『いつか死んでしまう君』





 メモだらけの雪見の部屋にパソコンの稼動音、雪見が言葉を紡ぐ指の音。
 私は部屋の隅で息を潜めながら書物の字を追って、雪見と同じ空間に居る、ただそれだけの時間に浸る。

 片手でキーボードを叩く雪見は何食わない顔でパソコンに写った文面を眺めているけれど、傍らに置かれたマグカップを手に取るときに一瞬訪れる静けさは、雪見の片腕がもうそこには無いんだということを私に思い出させて不意に胸が痛んだ。

 雪見はずっと、左手で休息を取りながら右手だけで器用に言葉を書き続けるのが癖で、キーボード音が途切れることなんて思えば今まで僅かな時間しかなかったと最近気が付いた。
 私はその雨音のように室内に流れ続ける音がとても心地よくて好きだったけれど、それでもいつも雪見の手が止まるときを待ち遠しく思っていたのは、パソコンの音が止んだら、それは私がわがままを言って良い時間が始まる合図だったから。

 だから今でも錯覚することがある。
 音が止んで私は条件反射のように雪見の方に顔を向けて、でもそこにはまだ真剣な面持ちで机に向かっている雪見の姿がある。
 私は落胆した心を押し込めながらただ呆然とその横顔を見つめ続けた。

 こんな風に雪見の姿を見ていると、その向こう側に彼がとても大きなものを失ってしまっているだなんてまるで思えなくて、隠の世の流れに巻き込まれて雪見や仲間がたくさん傷つきながらあらがっていたことも、まるで夢を見ていたみたいだ。

 平然と日常を過ごす雪見の強さに少しだけ惑わされながら、雪見は今つらくはないのかな、とか、悲しくないのかな、忍の覚悟って言葉で全部ごまかしてしまっていないのかな、そう考えてみる。
 でも所詮、五体満足の人間が満足でなくなるときの絶望や喪失感というのは他人が勝手に推し量れるようなものじゃないし、かわいそうだとか申し訳ないとか、そんなの他人が決めることじゃない、それも分かっているけれど、少しは分かち合っても良いんじゃないかな、なんて。

「雪見」

 立ち上がって側に寄って、とても待ってはいられなくなって後ろから雪見の首に抱きつくと雪見が手を止めた。
 忙しいときは邪魔をしない、そう自分で決めていたルールを今初めて私自身が破ったことに雪見も気がついたんだろう。
 文句も言わずに仕事を中断した雪見は私に向き直って、ただ不思議そうに「どうした」と言った。
 私は何も言わずに正面からその肩に顔を埋めて目頭を押さえる。
 雪見もやっぱり黙ったままただ少しだけ戸惑いながら、私の背中に左腕を回した。

 抱きしめられたときの片側が寂しいだなんて不思議なくらい少しも思わなかった。
 例え両腕が無くなっても、その声があれば、眼差しがあれば、そして最後に胸に響くその心の音さえあれば、私にとって雪見が雪見でいることに変わりはない。
 人ってもしかして、それだけで十分に完全なものなんじゃないか、って。

「あー」

「何だよ」

「信じない」

「何を」

「自分が今を幸せだと思ってるなんて全然信じない」

「何だそりゃ」

 本当はずっと何も変わらない永遠が欲しいと思っていた、そんなくだらないことを考えていたこと自体が今は嘘みたいだ。
 世の中の全てが移ろうものだというのなら、危険な世界に身を寄せる彼らの何かが変わってしまう前に物事の全てをこの手で永遠に紡ぎ盗ってしまうというのも一つの幸せだな、そう本気で思っていた。
 実際、雪見がその腕を誰かに取られたときは悔しくて、憎くて、憎悪して、どうして私は雪見が誰かに傷つけられる前に自分のものにしてしまわなかったのか、どうして私の日常が邪魔される前に永遠にしてしまわなかったのかと散々すさんだ後悔もしたけれど、それでも雪見が生きていて嬉しいと思う、当たり前のようでいて酷く矛盾した感情。
 複雑な想いの理由はとても簡単で、変わらない永遠なんかそれこそまやかしで、例えそれがいつ無くなってしまうとも知れない不安定で苦悩に満ちた未来であっても、新しい時間を共に積み重ねて生きることでこそ、よりかけがえのない本当の幸せが築かれるんだって心の底では分かっているということ。

「あったかい」

 雪見は右腕がなくても雪見は雪見、私より少し高い体温も、コロンをつけない身体の優しい匂いとか、意外とやわらかな髪の毛も、何も変わったりなんかしていない。

 雪見は私が泣いていることに気が付いているだろうか。
 背中に回した手で私をなだめて、ただ何も特別なことは言わず、特別なこともせずそこに居続けた。
 私はただそれだけが嬉しくて、胸がつぶれてしまうくらい幸せだった。

 肩口に乗せたまぶたから涙の熱が伝わってしまいませんように。
 もしも伝わってしまっているなら、これが悲しくて泣いてるんじゃない、嬉し涙なんだって誤解を生まずにきちんと伝わりますように。

 腕をなくして平気な顔して毎日を過ごしているなんて、もし雪見が多くの苦しみを隠しているというなら、貴方のその痛みの少しでも共に背負うことは出来ますか?

「雪見、お願いがあるんだけど」

「何だよ、改まって」

「私を雪見の右手にして下さい」

 ある日突然私の知らないところで片腕をなくした雪見、いつか雪見自身も、そんな風に居なくなってしまうときが来るのかな。

 それならいっそ、貴方の身体の一部になって、同じ時を同じだけ過ごせたら良いのに。

 肩から離してぺこりと下げた顔はきっと、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった汚いものだったと思うけれど、雪見はただそんな私を見つめて、

「どういうプロポーズだそりゃ」

 意外なくらい嬉しそうに笑ってくれた彼に向かって、「返事は」なんて野暮な質問、私は絶対、聞かないからね。




fin.





***
タイトルはさちこさんに頂きました。
ありがとうございました!