拾弐
何処からという問いに武田、その前は覚えていないと頑なに答えずにいると突然名前を書けと言われた。
控えていた小姓に習字セットを渡される。
習字なんて何年ぶりだろう。墨をすりつつ考える。小学生ぶりかな。あれ、中学生でもやったっけ。
たっぷりと筆に墨をつけ、一縷の疑問を持たず素直に名前を書いた。
『蒼依黒兎』
元就と慶次の声が綺麗にハモる。
「「汚い(きたねー)字」」
「うるさい! 筆持つのなんて何年ぶりか分からないし」
「しかし、これで分かった。やはり貴様はただの神子ではないな」
どういうことだ。上座に座っていた元就は立ち上がり、半紙を掴む。
切れ長の目に見下ろされ、手に力が入る。
筆を持っていたらあっさり折ってしまいそうだ。
「何処から来たかは覚えていないのに字は書けるとは不思議だな。それに、名字。普通女子に名字は無い」
そうだ。普段何の迷いもなく名乗っていたが、この時代女性に名字はつかない。
それどころか男性でも身分が高い者でないと名字の無い世界なのだ。
身分の低い神子が名字を持つことは可笑しい。
言い訳したいが、上手い言葉が思いつかない。
実は男なんだ。……無理がある。
いい天気だね、日輪日和じゃん。……やはり無理がある。
や ら な い か。……よし、これだ!
「元就、やらな」
「ふざけたり誤魔化そうとするのは良いが前田の身柄はこちらにあるぞ」
加冷却水のように衝撃を与えられて淵から凍っていくような感覚。
動こうとした慶次の髪が掴まれ、喉元に刃先が食い込む。いつの間にか慶次の周りを忍が取り囲んでいる。
私ならば逃げることも、殺すことも、殺されることも平気だ。
だが今矛先が向けられているのは化け物の私ではなく人間の慶次。
いつか人質を取られる日が来るとは思っていた。
だからこうやって逃げてきたのに。遠ざけた分近づいてきた慶次は自業自得だ。
鍛えられた太い首には胸鎖乳突筋(耳から鎖骨にかけての筋肉)がはっきりと形を見せているが、鋭い矛先を押し返すことは出来ない。
緊張しているのか唾を嚥下するのを喉仏の動きが教えてくれた。
このままでは慶次が危ない。小十郎に喉を裂かれたことを思い出し、鮮血が舞う映像が再生された。
ぎゅ、と服を握り締める。
覚悟を決めるしかない。
「これから話す内容もかなりふざけたもんだけど、慶次に危害をくわえるなよ」
「それは聞いてから我が判断する。貴様が決めることではない」
「……私は400年ほど未来から来た」
荒唐無稽な作り話と一蹴されそうな話。
元就は表情を一切変えず、続きを促す。
「どうやって来たかは分からない。だから元就が未来に行く術は」
「未来について教えろ」
元就の思考を読む事は出来ず、文化や政治、娯楽、食事、住居。
思いついた順に説明した。一通り説明し終え、慶次を見ると刃先を向けられながらもあまりに驚いたのか心ここにあらずといった感じだ。
私は慶次を解放しろ、と視線を投げた。
まだその要求を飲む気はないらしく、微笑む元就は、自分の思い通りに進んで喜ぶいたずら小僧のよう。
「歩き神子は未来を見通すほどの情報網を持つと聞いていたが、まさか未来から来たとはな。しかしそれならば合点がいく」
薄い唇が紡いだのは答えるには辛い質問。
「天下を取るのは誰だ」