玖
北条が武田との同盟を破棄した。
才蔵の声が脳内に直接響く。
重々しく開かれた口から紡がれるは、戯言。
固く握られた拳は怒りを表し、伏せがちな目は憤怒をひた隠すように閉じられた。
北条が、武田を、裏切った?
視界がぐらりと揺れる。
まるで自分が裏切られた本人かのような感覚に陥り、北条に怒りが傾くのを感じた。
必死に平衡を守ろうと額を押さえる。
信じられない。裏切る理由など無い筈だ。
いや……、ある。
北条がより巨大な力に呑み込まれた。
または、より巨大な力を手に入れた場合に。
私はいつの間にか再び火花が散っていた二人の間に潜り込み、両手を伸ばして距離を広げた。
そして少し離れると、呆けている二人に笑いかけた。
「才蔵、小太郎。今から爺ちゃんに確認してくるけどいい子にしてろよ」
「黒兎に従う理由がない」
「悪い子はお仕置きが待ってるから」
「……肝に銘じておく」
「……」
本当は嫁を脅したくなどないが、仕方ない。
可愛くて素直な嫁に留守番を頼むと、城に急いだ。
嫁同士の喧嘩はこれで免れたはず。二人の嫁に一人の旦那。
ハーレムというより修羅場だよ。
まだ日も昇らない丑四つ時、ごろ。
四時になるかならないか、ぎりぎりの時間帯だ。
まだ誰も起きていないせいか静かな廊下を駆けていく。
爺ちゃんの部屋は分からないが、発達した聴覚が爺ちゃんの寝言を聞き取る。
飛び込むように部屋に入ると、爺ちゃんの体から魂のようなものが出ていて叫び声をあげそうになった。
こ、これはご先祖さまの魂?
それとも爺ちゃん本人の魂?
幽霊などの類はあまり得意ではない私にとって、感覚があれば気を失ってしまいそうな代物。
暗闇の中、青白い光を放ちながら寝室を飛び回る魂に負けないよう、爺ちゃんに呼びかける。
「爺ちゃん爺ちゃん爺ちゃん!」
「ん、飯か?」
「さっき食べたでしょ、お爺ちゃん。じゃなくて!
武田との同盟破棄したって本当!?」
「むぉ、誰からそれを!? もしやわしが寝言で返事する癖を知って……」
「そんな癖あんの!? 寝ている間にご先祖様の霊を呼び寄せる癖と一緒に治した方がいいよ!」
未だに魂飛び回ってんだけど!
マジで怖いよ! 私お化け駄目なんだって!!
化け物が何言ってんだ、ってつっこまれるかもしれないけど無理なもんは無理!
ちゃんと真面目に話したいのに、気が散って仕方がない。
寝ぼけ眼をこする爺ちゃんの話を信じるなら、同盟破棄の話は本当らしい。
魂を見ないように眼を瞑りつつ、爺ちゃんを問いただす。
「なんで武田との同盟破棄したんだ?」
「仕方がないのぢゃ……。わしにはどうすることもできんかった」
「もしや脅されて?」
「黒兎の言うとおりぢゃ。どんなに外堀を固めていようが、内側は脆い。
ご先祖様の活躍でわしは今ここにおる。わしの力など微々たるもの」
「爺ちゃん……」
寂しそうな声に目を開けると、ご先祖様とばっちり目が合ってしまった。
すっけすけなんですが。全体的に。
顔色悪いんですが。いや、もう、全体的に。
爺ちゃんには悪いが、障子をぶっ壊し、嫁のもとへと走った。