参拾肆
澱んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、大きく深呼吸をした。
毒霧の中では愚かな行為だが、化け物の私には関係ない。
今姉川に居るのは、浅井軍、雑賀衆、豊臣軍。
信さんが単体で攻め入るとは考えられないから織田軍も居る筈だ。
みっちーも毒霧の中、人を切って楽しんでいるのかもしれない。
濃姫にも会いたいなぁ。ボインボイン。人妻のボインみたいなぁ。
おっと、脱線してしまった。
この戦は実際ならば織田軍と浅井・朝倉軍の戦いだ。
それに豊臣軍が無理やり介入している。雑賀衆もまたしかり。
歴史上、雑賀衆は織田軍によって壊滅させられかけたから、会わせたくなかったんだけど、この際それは置いておこう。
豊臣軍の狙い。織田・浅井・雑賀の頭を潰すこと……か。
しかし一縷の疑問が残る。
この疑問さえ解決すれば、気兼ねなく動けるのだが。
布越しに呼吸していた市が膝をついた。青ざめた顔に、舌打ちをしたくなる。
時間がない。後のことを悩んでいる場合じゃないか。
今出来る事を今しなければ。
ずっと本陣に居ても仕方がない。
一箇所にかたまらず、だが離れすぎないよう、そして壁に近づかないように雑賀のおっさん達に言うと、了承してもらえた。
崩れた門の隙間から這い出ると、矢が一斉に私めがけて飛んできた。
……安易に本陣の外にあいつらを放り投げなくて本当によかった。
矢を全身で受け止めながら、ため息を漏らす。
落ちた橋を一瞥し、一、二歩の助走で地面を思いっきり蹴れば、向こう岸に着地する事が出来た。
大量の矢でお迎えしてくれたのはガス対策として頑丈そうなマスクをつけた豊臣軍の兵士たちだ。
冷たく見やれば、小さくひるむのが見えた。
一人真ん中に佇む男だけが肩を竦めるだけで、前に一歩進み出る。
白を基調とした南蛮風の服は戦場で見るには危なっかしいほど軽装で、手に携える伸縮自在の刀は私を何度も殺めた危険な代物。
顔全体を覆うガスマスクによって表情をうかがうことは出来ないが、軽やかな声から判別できる顔は笑顔だった。
「ねぇ、どうやって助けるつもりだい?」
「毒霧を出す針を壊す。分かりきった事を聞くなよ」
「たくさん撃ったし、分かりづらい場所に隠してあるよ。彼らがそれまで保つかな。それに、僕たちがその間何もしないと思う?」
「じゃあ、」
腕を掴み、無理やり引き倒せば、周りに居る兵士たちに串刺しにされた。
だが、半兵衛の首を掴んだ手が離れる事はない。
「吐けよ。吐かないならお前だけじゃなくて、秀吉も三成もよっしーも黒田のおっさんも、ここに居る豊臣軍の兵士全員殺す」
「出来もしないことを言うんだね。今日はじめて会った人間を助ける為に、半月以上関わった人間を殺すことを君は出来るのかい?」
「……っ質問が好きみたいだな。確かに殺すことは出来ないけど、痛めつけることなら出来るよ」
利き腕を折る事ぐらいなら、罪悪感や喪失感に襲われることもないだろう。
男のものにしては華奢な腕に手を伸ばせば、半兵衛は尚も笑みを浮かべた。
「そうだね。そろそろ質問ばかりじゃなくて答えを出そうか。僕たちは彼らの命を奪うつもりで毒を使ったわけじゃない。彼らは人質だ。ここまで言えば、誰のための人質かおのずと分かるだろう?」
「質問をやめるんじゃなかったのかよ」
「ほとんど答えを出しちゃってるけど、やっぱり答えは君自身の声で聞きたいからね」
そう言われると意地でも言いたくなくなるな。
地面に押し倒した半兵衛に馬乗りになったまま、心の中で舌打ちをした。
体の弱い半兵衛からマスクを奪うことを躊躇うのは優しさではなく甘さ故だ。
薄い胸板越しに浅い呼吸が伝わる。半兵衛をここで殺してしまうのは容易い所業だし、豊臣軍を皆殺しにするのも又然り。
私にはそれだけの力がある。
唯一邪魔する心さえなければ、簡単に殺せるのに。
「私への人質を殺すつもりはないんだろ? 人を殺すことが出来ない臆病な化け物にどんな条件をつきつけるつもりだ?」
いい子だね。と、楽しそうに笑う半兵衛に、今度は声に出して舌打ちをした。