どうせ飛ぶなら、綺麗な空がいいと思った。

 陽が沈むと同時に舞い始めた雪に誘われ外へ出て、まだ人の手の触れていない、より澄んだ、より清らかな純白を求めて雑居ビルの階段を私は上がる。
 降り始めの雪が舞い込んで濡れた鉄の板をパンプスで踏めば、ヒールは水を弾きながらカツカツと音を立て、時間を数えるかのように秒読みを始めた。

 懐かしむほどの過去はなかった。
 そういった常人じみた感情を湧き起こす思い出なんて代物は、振り向いてもこの目に捕らえることが出来ないくらい遥か後方に置いてきてしまっている。
 雪が降り積ればそれはいずれ形も分からないくらいに綺麗に覆い隠されて、恐らく、誰の目にとまることもなく、そのうち雪解けと共に消えてゆくのだろう。
 探す者も居ないと思うのは、私はそういった人間関係を築いては来なかったから。

 唯一心を分けたと思った恋人は、二週間前、四畳半の部屋を出て行ったきり帰って来なくなった。
 質素だけど健康的な朝ご飯を一緒に食べて、映りの悪いテレビを見る、普段と何一つ変わらない一日の始まりを過ごした日の朝のこと、剥がれた塗装を隠すように掛けてあった一張羅の背広を着込んで出て行った彼は、それ以来帰っては来なかった。
 シワ一つ無い仕事着を着せれば新宿オフィス街のど真ん中を歩いたって胸を張っていられるような風貌を湛えたその人が、自信に満ちた顔つきで部屋に残す「行ってきます」の言葉に返事を返すのが好きだったのに、まさかあの日言ったのが最後になるなんて。
 朝帰りや一晩抜けてその翌日に帰宅などということはしばしばあったから、異変に気付いたのは彼が居なくなって三日目の朝だった。
 おかしい、そう思いながらもう一晩を独りで過ごし、四日目の朝には目覚めと共に諦めが訪れた。
 私が探しに行って、見つけたとして、それで帰ってくるその程度の覚悟なら、初めから姿など消さないだろう。
 見た目は立派な彼だったけれど、家族も貯金も何もない私より、より将来に繋がりそうな女のもとに転がり込むヤドカリのような男としての姿を想像するならそれはとても容易い。
 道徳的に問うことを控えて社会の中で賢く生きるために選んだ行動であるなら、まあ妥当な選択かもしれないなと納得してしまった私に、その後を追いかける気力も、頬を叩きに出向く力も生まれて来はしない。
 もういいと溜め息を吐き、馬鹿みたいと自分を評価して、次に思ったのは、朝ご飯の卵焼き、譲るんじゃなかったなという後悔。お腹空いた。

 今まで二で割ってきたボロアパートの家賃を頭に浮かべ、自分の年齢と性別を考慮し、仕事の掛け持ちの可能性を考え、ああ暮らせないこともないなと思ったけれど、広がる虚無感が“やる気”ってもの全部を吸い取っていった。
 だいたい、生まれつきと言ってもいいくらい根本的に常識や普通という言葉を理解する能力に欠けている私は、人の作り出した世の秩序ある美しさを理解出来ず、未来に対し特に興味もなく、生きる気力もなかったのは幼いころから変わらない。
 深く考えれば考えるほど、どうしてそんなに必死になってまで呼吸をしなければいけないのか、分からなかった。
 以前も同じようにして路頭に迷い、そんな状態のままで外をふらついていた私に「好きだ」と声をかけ、恋人として生きる意味を持たせてくれたのが例の恋人であったわけだけれど、彼にとって逆は同じにはならなかった。
 彼が居なくなれば、私には行くあてもない。
 それよりも生きるあてが無い。
 たどり着く結論の先に、ビルの屋上、安直だろうか。

 事故防止のための金網は張られていても、故意に登ることが考えられていないらしい古いフェンスは、針金が手に食い込むことを気にしなければ易々越えることの出来る高さだった。
 鉄の刺を握り締めた五本指の上に、崩れた雪の結晶が落ちては、消える。
 穴の空いたてのひらには痛みも感じないし、寒暖を捉える感覚もとうの昔に消え失せてはいるけれど、どうやら人として生を保つだけの体温は未だ留まっていようだと、肌の上で解けた液体を見つめた。
 反面、体内を巡る液体はどうやらみんな凍りついている。
 だって、ここにまで来ても私の目からは未だ涙も零れない。
 思えばそれは今に限ったことじゃない、昔からずっとそうだったような気もするのだけれど。

 フェンスの一番上を跨ぎ、ぶら下がるように足を投げ出して、幅三十センチほどの足場に慎重に着地。
 死に行く者が形振り構うなど滑稽だ、そうは思いながら、自分が最後にたどり着いたその地に人が歩みを止めた証を残して置く心境というのも、その時は分かる気がした。
 安価だけど屈強に折れることなく私と共に歩んできたこのハイヒールを執着地点に置き去りにして、歩みだけがこの地に残る。
 矛盾はあるけど、彼が別れの最後に背広姿を選んだのと同じように、私も意地を張るように靴を選んだ。

 空になったパンプスの横に立った私は、両手を広げて背後の網に手を絡ませ、その名の通りの命綱に身を任せて足下に広がる深い谷を見た。
 こうしていることが当然であるという平坦な気持ちが重く絡みつくようにうごめいて、深いはずのビルの谷間ですら酷く平たく見えた。

 目を閉じ、ひとつ数える。
 少しだけ、瞼に流れ始めた血液の存在を感じる。
 ふたつ、目を開き、ビルの隙間を雪が舞うその景色をもう一度噛みしめる。
 みっつ――

 その時、一度離しかけた手を再び私が握り直してしまったのは、見下ろした谷の最奥に、生きる人間の抗いの舞台が展開される様子をこの目に確認してしまったからだった。