弐拾壱
昼過ぎ、謙信さんに旅に行きたいと申請した。
上杉に来て三週間。かすがと恋バナに興じたり、上杉の人達とも打ち解け始めた。
やはり上杉軍の人達も謙信さんの大酒飲みっぷりを心配し、直江の空気ブレーカーっぷりにげんなりしているらしい。
最後には憎めない、と零すあたり嫌われてはない。
謙信さんの周りを見渡し、酒が転がっていない事を確認する。
流石に今日は昼から飲んでいないようだ。かすがが茶を点てるのを眺める。
今日も酒の席に誘われたらどうしようと思っていたよ。
目の前に置かれた花を象った干菓子を指で弄ぶと、かすがに行儀悪いと怒られた。
茶道なんてやったことないからなぁ。
腰元に差されたふくさの折り方も何度も教えてもらったが結局覚えられなかった。
直江ですら折れてたのに! いくら不器用だと自覚があっても悔しいと思うのは私だけじゃないと信じたい。
隣で静かに座る直江の真似をすればいいとは聞いたけど、どこか敗北感を覚える。
干菓子を受け取るときも先に受け取った直江は私に小さくお辞儀した。
『お先に失礼します』という意味らしい。失礼だよ、本当!
味覚のない舌で干菓子を溶かしながら、直江がお茶を飲むのを見る。
ズズーと音をたてて飲み込まれた、ってことはそういう礼儀みたいなもんなのか。
直江は飲み口を拭くとそのまま私に渡してきた。
……回し飲みだと!?
驚いて、ワンテンポ礼が遅れる。
さっきまで反射神経だけで誤魔化してたのに、私の苦労が無駄じゃないか。
私は直江の動作を一通り真似して、お茶を飲みきった。
かすがに礼をすると、そのまま茶碗は回収された。
同時にどっと疲れが押し寄せてきた。
「謙信さん、これ何ていう嫌がらせ?」
「たびのことでしたね、みこ」
「あれ、あっさり流された? とりあえずもう寛いでいいですか」
「みこにはしょうしょうほねがおれましたか。どうぞ、あしもくずしていいですよ」
「ありがとうございまーす」
結局嫌がらせについては触れさせてくれないのか。
直江は楽にしていいと言われた瞬間騒ぎ出すし。私も対抗しようかな。
思い立ったが吉。ほぼ無意識に出る足に、今度はかすがのお咎めがなかった。
直江を蹴飛ばしたことにより、この数日の鬱憤を晴らせた気がする。
ついでに踵でぐりぐりと地面に押し付けると、なんかすっきりした。
ごめん、直江。今の私には自分を抑えることが出来ないよ。
正直ちょっと興奮してきた。
いけないものが目覚めそうな寸前。
謙信さんがゆっくりと口を開く。
「もくてきちがないというわけではないでしょう。みこはどこへむかうつもりなのですか」
どこへ。軍神からの問いに直江を踏んでいた足をどけ、両足を畳につける。
無敵なのに足蹴、と呟く直江を横目に上手く言葉の出てこない口を薄く開閉させた。
目的地のないままの旅。気ままな旅といえば聞こえはいいが、果てのない旅に意味はあるのか。
誰かのために殺す。
私に課せられた生き返るための条件。
今の私は自分の為にしか人を殺せない。
追い詰められて、追い詰められて、漸くだ。
人殺しの私に身も心も委ねれば何人でも殺すことは出来るが、それでは条件は達成できない。
例えば、だ。
私がこの世界に来て、衣食住を与えてくれた武田。
お館様を殺す誰かを殺すことができるか。もしかしたら、出来るかもしれない。
だがその誰かが知ってる人だったら。その誰かが泣きながら震える手で刀を握っていたら。幼い子供だったら。
躊躇せずに殺すことが出来るだろうか。
もしかしたらそのまま見殺しにしてしまうかもしれない。
私の『誰かの為に殺す』という行為は自分が傷つかない為のエゴだ。
……歩き神子。この役職は私に丁度いいといえば、丁度いいのかも。
武士になるにも、忍びになるにも、私には重過ぎる。
ずっと同じ場所に留まるとその分情も移る。お互いに。
「目的地はありませんが、目的はあります」
「もくてき、ですか」
す、と切れ長の目が細められた。
座ったままの謙信さんを見下ろし、私は口元を緩めた。
「謙信さん、嫁に来ませんか」