弐拾陸
???視点
神子が足掻いている一方、山の如く動かなかった武田が静かに動き始めていた。
甲斐の虎は虎視眈々と天下への布陣を敷いている。
虎の若子や、若子に仕える忍も忙しなく働き回った。
書簡を書いていた甲斐の虎は、ふと筆を持つ手を止めた。
厠で書を認めることが多い彼にしては珍しく、部屋で書き机に向かい合っている。
風林火山の字が堂々と並ぶ掛け軸の他には、かざりっけが無く、本人と比べると些か地味に見える。
目立った点といえば、本人の身体の大きさに合わせているのか、入り口は他より大きい。だが、鴨居に二つの筋が入っていることから兜が引っかかったことがあるようだ。
甲斐の虎の前には、虎の若子、二人の忍が仰々しく膝をついていた。三人とも甲斐の虎に呼ばれ、集まっている。
準備を終え、残りは甲斐の虎の合図だけ。
しかし
「羨ましいのぅ」
甲斐の虎から発せられた言葉に、三人は噛み砕くことが出来ず、暫し呆けた。
動揺を見せながらも若子は正直に真意を問う。
「お館様、どういう意味でございましょう?」
「何故あの時京ではなく、温泉を選んだのか心底悔やんでおる」
そこで忍二人は意味をパキリと噛み砕くことが出来た。
一人は京に行っておらず、だが小田原城にて甲斐の虎の羨む経験をしている。
だから三人は呼ばれたのだ。
子供のように拗ねる甲斐の虎は、未だに意味の分かっていない若子を叱り付けた。
「意味が分からぬとはまだまだ修行が足りぬぞ、幸村ぁ!」
「ももも申し訳ございませぬ、お館様ぁああああ!!」
「旦那は謝らないでいいよ。俺らが大将より先に黒兎に会ったことが悔しいだけだから」
「そうなのでございますか!?」
「その通り。ワシ、むっちゃ悔しい」
(あっさりと認めちゃったよ、この人!!)
きっぱりとお茶目に肯定する主に、迷彩の忍は何か言いたげな顔をしていたが、それを吐露することはなかった。
代わりに安芸まで遠征に行っていた刺青のある忍が開口する。
「黒兎は信玄様のことを常に気にかけているようでした。
正室は信玄様と言う場面もありましたから」
「よし、才蔵昇給じゃ!」
「大将落ち着いて! あぁ! 書簡書いてるかと思ったら、全然関係ないこと書いてるし!!
一国の主がへのへのもへじ描かないでください。才蔵、紙取り上げろ」
「承知」
長である迷彩の忍の命令に、刺青のある忍は紙を取り上げ長に渡した。
くしゃくしゃに丸め込まれた紙は後で燃やされてしまうのだろう。
自信作だったのに、と視線で訴えかけるものの無情な忍は丸めた紙を握り締めたまま。
――ちと遊びすぎたの。
甲斐の虎は苦々しく笑い、神子の顔を思い浮かべる。
怒るかもしれない。悲しむかもしれない。傷つくかもしれない。
未練がましく黒兎に忍をつけ、動向を探るような真似をするのは安芸で最後にしよう。
俯いた虎を、若子が覗き込んだ。
「お館様、悩んでおられるのですか?」
「幸村にまで悟られるとはワシもまだまだよの。気にするでない、上洛への布石だと思えば苦しゅうない。
ワシが選んだ道、ついてきてくれるか?」
「某、お館様に一生ついていく所存!」
「大将はどーんと構えちゃってよ。嫌って言ってもついていきますから」
「俺はそれ以外の道を知りません」
少々卑屈だったのかもしれない。甲斐の虎は自嘲した。
最後に神子に会えば、もしかしたら違う選択肢も出来たかもしれない。
だが、『かもしれない』だけであって、出来たとは限らない。
一つの覚悟を胸に、甲斐の虎は合図をした。
「徳川の同盟を破棄し、三河に攻め込む」