弐拾弐
夫婦じゃないんだから、いや、夫婦だ。
恋人同士ではない、いや、でも夫婦だ。
まぁ寝るつもりはないし、今日は念のために慶次の護衛もかねて番でもしておこうか。
と、襖を突然開けられた。
小姓さんが何の用だ。部屋間違えたとか、そこらへんかな。
しかし小姓は慌てることなく部屋に足を踏み入れ、襖を閉じる。
「誰?」
「軒猿でございます」
「謙信とこの忍か。相変わらず変化上手だね」
慶次の言うとおり軒猿といえば、上杉の忍のことだ。
でも何でこんなところに。まさか私の監視に?
「謙信公の依頼により、越後よりついてきておりました。早速ですがお耳に入れたいことがございます。
毛利軍の総大将以外は黒兎様のことを疑っております。間者ではないのか、と」
「ってことは当然俺も疑われてるんだろうな」
「はい。明朝、この部屋を兵士が囲むでしょう。只今その会議が行われています。
例え黒兎様が無事でも慶次様は間違いなく軟禁されると思われます」
軒猿さんの言葉にざわりと胸が逆立つ。
宥めこむも、表情に出さないようにするだけで精いっぱいだ。
今日、慶次が人質に取られたのは不味かったな。弱点を晒してしまった。
才蔵は仕方ないとして、あまり近くに人を置いておかないようにしていたのに。
あの時多少の怪我をさせてでも慶次を残していけばよかった。
悔いても遅い。慶次を安全な場所に逃がすことを考えなきゃ。
慶次は強い。一般兵士だったら束でかかっても返り討ちにされてしまうだろう。
だけど武器は毛利が預かっている上、部屋を囲む兵士の人数も甘く見てはいけない。
多少の人数なら慶次を護りながら倒せる自信はある。
しかしそれを分かっていて配置してくる筈。知恵も数も相手が上回っている。
なら相手の狙いを消せばどうだろうか。
「軒猿さん、慶次に変化出来る?」
「はい。それが最良の判断でしょう。慶次様、こちらに」
「このままじゃ黒兎の邪魔になるもんな……。ごめん」
床下に誘導する軒猿さんの手を握りながら、慶次は小さく謝罪を零した。
謝らせるつもりじゃなかったのに。
返す言葉が見つからず、首を横に振った。
「では私は慶次様に化け、黒兎様の傍におります」
「よろしく。慶次、お願いがあるんだけど良い? 文を届けて欲しいんだ」
「俺が出来ることなんてすくねーし、絶対届けてやるよ」
「ありがとう。三つあるから間違いないようにね。じゃあ、慶次。……運が悪かったらまた会おう」
「運が良かったら、な」
床下に姿を消した慶次。代理を務める軒猿さんは見事な変化の術を披露してくれた。
姿かたちどころか声や呼吸までそっくりだ。
口調をどんなに似せても、呼吸にまで個人差は出てくる。
それなのに軒猿さんは細かいとこまで似ていた。
あまりのそっくりさに不安になってくる。
恐る恐る顔を覗き込んでしまった。
「実は入れ替わっていない、なんて言わないよね」
「貴方様が不安になるほど似ているのなら、こちらとしても安心です」
「……その声でその口調はやめて」
スイッチがどこかにあるのだろうかと探してしまいそうなほど見事な切り替えだった。
軒猿さんの名前を尋ねてみたが、教えることは出来ない規則らしい。
布団の上で二人仲良く並んで座っていても距離を感じる。
胡坐をかいて話に耳を傾けている姿は慶次の形をしている、違う誰か。
名前も知らぬ他人まで巻き込んでしまった。暫く無言が続いた後、先ほど抱いた胸のざわめきを曝け出した。
「ずっと監視していたんだよな。なんで、慶次を助けなかった」
「それは南蛮の珍妙奇天烈な城での件ですか。それとも毛利の」
「どっちもだよ。どっちも、変化して近くに居たんだろ。なら……っごめん」
「何故謝るのですか。おっしゃりたいことがあるのでしょう。
謙信公から黒兎様のお力添えになるよう言い渡されています。私の力は微々たるもの。ヘタに動いては慶次様が怪我すると判断しました。
ですが元々私は使い捨ての命。気に病むことなく、お好きに使ってくださいませ」
淡々と紡がれた言葉は絵空事のように耳を通り抜けていった。
掴んだ胸倉を離し、膝をつく。悔しさが胸いっぱいに広がり、嗚咽を零しそうになる。
この人にとってここが現実なんだ。赤の他人である私に命を預けているこの瞬間まで。
赤の他人に命を捧げる軒猿さんにこれ以上怒ることは出来ず、八つ当たりに畳を抉ってしまった。
忍は自分の為に自分だけの命を使うことが出来ないのだろうか。
武将もそうだ。天下の為、主の為、自分の命を自分以外に捧げている。
現代にも仕事や趣味に情熱や人生をかける人はいるけど、テレビを通してぐらいしか見ていなかった。
この世界に来て、身近にそれを感じてしまった。
そして軒猿さんは自分の命を私の為に使おうとしている。
慶次に化けたままだったら殺されることはない。ただ、変化だとバレたときが一番危険だ。
間者だという疑いは一気に高まるだろうし、元就との関係も悪化してしまうだろう。
第一軒猿さんの命が危ない。好きに使って構わないなら意地でも守り抜いてやる。殺させやしない。
「じゃあ嫁に」
「ところで私個人の意見ですが、婚礼というのは一生の伴侶でございます。
軽々しく口にするのは軽薄な方だと思われても是非もありません。
話を遮ってしまい、申し訳ありません。黒兎様、どうぞ」
「ナンデモナイデス」
まだ日は昇らない。