その場から逃げるように去れば、声が追ってくることもなかった。
途中廊下で小姓とすれ違うが一睨みしただけで腰を抜かす。



もう、こいつでも良いか。



誰を殺してもいい。
なら目の前で畏怖の念を浮かべるこいつでも良い筈。
さっさと殺して全てから逃げ出してしまいたい。
何も感じられない世界。きっと夢の中なのだ。
起きてしまえば忘れる。だって夢の話なのだ。

カタカタと震える情けない肩。噛みあわない歯。
首でも千切れば死ぬだろう。と、飛び散る鮮血を想像して喉元に手を伸ばした。



「待て!」

「……かすがか」

「す、すぐに荷をまとめろ」

「まとめる荷なんて無いよ」



淡々と答える私の脇で小姓が起き上がり、逃げ出していた。
癇に障ったが、態々追いかけるのも面倒だ。



「同盟の判は?」

「既に押していた。……謙信様はお前が手を貸すのを分かっていたらしい」



流石軍神と言うべきか。少し上杉謙信の手の上で上手く転がされている気もするけど。
さっき小姓を殺して元の世界に戻ったら、同盟の件はどうなったんだろう。
お館様と謙信さんはまた敵同士になって、殺し合いをするんだろうか。

もう何も考えたくない。
帰る場所の無い世界に未練は無い。
早く殺してしまおう。
かえりたい。生き返りたい。家に帰りたい。



「かすが、今すぐ武田を出る。
謙信さんも急ぎなんだろ?」

「お前は、知っているのか?」

「いや、あ、でも知らないわけじゃないかな。
知ってるわけでもないけど」

「……挨拶しなくても良いのか」

「かすがが佐助に挨拶するんなら私もするよ?」

「なっ、からかうな!」

「私はいつでも本気に決まってるじゃん」



かすがは佐助との関係を全否定し、上杉謙信の素晴らしさを語ってくれた。
右から左に受け流しつつも、羨ましくて笑ってしまった。
暫くすると、突如口をつぐむ。
かすがは悩む素振りを見せた後、後ろを振り向き



「霧隠、……猿飛佐助、世話になったっ」



勢いよく前に向き直った。
眉間に皺を何本も刻み、こちらを睨んでくる。



「私は挨拶したぞ。次はお前の番だ!」



思わず呆けてしまった私の視線の先には木の陰に隠れていた才蔵と佐助。
そして隠れきれていない幸村。お館様。
女中さん達までいた。

は、え、なんで……?



「黒兎、挨拶無しとかありえないでしょーが」

「行ってこい。無事を祈る」

「黒兎様、私達毎日部屋を綺麗にして待ってますから」



何か、言いたいのに。
何も、出てこない。
赤が一歩、近づいた。



「黒兎殿、某は難しいことは言えぬ。
しかし! 黒兎殿を力としてみたことは一度たりともございませぬ!」

「ワシは、正直に言うと黒兎を力として見ていたかもしれぬ。じゃが、今は実の娘のように愛しく思っておる。
今回の件「違う!」



言葉を遮るように叫ぶと、皆が目を見開いた。
優しさに怯えるようになったのはいつからだろう。
温もりから逃げるようになったのは何故だろう。

武田を守るためとか大層な考えでやったわけじゃない。
だから、そのせいでお館様を悩ませたくない。
謙信さんに力を貸すのはお館様達の目の前で人を殺したくないだけ。自分の為だ。


私は吐き捨てるように叫んだ。



「べ、別にお館様達の為じゃないんだから!」



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