街灯が薄暗く街を照らす街並みは昭和という陰を帯びた時代のイメージがそうさせるのか、世界の何処を探しても陽の当たる場所なんてないのではないかと思わせるほどに何処も彼処もあせた色合いをしていた。
 僕は人々の笑顔も道も建物も全てが寂れて感じられる街を一人彷徨い歩く。

 風魔の屋敷を後にして十日あまり、呑まず食わずの時間を過ごし、目眩のし始めた自分の身体を抱え、それでも里への帰路を踏まずにより街の中心へと宛てなく足を進めた。
 このまま干からびてしまえば良いと思った。
 いくら必死に生きたとしても、どうせ僕は取り残されるのだろうと思ったら人と関わることにも疲れてしまった。
 だから里を出た。
 それでも僕に根付いた人の感情は再び鳥の姿となって人里から離れて山に籠もることを拒絶し、それが本能であるように人の温もりを求めて街を歩かせる。
 深く関われば自分が痛い目を見るというのなら、少しも彼等には手を触れず、見守るように時を共に過ごし、同じ空気を吸っては吐き、いずれ人の世の真ん中で疲れ果てて眠りに落ちることが出来たらきっとそれが一番良い。
 たったそれだけの繋がりだとしても僕は、人間の生きる波の中に存在したいと願わずにはいられなかった。
 人は人と関わらないと生きていけないというけど、僕ももう人に焦がれずに生きていくことは出来ないと思った。
 僕は、人だろうか。


 外来の物に染まり始めた街の風潮も見慣れたものとなった今の時代は、洋式の建築も街灯も、この不穏な世界情勢がもたらす波風に晒されて外郭から徐々に埃を被りつつあった。
 服も身体も、心も擦り切れてしまったような僕みたいな風貌の者が街を徘徊する光景も今は珍しいものではない。
 そうしてまばらに往来する人の影に紛れるようにして、宛もなく路地に流れ込んだそのとき、その片隅に店を構えたいわゆる当時の「カフェ」と呼ばれる店の中に、着古されたドレスをまとって座っているその人と目があったのは、本当にただの偶然だった。
 隣に腰を据えている男の杯に酒を注いでいる彼女が檻の中から退屈げに外を眺める動物のように、何か焦がれたものを諦めた眼差しを窓の向こうに向けていたのはいずれ彼女の想いに気付いてくれる誰かを捜し求めていたのだとしても、幸か不幸か……いや、不運にも僕がその眼を見つけてしまったのは、少なくとも必然だったとは言い難い。
 僕はただ、彼女のその鈍い光を持った瞳に惹かれるようにして、理由だとか意味だとかそういうものを全て意識の外に追いやり、栄養不足で容量の減った脳みそが動かすおぼつかない足取りを引きずって、気が付けば引き寄せられるようにその扉を押し開けていた。

 僕が店に近づいたのを目にした彼女は入り口にゆったりと歩み寄り、扉の鈴の音が鳴ると同時に僕を迎えた。
 僕の何分の一も生きてはいないだろう、近くで見ればまだ年若い幼い笑みを持った小柄な女性だった。

「どうぞ」

 哀愁や人の闇を逆手に取って、楽しまなければ損だと笑うような、もの悲しい風刺画に似た笑みを湛えて彼女は僕を中へ迎え入れた。
 それは時代の象徴と言うより、いつの時にも必ず社会の表裏に伴う一般市民の闇の現れだったようにも思うけれど、もしかしたら世情など関係なく、人間の根底にある底なし沼に彼女が片足を踏み込んでいた証だったかもしれない。
 もう影を装って生きることにも意味を見いだせないから沈んでしまいたい、それでも人の温もりから遠ざかることが出来ないから、未だ何かに片手をかけて縋っている。
 そういう意味で僕は、彼女が僕と同種の者なのではないかとその時からすでに何処かで感じていた。

