先生に事務的な質問をされ、首を振る。
聞いた話では列車内で倒れて、丸々二週間意識がなかったそうだ。
外傷はないし、CTを取っても異常はなし。心臓や脳に障害があるわけでもない。
ただただ眠り続けていたらしい。
長い夢を見ていたと薄く笑った。
念のため、今日一日入院して、明日退院ということになった。
今までの話は夢だったのだろうか。
戻ってきて、暫く。文明の機器、平和な時代に改めて感謝し、戸惑い、慣れ。
あの頃の体験が想い出へと押しやられていく。両親からの虐待も一切無くなった。なにもかも、夢だったみたいだ。
帰宅路を歩きながら、考える。
元の世界に戻ってくると、あの世界に関する物は全て存在していないようだった。
ゲームも漫画もアニメも無くなっている上、友人に聞いても無双じゃなくて? と返される始末。
帰ってきた世界は知っていた世界とほんの少し変わっていた。
再び目を開き、俯く。とぼとぼと歩く私は一見落ち込んでいるように見えるかもしれない。
ふと見知った顔とすれ違った。
振り返ると相手もつられるようにこちらを向いた。
目が合ったのは懐かしい顔。
疑問よりも先に足が動く。顔が綻ぶ。口を開いた。
初めまして
――久しぶり――
出てきた言葉はどっちだったか。
終