『その肌に爪を立て』
「あぁ!? お前、今から来るってなんだそれ!」
けたたましく響いた携帯電話を取り上げ応えると、相手は名乗りもせずに用件だけを述べて笑った。
電話を繋いだまま慌ててリビングから出て、玄関に戻る。
身支度を済ませた宵風が丁度靴を履き終えたその場に出くわし、まだそこに居た事に安堵した。
突然出かける気配を見せた宵風に制止の声をかけている最中、電話が鳴った。
正直宵風のことの方が気がかりと言っちゃ気がかりだったが、仕事関係の電話がかかってきた可能性があるわけで、無視するわけにはいかなかった。
苛立ちながら通話ボタンを押したその向こうから届いたのは、何のことはない、「これから遊びに行っても良いですか」などと、わざと俺の苛立ちを煽ってるんじゃないかと思えるほどにあっけらかんと放たれた、雷光の声だった。
「駄目だっつってんだろ、今立て込んでんだよ!」
宵風は、電話の相手が雷光であることに気付くと、あからさまに顔をしかめた。
雷光のことは嫌ってはいないはずだし、それだけでも宵風にしてみれば仲の良い部類に入るであろう二人の関係だが、特にこいつの機嫌の悪い時は、俺の家に来ると酷く饒舌になる雷光の高揚ぶりを避けたがるのか、ふらりと外に出てしまうことが多い。
ただ俺が神経質に勘繰り深くなっているわけではない。
仕事の話にしろ、私用にしろ、大勢で話をしているときにはその場に留まっているくせ、俺と雷光、二人で話をするその場に宵風が居合わせたがらないのは、誰が見ても明らかだった。
何か余計なことを気にしているか、あるいはただの無意識か。
よくは分からない。
来るなと言ってもどうせしれっとした顔でやってくるくせ、律儀にも必ず事前に連絡を寄越す雷光もまた、理解しかねる存在だ。
ヤツ特有の俺への嫌がらせを試みているのか、またはあいつの訪問を宵風が不快に思うことを知っての、逃げる時間を作るための純粋な配慮であるのか。
そう、あいつも、自分が来るその場に宵風が居たがらない事に気付いている。
にも関わらず、痛くも痒くもなさそうに揚々とやってくる神経の図太さは、凡庸な人間である俺の理解の範疇を遥かに超えている。
宵風も雷光も、俺にとっては意味の分からない言動ばかりだ。
しばらく連絡も寄越さなかったりするくせに突然ふらっと現れる雷光も、何日かこの部屋に居座ったと思ったら、唐突に居なくなって、仕事で関わる以外の消息を完全に絶ってしまう宵風も。
二人仲良く俺の不安を煽りやがる。
奴等そろっての得意技だ。
宵風に至っては特に、時折もしかしたらもう帰って来ないかもしれないなどという、絶望にも似た焦りを俺の身体に有無を言わさず押しつけてくることがある。
あいつが、流す涙も無いような悲痛な顔をする時は特にそうだ。
そう、例えば、今日みたいに。
何も目に映すことが出来ないといったように、固く目を閉じた宵風のその変化の直後に宵風は突然に腰を上げた。
気付いた俺は一際強い焦燥感に襲われ、だからこんなにも互いが互いに対してムキになるくらい、さよなら、さよならじゃねぇよを繰り返していたのだというのに、そこに雷光のヤツがやってくるとなったら。
宵風がここを出て行く事が確実なものとなってしまう不安が俺の中にはあった。
だから“行くな”を繰り返すのと同じくらい必死に、“来るな”を俺は叫んでいた。