『セカイ』





「雷光さんが理想とする世界って、どんな世界なんですか」



 唐突な話題ではあったにしろ、僕の問いに雷光さんはいっさい驚いた様子を見せなかった。

 保たれていた静けさの中、沈黙を破る為というよりも、ふと思い付いた疑問をただ口にした。

 僕にとってもそれは至極自然な流れで、彼も同じように感じとって下さったのだろう。


 雷光さんは「そうだね」とわざと勿体ぶって考えるふりをして、笑む。



 雷光さんの仕事に対する意気込み、度を越して執着と呼んでしまいたくなるような働き方は、どこか他人を寄せ付けない威圧感みたいなものを含んでいると思う瞬間がしばしばある。

 いったい何が彼をそこまでつき動かし、どんな未来に引っ張られているのか。

 まったく恐れ多いことだが、分刀としてはパートナーという立場を頂いている僕だ。

 多少のこと、聞いてもいいのではないかなと付け上がった思いから零してしまった言葉ではあったけれど、その僅かな自尊のようなものを打ちのめされることをふと恐れてしまった僕のうろたえにも関わらず、雷光さんは僕の脳内をただ掻き交ぜて、そして心臓に熱く火を燈すような言葉をひっそり耳に落とした。

「私はね、お前が悲しまないで生きて行ける世界が欲しいんだ」

 あまりに真摯に言う雷光さんに、たじろいでしまったのは少し失礼だったかもしれない。

 何も言わない、言えない。

 言葉を吟味し、じわりじわり押し寄せる歓喜に、震えるてのひらをひたすらに隠すことしか出来ない僕を知っていながら気にすることもなく、雷光さんは「そういうことなんだ」と軽く加えて僕から離れた。

「雷光さん! あの、ぼ、僕は、その、」

 座っていた場所から腰をあげようとしていた彼は再び落ち着いて、穏やかに僕を振り向く。

「今、こうして分刀としてお供出来ているだけで、僕は十分幸せなんです。だから、雷光さんは、雷光さんのお好きなことを、あの……」

 くしゃと頭を撫でてくれたその手を、掴むことも出来なかった。

 腕が震えて持ち上がらないんだ。

 僕はいつだって、こうして受け取ることしか出来ずにいる。

「心配は無用だよ。お前に言われずとも、私は十二分にそうしている」

 微笑みとともに再び背を向けて、そのまま自室へとさがって行かれるその後ろ姿は、なぜかとても嬉しそうで、子供のように弾んで僕の目には写って。

(あ、あぁ……)

 僕が悲しまない世界というのは、貴方が悲しまないで良い世界なんです、なんて本心、唇がわななく畏れ、とてもとても言えなかった。


 誰かの幸せが、自らの喜びとなる。

 雷光さんがそうであるなら、それは僕にとっても同じことだ。

 敬愛し過ぎた敬愛、どれだけ長く隣に居ても、こうした時には容赦なく僕の背中を襲う緊張、不慣れな台詞に舌が怖じけて、伝えられなかった自分の不甲斐なさ。

 言葉にならない想い、無理に声にしようとするからズレが生じて、人はもどかしいと嘆くんだ。

 そんなふうに言い訳をしたところで、他にも何一つ形としての恩返しを渡せていない僕の身は、結局のところもどかしさの塊であるに違いはない。

 部屋を後にした雷光さんは気付かなかったかもしれないけれど、いつも僕を見て下さるその優しい眼差しや、包むような言葉にも、何一つ上手い返事が出来ない自分が悔しくて、悔しくて、貴方が扉を閉めた後、僕は少しだけ、泣いてしまった。








fin.