休み休み階段を上がってきた足の疲れ、屋上を吹き抜ける風の強さ、致命傷になるくらいの高さまでやっては来たが、下方に見る裏路地の光景は人の表情見えないまでも、四肢のうごめく様子を認識出来るほどではあった。
 見上げた空と同じ、深い黒色をした髪に、茶色のコート、時折覗く、黒い服。
 積もり始めた雪の上で際立って見えるその肢体が、もう一人の誰かに殴られているらしい。
 私がその様子を見守ってしまったのは、とくに興味が沸いたとかそう訳ではなくて、今自分が飛び降りてしまったら下がどうなるか、そのことを想像してしまったからだ。
 自らの結末に誰かを巻き込めるほど、私の死に価値があるとは思えなかった。

 自分の末路を誰かに見られるというのも気にくわない。
 出来れば、路地裏に住む猫のように、突然ふと姿を消して、誰の目にも留まらないまま居なくなってしまえたらいい。
 その上に雪が降り積もり、私の過去と同様に、雪解けと共に朽ちてゆく、至福。
 だから私は足下でちらちらと、まるで季節外れの蚊が飛ぶようにうっとうしく揉め事を起こしている彼らに、早く去って欲しいとだけ願っていた。
 反面、どんなに些細ないざこざであれ、弱いものに向けて力を誇示する人間らしさも、それに対し抗う人間らしさも、厄介だと思うと同時にどちらも目を伏せたくなるほどに眩しいものだと私は感じた。

 殴られている側の動きが徐々に少なくなって行く。
 結局、力あるものに、ないものはやられてしまう。
 それが暴力であるにしろ、権力や金であるにしろ、覆せない理は確実にここにも存在している。
 私は金網を握り締める指に力を込めた。

 そろそろ終わりだな、そう思ったときだった。

 表通りに佇んだまま、顔だけを裏路地に向けて静止した影が私の視界の隅に入った。

 女――いや、男?

 関わるか、関わらないかを決めかねるように路地裏の光景をただ横向きに見据え、静止したまま揺らめくこともしない。
 見て見ぬふりをして通り過ぎるだろうか。
 そうして暫しの間躊躇っていた彼の足が、何かを決意したように動き出し、一歩目を踏み出した後は一度も止まることが無かった。
 走るでもない、しかしゆっくりと歩み寄るのでもない、一定の速度で真っ直ぐに二人のもとへと進み、

「――っ」

 血飛沫が見えた。

 赤黒い濁流が雪に滲んでいく様子は、この高さからでも十分見て取ることが出来た。
 たとえ眼前ではなくても、初めて見る大量の血液に足がすくんだ。

 死んだ、いや、殺した……?

 正義や誠意といったものはまるで感じさせない彼の行動。
 助けられたその人にゆっくりと差し出された手を見て、最高のエゴイズムだと私はその行為に奥歯を噛みしめた。
 生真面目な人間がモラルを守ろうとするがゆえにモラルを越してしまった、そんな感じ。
 野犬に狙われた子猫一匹救ったところで、失われた野犬の命の意味は?
 それに例え悪を滅ぼしたって、拠り所無くさまよう可哀相な猫全てを救ったことにはならない世の中じゃないか。
 彼が救われるのならば、私が救われない理由は――

 待って。

 返り血を浴びた服を雪で洗っている二人に向けて、私は今まで生きてきた中で一番の大声を上げる。
 指の先ほどの大きさの彼らは一瞬止り、周囲を確認したようにも見えたがこちらを見上げることは無い。
 私は慌ててフェンスをよじ登り、階段に向かう。
 針金は皮膚に食い込み肉を裂いたが、やはり痛みは感じなかった。
 階段を下りる寸前でエレベータが目に入り、点灯しているくすんだ数字とその傍らに書かれたこの階数を見比べて、私は叩くようにボタンを押すと数秒遅れて到着したエレベータにそのまま飛び乗った。
 しばらくの沈黙、ワイヤーが静かに伸ばされて行く音。
 到着を知らせる短い音声と共に開かれた扉。
 手垢で曇ったガラスのエントランスの向こうに、等身大となった二人が過ぎるのを見る。
 駆け寄った私は重い扉を力の限りに押し開けて、外へと出た。
 そして路地裏をあとにする背中を二つ、十歩進んだその先に見つけた。
 私は生まれて初めて、去り行く誰かを呼び止める。

「待って!」

 色素の薄い髪を揺らした彼は、驚いたように私を振り返り、黒髪の少年は、泣きじゃくって腫れたままの目を大きく見開いてこちらを見つめた。
 少年は立ち尽くし、男は寒々しいサンダルで器用に雪を踏みながら、私に一歩一歩近づいた。
 表通りから少年が殴られる様子を見ていたときと重なる姿勢で、しばらくの間、何かを吟味するように私を上から見つめ、そしてそっと左手を挙げて、私の頬を包んだ。
 彼の熱に触れられ、私は初めて、自分の頬が冷え切っていることを知った。

「わ、私も……」

 言い終える前に視界から男が消え、気付けば足下に頭があった。
 驚いて退こうとした私は、その時初めて自分が裸足であることを思い出す。
 忘れていた感覚が蘇るように痛み出すつま先はかじかんでよく動かなくて、軟らかい雪にもつまずきそうになってしまう私のかかとを彼は手に取った。
 コートから取り出した和式の手ぬぐいを一枚引き裂いて、男は私の足に巻き付けた。
 器用な手つきでとても不細工な靴を、私のために作ってくれた。

「おいで」

 ただ頬に触れ、足に触れただけの彼は、なんの素性も知れない、説明することもままならない私に無条件に微笑みかけて、そう言った。
 まるで、そうすることが当然であるかのように。

 足下にもう一度目を落とし深い暗闇の代わりに地面があるのを確認した私は、一つの人生が終わりを告げた余韻をかみ締める。
 今まで流される事でしか息をしてこなかった私に、その綺麗なエゴイズムで、どうかもう一度生きる意味を。

 歩みを止めたハイヒールは、屋上の片隅に。