「何でも良いから、飲むもの……」

 相手をしていた男を他の女給に任せて僕の横に立った彼女は、返事に一拍間を置いて、それから他の店員に注文を言い付けて自分も沈黙した。
 促されたソファに腰を下ろすと、ここに着くまで常人には考えられない程無茶苦茶に酷使してきた身体が沈むように落ち着いて、そして僕の足は動かせなくなった。
 死ぬことはないのに、極限まで疲れや飢えを感じることが出来るなんて馬鹿みたいな話だ。
 僕は憤る余力もなく冷静にそう考えてから、運ばれてきたグラスを受け取り水を飲む勢いでお酒をあおった。

 そういえば、この不死の身体にもアルコールの中毒症状というものは現れるのだろうか。
 酒の毒素に犯されて狂うのも悪くはないかもしれない。
 いっそそのまま往生してしまえたら、沼底を彷徨い続けているような僕の人生も最後は笑い話になって良いかもしれないなどと、あり得ない冗談を頭に浮かべて笑う。

「ウイスキーはお好きですか」

 無難に声をかけてくる彼女の言葉に躊躇って一度黙殺し、自分は何故ここに居るのかを問い直して、怖ず怖ず「嫌いじゃない」と控えめな返事を返した。
 彼女はそうした僕の愛想の無い態度を平然と受け止めて、落ち着いた笑みを口元に刻んだ。

「……面白いことでもあるの?」

 不意に僕がそう尋ねると、彼女は飲み干されたグラスに蒸留酒をつぎ直して口を開く。

「寡黙な方と居ると、落ち着きますね」

 少し嬉しそうに言った彼女の手から二度目のグラスを受け取って、僕は今度はゆっくりと一口、本当は特に美味しいとも思えない辛いだけの琥珀色の液体を口に含んで転がした。
 そういうものかな、と思って僕には良くは分からなかったけれど、今は確かに嫌な気持ちではないなとも感じた。

 酷使し続けた末の空っぽの身体に酒を流し込みはしたけれど、いくら呑んでも不思議と熱くならない身体を僕は抱えた。
 体内で蒸発をしたアルコールが、逆に僕の体温を奪っていっているようにすら感じられる。
 酔えないらしい体質は、ましてそのまま眠りにつこうなんて不可能なのだとまた一つ自身の身体のことを思い知らされて、たかが冗談一つにも虚しくなった。

 周囲を見渡せば、世の表側で溜め込んできた埃やら何やらをお酒と女性を使って洗い流そうとする人々の姿が目に映る。
 人はこうして、自分の中で抱えきれない感情や処理しきれない出来事を影の世界に吐き捨てて、そうしてまた朝の日の中に戻って行くものなのだろう。
 もとから社会の裏側に生まれて生きている僕にはそうした人間の感覚というのはよく分からなかったけど、では隠の世の者とも違う、ここにいる彼女達は何者なのだろうかと少し疑問を抱いた。
 表の社会で生活をする人間のための、生きる亡霊のようなものかもしれない。
 そう思考が辿りついたのは、案外間違ってもいないんじゃないか。
 人の闇を喰らう、か。

「貴女たちは、どうしてここで働いているの?」

 随分と長い間言葉も交わさずに居続けた僕が発した声に、彼女は一瞬どう答えるべきか悩んでから、「客のため」などありきたりな答えを僕が望んでいないことを理解して、困ったように笑った。

「生きるため、かしら」

「生きるため?」

「お金は無いし、この時世じゃ楽しいこともない。時間ばかり持て余しているんですよ。だから、生きる時間を埋めるために」

 周囲と一線を引いた上空から世間を冷ややかに見つめるような目は、自分の存在を虚しいものだと認めている眼差しで、僕はその眼に少しの親近感と、それから安心感とを抱いていることに気が付いた。
 それは僕が人とは違う存在なのだと思い知らされるようになってから、初めて得た安堵だった。

「僕も、時間を持て余しているよ」

 同じですね。
 そう言いたげに無言でほんの少し微笑んだ彼女は、卑屈さも何も感じさせない無垢さを漂わせて、僕も同じように屈託の無い気持ちで彼女と共に笑んだ。
 自分に課せられた宿命全てのことを忘れてただ、与えられた時に途方にくれながら同じように生きている、一人の人間として。