拾漆
歩き神子として、旅?
知らずに杯を落としていたが中身の無い杯は乾いた音を立てるだけ。
謙信さんは落ちた杯に興味を示すことなく、微笑んだ。
「ちくいちほうこくなどはいりません。みこのきがむいたらよるといいでしょう」
「け、謙信さん……っ!」
それって自由に旅をしていいって事だよね!?
かすがと直江も意味を汲み取り、慌てふためいた。
今回の働きの褒美だと楽しそうに笑う謙信さんに私は堪えることなど出来る筈が無い。
酒が零れることなど気にせず謙信さんに抱きつく。
「謙信さん、嫁に来てください!!」
……あれ?
思ったより柔らかい感触が。
かすがの重い拳骨によって痛む頭を抑えながら、顔を上げる。
気まずそうな謙信さんの顔。確かめるべくもう一度謙信さんを抱きしめる腕に力を込めると、かすがの拳にも力が込められていた。
「謙信さんっておっだぁあああああ!!?」
「謙信公は上杉でなく織田だったのか!?」
「変なところで切るな、馬鹿者!」
「変なところで殴ったのかすがじゃんか!」
さっき殴ったところと寸分違わぬ場所を殴ったよ、この子!
ズキズキなんてレベルじゃない、ガンガン痛む!
生理的に熱くなる目頭にかすがを睨む。
「かすがの謙信さんコンプレックス! 略して謙コン!」
「こ、こんぷれ?」
「金髪美人だし、凛々しいし、スタイル良いし、ボインだし、
体柔らかいし、気取ってないし、一生懸命だし、一途だし、おっぱいでかいし!!」
「それは貶しているのか……?」
「……」
よくよく考えたら褒めてる!?
いやでも、謙コンは貶してるよな。セーフセーフ。
何がセーフなのか分からないけど。
かすがは暫く私を見た後、頭を撫でてきた。
嬉しいけど、な、なんで?
「馬鹿な奴ほど可愛いとは本当だな」
「酷い! え、褒められ……、いや、やっぱ酷い!」
「可愛い……?」
「マジマジと見つめなくていいよ! 直江顔近い!!」
うっかり顔面を殴ってしまったけど、直江だから大丈夫、の筈。
なんたって無敵の直江だし。顔を押さえている直江は放っておくとして、謙信さんを見やる。
確認の為と開いた口を噤んだ。
謙信さんの目が悪戯っぽく細められ、白魚のような指を口元に当てられる。
何も言うな、ということか。
本当は謙信さんの下で元の世界に戻れるまで働こうと思っていた。
任務が無い限り越後から出るのは自粛しようとも。
そうじゃないとすぐにでも武田に戻ってしまいたくなりそうだから。
自分が考えていたより武田に依存してしまっているらしい。
この世界に来て初めて私を殺し、私を生かした武田軍。
謙信さんに旅の許可を貰ったお陰で、戻りたいという思いは薄れた。
いつでも会えるという安心感。
私は改めて上杉さんに向き合うと、頭を下げた。
「ありがとうございます」
トクトクと液体が注がれる音。下げていた頭を上げると落とした杯に酒が注がれていた。
口元に宛がわれ、謙信さんは今日一番綺麗な笑みを作る。
「れいはいりません。……よるはながいですよ」
今夜は眠れそうに無い。
二つ目の酒樽が割られるのを見、一人肩をすくめ、つられるように笑った。