弐拾

目が回るほど忙しい。目が回ることも疲れることもしない体でも、朝から晩まで働かせられ、それが十日も続けば心が疲弊するのも仕方のない事だろう。
洗濯や食事の準備、甲冑や武器の手入れ、着替えの手伝い、その他雑用を諸々。
動物に嫌われる体質の為馬の世話は他の人に任せてもらっているが、それでも仕事は多い。
早朝から始まり、夜中まで仕事は及ぶ。絶対旦那の仕事じゃないよ、小間使いの仕事だよ。
私は執事でもメイドでもないんだぞ、ちくしょう。
しかも挙句の果てにはペット扱いかよ。ハードなSMに読者もドン引きだろ。

浅井に進撃するべく動いている兵士たちの数は十万。
朝倉と同盟を組んでいる浅井もひとたまりないだろう。
織田に潰される前に配下に置いておけば、何かと使える軍だ。
史実だと浅井長政は織田に負け、自害したと伝えられている。
ならば織田と戦う前にどうにか他の軍と同盟を組ませるか、配下に置かせないと。

ごしごしと力強く、だが破らないように丁寧に。
陣から近くの川で洗濯をしていると、ふと影がかかった。
楽しそうな笑い声が頭上から振ってくる。


「褌まで洗わせられるとは不運だな!」

「おっと手が滑ったぁ」

「おい! その破ったの小生のじゃないか!?」

「褌の一枚や二枚でぐだぐだ言うなよ。ノーフンとか涼しくていいだろ」

「どんどん小生のだけ破いていくなぁあああああああ」


黒田のおっさんが止めるのも聞かず、びりびりと縦に褌を裂いていく。
嫁だから優しくするなんて思うなよ。
亭主関白宣言って奴さ。黒田のおっさんの手をかい潜りながら、一枚だけ良心として残してやった。
ぺらりと着物を捲ると、薄汚れた褌が見えた。
ちゃんと毎日洗っている筈なのに、なんでこんな汚れるんだよ。嫌な想像しちゃうじゃないか。
表情を読み取ったのか、物を大事にする主義なのだと言われた。
長年同じ下着を使っている時点でちょっと引いてるよ。ごめーんね。


「ほら、可哀そうだからそれも破いてやるよ」

「可哀そうだなんて思ってないだろ!」

「あはは、嫌だなぁ。着物も破いてほしいならそう言ってくれればいいのに」

「小生に全裸で出陣しろと!?」


それ面白い! 指さして笑えば、拳が振りおろされた。
ただの拳骨だったが、立っていた場所が悪く、バランスを崩して川に落ちてしまった。
丁度深いところに落ちてしまったらしく、足がつかない。
こんなときパニックに陥ってしまえば、逆に体は沈んでしまう。
落ち着いて陸まで泳げばいいだけの話。ただそれだけの話だった筈なのに、ぐんと何かに足を引かれた。
藻か何かが引っ掛かったのかと思ったが、どうやら違うらしい。
明らかに手の形をしている何かに掴まれ、強い力で水の中に引きずり込まれそうになる。
必死でもがくが、水の中では普段の力を出す事が出来ない。

初めは笑って見ていた黒田のおっさんも、様子のおかしい私にあわて始める。
飛び込もうにも黒田のおっさんの手にはよっしーが戯れでつけた鉄球が繋がれ、助けようにも動けずにいた。
指先は水面を叩くだけで泡沫しか生まない。顔は完全に水の中に。
完全に沈みきった私の視界に広がるは、真っ黒な手。何だこのホラー的な展開は。
忘れた筈の恐怖が背筋を這いずり上がった。
人ならざる体をこの手は気に入ったのだろうか。瞬間的に取り込まれる事を確信した。
足だけでなく体全体に纏わりつく手は、助けを呼ぼうとする口を塞ぐ。
伸ばした手は誰にも届くことなく、黒い手が愛おしげに握り返した。
この世界に来て、忘れかけていた感情が蘇る。

死にたくない。

こんなところで、こんなことで、死んでたまるか。
どうせ息をしなくても死なない体だ。黒い手を睨みつけ、足に纏わりついたものを力任せに引きちぎる。
水底から絶え間なく湧いて出てくる手から逃れるように足を再びばたつかせ、手を上へ上へと伸ばした。
と、誰かの手が私の手を握り、強く引っ張った。
途端に黒い手が怯えるように水底へと消えていく。

手を引いたのは家康だった。
人懐っこい笑みは温かく、太陽のように見えた。


「こんな浅い川で溺れるとは間抜けだな」

「いや、浅いって言っても足つかな……え?」


振りかえって川を指さすが、ちろちろと透き通った水の流れた川は多く見積もっても腰までの深さしかない。
ずぶぬれの家康と三成に陸に上げられ、大量に呑みこんだ水を吐きだした。
聞くと黒田のおっさんが助けを呼んでくれたようで、三成が先に引き上げようとしたのだが、何者かに引っ張られているかのように体が重たく引き揚げられなかったらしい。
よっしーも手伝おうとしたものの、数珠で浮上させようにも途中で割れる始末。
だが皆黒い手は見えなかったらしい。

水か唾液か分からない液体を吐き出しながら、足についた手の痣をさすった。


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