『空の宝箱』




 ゆきみと言い合い、いたたまれずに抜け出してきたアルヤの廊下は暗く、ここが学校内だということを疑うほどに静かだった。

 違和感というものを感じるには十分な静寂。

 相手の目論みが少し垣間見えたような気がしたけど、ちくりと刺さる緊迫の針よりも、僕にとっては暗闇に滲んでいられる落ち着きの方が身に染みる。



 一点、気配を感じて振り返ると、そこには萬天のあの先生が一人、物言わずに僕の背中に視線を刺していた。

 遭遇したのは、本当に偶然だったのだと思う。

 それでも、かねて用意された用件があることは確かだった。

 無いわけがなかった。



「……聞きたいことがある」



 切り出しは単刀直入で、社交辞令がなかったことは、人との係わり合いを最小限に抑えたい僕にとってはありがたい。

 でも、次の瞬間にはみはるの様子を聞こうとすることが簡単に想像がついたから、続く言葉を想像して気分が一気に悪くなった。



「六条とお前との間に何があるか知らないが、」



 少し軽蔑を含み、また恐れるように彼は言う。

 それは僕が死に神だからだろう。

 睨み返しても動じる様子は見せなかったが、その額に冷たい汗が滲んだのを僕は見た。



「六条の中にあるものは強大過ぎる。お前が何を望んでいるにしても――」



 そして、少し蔑む色も含んでいる。

 何も知らないくせ、勝手な想像に左右され、何かしら彼の中で固定された“みはるをそそのかした敵”という僕が、彼の胸の内に居る。

 一度観念に縛られると人を受け付けなくなる彼と、敵とみなした者は最初から人にも見えてない僕。

 根底は違えど、こいつも僕と少しだけ似ているのかもしれない。

 目的の為には邪魔な人を切り捨てたがる、排他な意識。

 ただ、行動をおこす前に足踏みをしてしまう彼の弱さと、迷っている時間の無い僕とは、やはり決定的に違うなとも思った。



「みはるはお前から逃げて来たんだ」



 そういうと、彼は急に静かになった。

 そうだろうな、そう絞るように言った声はまるで全部を知っているような口ぶりだったけど、何も知らないんだ、ということが僕に確認されただけだった。



 嫌いだ、苛々する。



 僕を助ける壬晴の行動が、全てこいつを助けることに繋がるだなんて。

 どれだけ近くに居ても、みはるに残ったこいつの影を拭うことが出来ないなんて。

 それなのに、みはるを繋いだ無意味な鎖を、唯一の宝のように握り締めたまま、離せないでいる僕は、とても愚かな死に神だ。



「お前は、ずるい。お前は、何一つ守ろうとしない。手の届くとこにあるものすら掴もうとしない」



 だからみはるは、僕の方に歩み寄ったんだ。

 少なくとも僕は、文字通り全身全霊を懸けて、彼を求めたから。

 なのに。



「みはるはもうお前のとこになんか帰らない」



 そう言って、何か言葉を発して僕を留めようとする彼を残し、逃げるように踵をかえした後で、

嘘だ、と付け加えて呼吸が苦しくなった。


 僕が居なくなった後、今僕が帰る場所にしているみはるはいつか、あいつのところに帰るんだ。


 ずるい。


 追い詰めるばかりのくせしてみはるの中から消えないあいつはずるい。



 でも、わかってもいるんだ。

 これは自業自得の苛立ちだ。

 入り込めないはずだったあの絆の内に付け込んで、みはるもみはるの中のものもいっしょくたに僕に縛り付けてしまったあの時から、

みはるはあいつを忘れられなくなったんだ。



 それでも僕に笑いかけ、僕に寄り添うみはるに、もう手放したっていいんじゃないかと思う束縛をいつまでも解けずに、

自分までも巻き込んで絡みつけている。



 本当は多分、誰より僕が一番、卑怯だった。

 だからそのツケが回り巡って来たんだ。

 だから今僕は、こんなにも苦しい。

 だから今僕は、こんなにも虚しい。



「宵風?」



 部屋から顔を覗かせたみはるをそのまま抱きしめた。

 もう骨ばかりになってしまった僕の身体は、みはるを得て充足したようだった。

 それでも心臓の辺りの満たされない感じは補えず、いくら腕に力を込めても足りなかった。



「宵風」



 小さな身体が背伸びをし、僕の背中に腕を回す、そんな彼の優しさに躊躇いながら寄り添う。

 それが錯覚とも知りながら僕は、どうにか彼を掴めたつかの間の満足感に浸らずにはいられなくて。



「みはる」



 伝えられずにわだかまりとして残る不安をどうにか横に置き、今腕の中にある小さく大きな存在の名前を呼ぶ。

 彼が迷わずに、



「ここにいるよ」



そう応えてくれたことが、少しだけ僕の心を軽くした。










fin.